―08―

 二人は屋上への階段を駆け上がりました。途中で光莉が足をもつれさせましたが、真弥はそれすら顧みず走りました。


 最上階で彼は、封印されていたはずの扉が開かれ、その向こう側に広がる赤光しゃっこうに染まった世界と、血潮のように紅い落陽を目の当たりにしました。

 絵画のような情景の中――真陽瑠は地平の果てへと歩みを進め、肩までの高さのフェンスを乗り越えた末に、断崖の淵にたたずんでいました。


「――――よせぇ、真陽瑠!」


 真弥は喉を切り裂くように声を発し、真陽瑠の元へと走りました。

 視界が波打つようにゆらめいていました。

 世界は色を失い、音は消え、時間は雪のようにゆっくりと流れ落ちました。

 真陽瑠は振り返りませんでした。空いている左手で柵をつかんで自身を支えながら、そのタイミングを計っているようでした。

 そして、うなずくような仕草を見せた後――柵から手を開放しました。


 まるで、コンパスで描いたようにきれいな軌道で、真陽瑠の身体は静かに夕日に向かって傾いていきました。

 その真陽瑠に向かい、全力で走りこんできた真弥は――姿勢をかがめながら殴りつけるように右手を突き出します。

 柵の隙間から伸びた手が、真陽瑠を――

 ――右腕以外は、はげしく柵に激突することになりました。頭部はその最たるもので、衝撃音からほどなく鉄柵を血が滴りました。


 しかし右手は……真陽瑠の左手を握りしめていました。

 真陽瑠は落下に逆らう左手を軸にくるりと反転し、その時、ようやくお互いは顔を見合わせました。

 真弥から見た真陽瑠は、まるで、何が起きているのか理解していないようにぽかんとした表情をする……ふだんどおりの人騒がせな妹でした。

 そのとぼけた顔を見たら、たった今までのことが夢のようで……真弥は愛くるしさとともに笑いがこみ上げてきました。

 そして、彼女と再会した日のことが脳裏によみがえりました。

 喪服の母親と、その傍らに付き添う制服の少女――。彼女の本性を知る人間からは、総ツッコミを浴びるであろう、清楚で真面目そうな出で立ち。

 それがどうして……次に自分を訪ねてきた時の、あの打って変わった軽いノリ――本性を露わにした、みんなのよく知るあの真陽瑠。

 おバカで、騒々しくて、世話やきで、時には本当にうざくて……でも、一緒にいると楽しくて仕方がない、たったひとりの妹――。


 ……そう、あの日決めたのです。これからはずっと、一緒に暮らしていくのだと。

 だから、こんなところで二人が別れることなんて、あるはずがないのです。


 真陽瑠の目には、鉄柵の向こうで頭から血を流し――痛みからか目に涙をにじませて――でも、なぜか顔はうれしそうに笑っている、不思議な真弥が映っていました。

 血をぬぐってあげようと右手を上げようとしましたが、腕が重たくて叶いませんでした。なんだかとても冷たく、哀しい重みでした。

 反対に、真弥と繋いだ左手はとても温かく……もし、どちらがいいかと問われたら悩むまでもなく、この温もりとともにありたいと答えることでしょう。

 でも……その繋ぎ目は、少しづつ解けかけていました。

 真弥はそれに気づいて、もう片方の腕を伸ばそうとしましたが、鉄柵と密着した姿勢からでは、真陽瑠に届く位置に下ろすことはできませんでした。

 唯一、真陽瑠をつなぎとめる右手に、よりいっそうの力を込めます。


 ……絶対に……死んでも離すわけにはいきませんでした。

 真弥の額から流れる血が少しずつ腕を伝い……二人を繋ぐ手の結び目まで流れました。


 ……真陽瑠は、最後まで自分の置かれた状況がわかっていないようでした。

 ただ、目の前の真弥が、今まで見たことがないくらい、とても辛く、哀しそうな顔をしていたから……。

 だから……彼女は、優しく笑いました。真弥に一瞬、今、彼を追いつめている苦しみの一切を忘れさせる、おだやかな笑みで――。

 

「……大丈夫だよ。あたしがついてるから……」



 真弥が屋上についてから――二人にとっては、永遠のように長い、ほんの十数秒たらずの出来事でした。

 やがて、息を切らして階段を駆け上がってきた光莉が見たのは――屋上のフェンスの前で血を流して横たわる真弥――ただ、一人でした。


「……う……そ…………」


 ……目眩いをおぼえました。身体を開け放たれた戸に寄り添わせ……それを伝いに、膝からくずれました。

 真弥は……呼吸をすることが出来ませんでした。息を吸おうとしても空気は肺まで到達することなく、彼の身体は自らを窒息させようとしているのかのようにも思えました。

 それでもかまいませんでした。実際――彼は呼吸より優先して、叫びたかったのです。遠くの地面に横たわったまま動かない妹に、呼びかける声を張りあげたかったのです。それなのに、声帯に叩きつける空気が得られないでいました……。


「……ひ……る……」


 ようやく、わずかながら声を絞り出しました。それを機に肺が機能し、焼けた胸に空気が流れ込みました。


 直後――乾ききった喉で、血を吐くほどに叫びました。

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