―04―

「どうぞ」というおだやかな声にしたがい入室すると、今までデスクワークをしていたと思しき久は、すでに丸椅子を回転させこちらを向いています。

 どうやら真弥を覚えていたようで、予期せぬ訪問客に顔をほころばせました。


「ああ、あなたは光莉と同じクラスの――名前は、真弥さん。真陽瑠さんとは双子なんだそうですね。言われてみれば、たしかに似ていますね」

 二人の面識は初日に少し話しただけですが、いろいろと伝わっているようです。

 さっそく、来客用のソファーへとすすめられました。


 ソファーもですが、観葉植物があったり、水槽に熱帯魚が泳いでいたり、校内の一室と思えないほど、リラックスできる空間になっています。

 保健室のような簡易カーテンもあり、閉じれば面談中は外からのぞけないようにもなるようです。


「今日は……その、真陽瑠がおじゃましたりして、迷惑かけてないかなって思って……」

「迷惑ですか? とんでもない。昨日も準備を手伝っていただきましたし、なにより、光莉の友だちになってくれて感謝しています。――コーヒーと紅茶、どちらがいいですか? アイスにもできますよ」

「あー……いいです。明日の準備で忙しいだろうし、そんな長居するつもりないんで……」

 遠慮しましたが、結局、テーブルにはアイスコーヒーが置かれました。

 同時に、久は真弥の正面にあるひとりがけのソファーへと腰をおろします。


「――そうなんですよ。予想以上の反響で開業が前倒しになりましてね。ぼくみたいな、急に他所よそから来た人間を頼りにしてくれるのは、ありがたいことなのですが」

 世間話がてらにそんなことを言って笑います。

 真弥も付き合って愛想笑いをしましたが……昨日の夜と同じです。なんだかそれが、気味の悪いことのように感じられました。

 そんな思いをひた隠して、しばらく、たわいもない会話のやり取りを続けましたが、話のネタが尽きかけたころで――ふと、それを口にしました。


「……けど、みんな、どんな悩みを相談しに来るんですかね……?」

「そうですね……予約の段階でおおまかな事情を打ち明けてくれる方もいます。カウンセリングでは相談内容を口外しない、守秘義務というものがあるのでお話できませんが……――」

 まあ、それは当然だろうと思いました。

「――ただ、悩みというのは本当に人それぞれです。真弥さんにも、今、大なり小なり悩みはありませんか?」


「おれですか? おれは……悩みというより……」

 自分で、奇妙な言い回しだと思いました。

 まるで、悩みではない『なにか』はあるみたいです。

 あるとすれば……『違和感』とでも言うのでしょうか?


 ――違和感? なにに対しての?

 

 きっとそれは、ここに来た理由に結びつくものでした。

「あの……」と、真弥は口を開き――。


「……四月に、ここの生徒が屋上から飛び降りたの、知ってますか?」


 唐突に、そう切り出しました。

 久は一瞬、表情を変えましたが、落ち着いた声で「はい」と、それを認めました。

「先生が学校ここに呼ばれたのは……多分、あの事件が関係してるんじゃないかって思ってます。生徒の悩みを聞いてくれる専門家がいれば、もう二度とあんなことは起きないんじゃないかって……そんなふうに学校側が考えて……」

「……ええ。きっかけとして、あの出来事があったというのは、その通りです」


 ――やっぱり。だとしたら。


「先生は……そういうの、本当にカウンセリングで防げると思いますか?」


 口にしてすぐ、我に返りました。

「あ……すいません! カウンセリングを信用してないとか、そういう意味じゃないんです。……その、うまく言えないんだけど……」


 ――なんで、こんなことを……? 


