―03―
それは、すぐ視界に入りました。
もしも対象が静止していたのなら、夜の闇と同化して気がつかなかったかもしれません。
ですが、その黒い塊は人の形を成してうごめいていたので、嫌でも目に留まりました。
黒尽くめの服装――などではなく、まさに全身が黒一色の影法師のような存在でした。塊とは固まりにあらず、ホールイベントでスモークに投影した立体映像のようで、触れられる実体があるようには思えませんでした。
真陽瑠はまばたきもできず、この不可解な存在を凝視していました。
唯一……それが、人でないことだけはわかりました。
(ほ、本物の……幽霊だ……)
もう、幻聴や気のせいなどと誤魔化せません。とうとう人ならざる存在をはっきりと認識してしまったのです。
鼓動が早まり、呼吸もしだいに荒くなっていきました。やがて、極度の緊張状態に陥った真陽瑠は――。
パシャッ。
……こともあろうに、その人影を写真に収めていました。
室内を照らすまばゆいフラッシュが炊かれたあと……彼女は携帯を構えたまま、自分のしでかしたトンデモ行動に唖然としていました。
「あ、あはは……あたし、なにやってんのかなぁ……? われながら、こんなバカな子だったとは……」
擁護のしようがありません。さておき、憂慮すべきは週刊誌ばりに突然激写された影法師の反応です。再び闇が満ちた室内で、ゆっくりと振り返り……真陽瑠へと近づいてきました。
「ああ……ヤバ……!」
あわてて後ずさりします。そのまま壁際まで下がると、室内が見えなくなってしまいました。
……息を飲み、その場で様子をうかがいます。対象を目視できなくなったことで、未知への恐怖からその場を動けなくなっていたのです。
この後、目の前の戸が開いて影法師が姿をあらわす――という、通常工程どおりのピンチを目の当たりにすれば、それが本腰を入れて逃げ出すきっかけでした。
しかし、予想に反して戸は開かれることなく――代わりに、ベニヤ板からなにやら黒いモヤがにじみ出てきました。それが、あの影法師だと理解するのに時間はかかりませんでした。
「――――ひっ!?」
予想だにしない事態に真陽瑠の腰が砕けました。壁に張り付いてガタガタと震える彼女に、影法師はゆっくりと近づいてきます。
「あ……あの、ごめん……さっきの怒ってる……?」
足音もなく、まるで月面を歩行するように迫ってくる人影――。
ついに目の前が闇で覆われた時、真陽瑠はようやく尻もちのままジーパンで床を乾拭きしながら逃げ出しました。
しかし、逃げ込んだ先は階段の踊り場。またすぐに背中が壁にぶつかります。影法師も当然追ってきて、さきほどの状況のくり返しとなりました。
さらに、今度は逃げるにしても、階段を昇るか降りるかしなければなりません。いまだ、がくがくと震える両の膝は、彼女を支えて立つことができませんでした。
「うっ……ひっく……ひっ……ふえぇ……」
ここで、さすがにキャパ超えしたようで、半べそ状態になってしまいました。
「……うぐっ……ひっく……怖いよぉ……ママ……真弥ぁ……」
もはや小学生です。まあ実際にかなり怖い状況なので仕方ないのですが……。
すると、そんな真陽瑠を前に、影法師は一瞬、
「? ……ふぇ……?」
しかし、一抹の望みを抱いたのもつかの間、再び影法師は真陽瑠へと迫り、今度こそ彼女は追い詰められてしまいました。ここまででしょうか……。
「ご、ごめん……怖すぎる……。さすがにもう耐えらんない……限界だから……」
真陽瑠はなにかあきらめたように、そう前置きしてから……。
「とりあえず、叫ぶね……」
校舎に少女の甲高い悲鳴がこだましました。
直後、その声にびっくりしたのか、呼応するように上の階から、「うわわぁぁ!」という、おもしろい悲鳴が聞こえ――ほどなく、何者かが階段を駆け下りてきました。
状況が把握できる階の折り返し地点でそれは足を止め、天窓から漏れる夜光を背に真陽瑠たちを見下ろします。
黒い長袖Tシャツと、対照的な白いスカート。左の肩からポーチをたすき掛けにし、手には見た目こそレトロチックなLEDランタンを携えるのは――真陽瑠が探し求めていた少女でした。
「――怪談ちゃん!」
「――ま、真陽瑠さん!? え? ちょっ……なんで――」
悲鳴の主が真陽瑠だとわかり動揺しましたが、彼女に迫る影法師に気がつくと、戸惑いを振り払い、両者の間に割って入ります。
そして、ポーチに手を入れ、取り出したのはいつぞやの除菌スプレー。銃を撃つように右手に構え、トリガーに指をかけました。
「ごめんなさい」
ノズルから放たれた霧状の水滴は、相変わらず校内にあってはならない酒の芳香を従えながら、影法師へと降り注ぎ――接触と同時に、白い炎を発しました。
(火ぃぃ!?)
炎上は一瞬でしたが、さらに間髪入れずに乱射される清酒により、影法師からは絶えず焔が立ちのぼりました。
光そのものが具現化したようなこの白炎――影法師と同様、本来は人の目が捉えることのない超自然の産物なのか、通常の炎が発するはずの放熱がありませんでした。
さらに、煙も臭いもないことから、『燃やす』という火の最大の特性すらも備わっていないように見えました。
それでも、確実になんらかのダメージを与えているのでしょう。影法師はあきらかにひるんだ様子で後退を始めます。
――そろそろか……と、光莉はいつものパターンどおりポーチから小瓶を取り出し、中に入っている自称殺虫剤の塩を一握り、手に盛って投げつけました。
あぜんと見つめる真陽瑠の脳裏に、あの日、光莉が階段の踊り場でとった謎の行動がフラッシュバックします。
記憶の
(そうだ……あの時も……)
炸裂した塩の一粒一粒が、白き火花となって弾けます。清酒による炎上が瞬間的だったのに対し、塩は個体が完全に燃え尽きるまで、花火のようにいくどかまばゆく発光、発火しました。その光と炎に包まれ――
――記憶の映像の中で、影法師がまるで煙のように消失したのとシンクロし、目の前の人影もまた、姿を消していました。
光莉はしばらく周囲をきょろきょろと警戒したあと、大きく息を吐いて長シャツの袖で額をぬぐいました。
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