小型飛行機

 

 後半開始の笛が吹かれ、内藤は前半と同じく右フォワードの位置に入った。相手のボールで試合が再開し、相手ディフェンダーたちがボールを回す。内藤はその左サイドバックにプレッシャーをかけた。


「内藤のプレスにより、左サイドは、ボールをもつとすぐセンターバックに戻したくなります」


 わたしは内藤を指さしそう言った。「そしてセンターにボールがいくと、内藤はそのまま左サイドにボールがわたらないようマークします。相方の選手は俊敏な動きはできませんが、それでもプレスの真似事はします」


 すると、パスの下手なディフェンダーはボールを持ちたくなくなる。ボランチへのパスは出せず、中距離パスを出す技術はない。必然的に彼らはフォワードへロングボールを蹴ることになり、それはディフェンダーによって跳ね返された。


 しかし、内藤たちはディフェンダーの跳ね返したボールを有効利用することができなかった。


 おそらく彼らにとって最大の武器は内藤のスピードを活かしたカウンターなのだろうが、その内藤は左サイドバックをマークするためにその近くにいるので、そのままケアされるとなかなかフリーで抜け出せない。攻守の戦術は連動している必要があるが、守備面で良いデザインが必ずしも攻撃面で良い結果をもたらすとは限らないのだ。


 そこで、一見フリーであるように見える相方フォワードにボールが集まる。しかし彼はその体躯とプレースタイルにもかかわらずポストプレーがあまり上手でなく、攻撃の基点になりきれない。たまに内藤にボールがわたるが、前半のカウンターで警戒されているのかスピードに乗る前に潰されてしまう。なんとか撃てるのは、入る見込みの少ないロングシュートくらいのものである。


 もどかしさに抵抗するように内藤がピッチを駆け回るが、時間ばかりが経っていた。


「残り15分か。引き分けかもね」


 西片さんはさほど残念そうな素振りもなくそう言った。最前列の活発な少女は内藤が潰される度に声をあげ、チームのシュートが外れる度に憤る。


「忙しい女の子だな」


 わたしはそう思いながら、しかしあのくらいの方が男受けするのかな、とも考えた。


 残り時間が10分となったが、依然として両チームとも得点を決められていなかった。


 内藤はアピールできていると思う。この時間帯になっても運動量は衰えていなかった。そして、自分の仕事を勤勉にこなしている。


 しかし、とわたしは同時に考える。この程度のアピールなら、これまでずっと見せてきている筈だ。それでフルタイム契約を勝ち取れていないということは、それだけ目に見える数字で能力を証明することが大事なのだろう。


 契約には金銭的な問題が発生する。クラブ側がシビアに数字を求めるとしても、責めることはわたしにはできない。


 内藤は魔法を使うだろうか?


 わたしの魔法を使うには、いくつかの条件が必要となる。これまでその条件を満たし得る状況になったことは何度もあったが、内藤がそのための行動をすることはなかった。


 ロスタイムが表示され、試合終了まで残り10分ほどとなっている。


 キッカーがコーナーフラグのそばにボールを置く。


 わたしは内藤の姿を目で追いその行動に注目した。内藤より長身の選手が何人もいることもあり、彼はそれまでコーナーキックの競り合いに参加してはいなかった。


 しかし、今回ばかりはそうではなかった。コーナーキッカーに何か耳打ちをした内藤は、そのままそろそろとペナルティエリア内に侵入し、しかし特別なマークをつけられてはいなかった。


「これは、点が入りますよ」


 西片さんが驚いてこちらを向く。


「内藤が入れます。見ててください」

「でもさ、こういうのって、でっかい方が有利でしょ。彼が得点するのは難しいんじゃないのかな」

「実はそうでもないんですよ」とわたしは笑った。「魔法をかけましたからね。――これから点が入ります」


 コーナーキッカーが助走のための距離をとり、右手を大きく挙げてこれから蹴るぞとアピールした。相手ゴールキーパーはゴールマウスをわずかに離れ、キッカーがへたくそなボールを蹴ってきたらキャッチしてやろうと構えている。


 内藤はそんなキーパーの後ろにぴったりとくっついていた。そんなところに立っていてもキーパー越しにボールに触れることはできないため、内藤に対するマークをしようとするものはどこにもいない。集中し、身を少しかがませて臨戦体勢をとるキーパーの腰に、内藤の腕が押すわけではなく乗っていた。