 とりつくろおうにも、自分の中にわだかまるものを解明できていない真弥に、それができるはずもありませんでした。

 しかし、久は混乱の最中にいる真弥の状態を把握できているようでした。


「……なにか、心配なことが?」

「いや。あの……本当に気にしないでください。無意識に出た言葉なんで、別に深い意味とかないんです」

「無意識ですか……」

 久は知っています。

「無意識の行動というのは、心理学では深層心理のあらわれなんです。明確に認識できていなくても、原因となっているものは存在します」

 そして、明確ではないが故に――。

「心配なこと――と、お聞きしましたが、現時点で具体的な形をしているとは限りません。漠然とした不安……あるいは、ちょっとした違和感であったり――」

「違和感……」


 そのフレーズは、真弥の心を揺らしました。

 自分を見返す真弥に、久は促すように相槌をうちます。

「真弥さん……良ければ、あなたが今感じているありのままを教えていただけないでしょうか? なにか、大切なことのような気がします」

 仕事柄、この人は……あるいは、自分以上に自分のことをわかっているのかもしれない。

 そう感じた真弥は意を決し、今日までの違和感――そして、たった今気がついた正体不明の不安と向き合うこととなりました。


「飛び降りたあいつと、最後に話をしたの、多分おれなんです……」

「……そうだったんですか……」

「入学初日から、たまに話してたんです。すごく気さくなやつで、最後の日も帰り際におれに声をかけて、『また明日』って……」

 

 ――また明日。


 記憶は、彼の肉声をも生々しく呼び起こしました。


「そのあと、あんなことするようには、ぜんぜん見えなかった。教師や警察にも、なにか変わったところはなかったか? ささいなことでもいいから――って聞かれたけど、そんなの答えようがなかった……」

「わからなかったんですね……」

「当然ですよ……。おれたちは、まだ友達って言えるほどの仲じゃなかった。遊んだり、お互いのこと打ち明けたりもしてなかった。一体、なにがわかるっていうんですか……」

 あの時、自分に答えを求めてきた大人たちにも、同じことを言いました。

「だから、『君もつらいだろうけど』なんてことも言われたけど……違うんですよ。おれのは多分……つらいとか、かなしいとかより……ただ、『なんでだ?』って……」


 ――そう、いったいなにがあって……?


「……あいつ、本当は死にたいほどの悩みをかかえてたのに、みんなの前ではにこにこして、裏ではこっそり決行の日を決めてたんですかね……? それこそ、友達や家族すら欺いて……」


 身体には、無意識に小刻みな震えが生じ始めていました。


「……それとも、ふつうに楽しく毎日を過ごしてたやつが、なんの前触れもなく、まるでスイッチが切り替わったみたいに――冗談みたいに、自殺することとかあるんですか……?」


 冷水を浴びせられたように急激に熱が失われ、真弥は自分の肩を抱きました。


「……どっちにしたって、そんなの――」


 違和感――不安――その先にあったのは。


「――そんなの、こわすぎる……! そんなやつ相手じゃ、まわりはなにもできやしない! まして、自分から助けを求めてカウンセリングに行くとか、想像できない……」


 あの日以来、深層で芽生えていた闇――。

 自身の言葉で具現化したそれは、人間の手に負えない化物のように感じられ、吐露することで得られたものは安息ではなく、絶望感に近いものでした。

 そして――。


「……すいません。なんか、さっき以上に失礼なことを言ってしまって……」

 カウンセラーとして、自分たちを助けようとしている久を、面と向かって否定してしまったのです。

 落胆させてしまったことでしょう。もし、この場に光莉がいたら、間違いなく彼女も……。

「いえ、いいんです……。話してくれてありがとうございます。どうか、気にしないでください」

「でも、おれ……」


「真弥さん……あなたの言っていることは正しい。その通りです」


 真弥は、胸に杭が打ち込まれたかのような衝撃に目を剥きました。

 久が自分の主張を認めた上で、実質的な敗北宣言をしたのだと思ったのです。


 ところが……久の表情には、悲壮やうしろめたさの類はありませんでした。

 むしろ、たった今、真弥が表出させた絶望という化け物に挑もうとする気概すら感じられたのです。

 次に彼が微笑みながら言った言葉は、予感を裏付けるものでした。

「そう……なんとかしなければいけません」

 その目で、まっすぐに真弥を見つめ、言いました。


「だから、ここに来ました」

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