―06―
「呉ヶ野先生……」
真弥が、なかば呆然とその名を口にすると、久の目と口元が笑いました。
始業式では暗く陰気な第一印象でしたが、近くで見るとおだやかさで誠実そうな人柄が伝わってきました。
「めずらしい苗字なのに、もう、おぼえてくれたんですね。ありがとうございます」
「ええ。うちのクラスに光莉さんがいるもので」
「おや、クラスメイトの方でしたか。それはどうも。これから光莉がお世話になりますが、よろしくお願いします」
久は、そう言って二人に丁寧に会釈しました。ここまで腰が低いと、逆にかしこまってしまいます。
そして、緊張した真陽瑠の口は、例によって余計な一言を発します。
「あ、あの……苦しゅうないので、
「どこの奉行だ」
これを、目上に対する丁寧後だと認識していることに、真弥は泣きたくなります。
「あたしはクラスは違うんです。でも今日、保健室で知り合って、それで一緒に帰ろうと思ったんだけど、用事があるって言われたので……」
さらには、このおバカ……一歩間違えば、ストーキングを自供せざるをえない流れにもっていきます。
ただ、さいわいにして、久の想像はそのような不埒な方向には向きませんでした。
「ああ、そうでしたか。……ということは、あなたたちは今まで光莉に付き合って? もしかして、その最中にこれを……?」
まだ、空気中にただようアルコール成分を目で追うように見渡す久の表情には、どことなく驚きが交じっているようでした。
「ちなみに、光莉は今?」
「「えーと……」」
真弥と真陽瑠は声をそろえ、三階を指差しました。
「そうですか。ありがとうございます」
久は二人に礼を言うと、光莉を追って階段を上っていきました。
……いくつか、誤解を与えたままですが、平気でしょうか……?
二人も少し時間を置いてから階段を上り、また踊り場の影から様子をうかがいます。ちょうど、久が光莉に声をかけているところでした。
窓からの日差しで逆光がかった二人の姿は、俗世から乖離した聖域の中にあるように冒し難いものに見えました。
「おー、親子の再会だね!」
「だな……。知らないやつが見たら、特別な関係の生徒と教師って思うかもしれないけど」
「うっわ、エロー! でも、たしかに勘違いするかもね。……どんなこと話してるんだろ?」
離れた場所で……その上、あえて声を抑えた親子の会話は、真弥たちに届くはずもありませんでした。
「――わかりました。社会科資料室の件、ぼくの方でも調べておきます」
「おねがいします。わたし、もう少し人が減ったら各クラスの教室も見てくるので」
「ありがとう。でも、今日はこれくらいでいいですよ。お友達も待たせてるみたいだし」
「友達……?」
「おや? そこの階段のところで待っている二人は違うんですか?」
光莉はきょとんとしましたが、すぐ、緊張で顔をこわばらせました。
「……人間ですか?」
「はは、そうですよ。そんな太刀の悪い冗談、言いませんから」
「ですよね……。だとすると……」
――と、ここで隠れていた真弥と真陽瑠が姿を見せました。
自分たちのことを話しているような気がしたので、観念して出てきたのです。
「てへへ……呉ヶ野さん。あたしたち、やっぱ、一緒に帰りたくて……」
光莉はさすがに驚いた様子でしたが……次の瞬間、重大なことに気づいて顔が一気に赤面しました。
「つ、付いて来てたんですか……? ずっと……?」
ギクリ……。まあ、当然そう思われます。
さて、どうフォローしたものかと、真弥が思案していると、
「あ、あの……呉ヶ野さん」
真陽瑠が――よりによって、真陽瑠が先に口を開きました。
「全っ然、何も見てないから安心して!」
……ダメ解答の模範です。
光莉は、がっくりとうなだれてしまいました。
「あ、あの……見苦しい場面がいくつかあったと思いますが……その……後ほど、弁解させてください……」
「え? それって、一緒に帰ってくれるの?」
「うあ……いやその、すぐこのあとって意味じゃなくて――」
うっかり、付け入る隙をつくってしまったことに後悔していると、久がその肩に手を置きます。
「ぼくもね、今日は他の先生たちから夕飯に誘われています。平日だから、それほど遅くはならないでしょうけど」
……父親として、なにを促しているのかはわかりました。
「では、また家で。学校での話、聞かせてくださいね」
久は光莉にそう言って、真弥と真陽瑠にまた丁寧な会釈をすると、廊下の先にある階段を降りていきました。
光莉はその背中をしばらく名残惜しそうに見つめ、そのまた後ろで真弥と真陽瑠は、
(あの二人、親子同士でもあんなしゃべり方するんだ……)
などと、ひそひそ話していました。
そうこうしていると、光莉が気まずそうに二人の方へと振り返ります。
真陽瑠は満面の笑みで迎えました。
「それじゃあ、帰ろっか!」
「……で、帰る方向は……同じなんですか……?」
真陽瑠は、いまさら気づいたとばかりに、目をぱちくりと
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