 キッカーが助走をはじめ、それに伴い攻守どちらも、ペナルティエリア内をあわただしく駆け回る。その混沌の中で動かないのは蹴られたボールに反応してポジショニングを変えるキーパーと、その後ろに貼りつく内藤のふたりのみである。


 キッカーがボールを蹴った。蹴った瞬間それとわかるミスキックだった。


 キッカーの蹴ったボールは、まっすぐキーパーに向かって進んでいく。


 内藤は微動だにせず、ただそのまま立っていた。


 次の瞬間、わたしと内藤以外の誰もがその目を疑った。


 タイミングを計ったキーパーは飛びつくことなくバランスを崩し、よろよろと数歩あるいただけだった。そのバランスの崩し方はとても自然で、何らかの外力が働いたようには誰にも見えない。


 キーパーのバランス感覚はすぐにそれを修正し、再びボールに飛びつくが、既にタイミングを外したその手はボールにかすることもできない。キーパーに向かってまっすぐ進んでいたボールはそのまま進み、まっすぐ内藤に向かって飛んでいく。


 1回だけしか使えない魔法だ。「外すなよ」と念じたわたしに応えるように、内藤の頭は丁寧にボールをヒットした。


 至近距離から放たれたヘディングシュートは簡単にゴールした。冗談のような得点である。


「えええー!」西片さんが声をあげた。「なに今の! 押したの!?」

「押してませんよ」とわたしは言った。「西片さんも見てたでしょ」


 西片さんは必要以上に激しく頷いた。


 「見てた。あの子は押してない。というか、何もしていない。なんでキーパーは転んだのさ」

「転んでませんよ。ただ、ちょっとよろめいてましたね」

「一緒だよ!」

「そうですね。一緒です。ほら、点が入るって言ったでしょ」

「だから、あれ、どうやって入ったんだよ」

「ヘディングですよ。上手かったですね」

「そうじゃなくて!」


 たまらずわたしは吹き出した。


「だから、魔法ですよ。ちゃんと種も仕掛けもあるのでこれから説明いたしましょう」


○○○


「内藤はキーパーを押していません」とわたしは言った。「ただ、触っていました。腕をキーパーの腰に置いていたのです」

「腰に?」

「そう、腰に。少し前かがみになり、傾いている、キーパーの腰に」

「それで?」

「それだけです」

「それだけな筈ないだろ」

「それだけですよ」とわたしは笑った。「あとは少し踏ん張っただけです。そのままの体勢を維持し、動かないように」


 魔法を使うために内藤がすべきことのすべては唯一、あの形のまま微動だにせず、ただキーパーがよろめくのを待つことだけだった。


 わたしは得点の数秒前を思い出す。内藤の手が、キーパーの腰に乗っていた。


 キーパーはやや前かがみになり、上半身が傾いていた。その傾きにそって内藤の腕は固定され、彼はそのまま待っていた。


 やがてボールが蹴りこまれる。キーパーはタイミングを計り、ボールに飛びつく。触れていない内藤の腕の影響を考えることはできない。


 キーパーはジャンプの最高到達点でキャッチするようしつけられている。そのため彼らは、鉛直上向きにジャンプする。彼らの脚に蓄えられたエネルギーは、すべて真上に向かった運動をするのに使われる。


 しかし、そこには内藤の腕がある。斜めに固定された内藤の腕は、鉛直上向きの力積をわずかにずらす。予測しない外力の加わった運動は、キーパーのバランスを容易に崩すのだ。


 バランスの崩れた状態で飛ぶことはできない。彼らにできるのは、何も考えられないまま数歩よろめくことのみであり、それだけで彼らはボールに触れられなくなる。


「1センチ届かなかろうと5メートル届かなかろうと、同様にゴールを阻止できないというのは残酷ですね」わたしは説明の締めくくりにそう言った。


 これで内藤は数字を残せたわけだ。数字に残らないプレーはこれまでにアピールできている。彼はおそらくBチームに昇格できることだろう。


 しかし、とわたしは考える。この程度のステージで小手先に頼る者は、クラックにはなれないことだろう。


 クラック。『叩き割る』。凍りついた局面を叩き割るような優れた選手を、わたしたちはそのように呼ぶ。


 クラックはその溢れる能力によってあらゆる局面を打開する。わたしたちは、自分の理論や予想が彼らの超人的な能力でもって粉々に打ち砕かれるとき、言葉では表せない快感を得るのだ。


 もっとも、そんな怪物がちょくちょく現れるわけがないのだが。わたしは大きくひとつ息を吐いた。


 内藤に魔法を与えたのはわたしであり、その目論見が結果に出たにもかかわらず、わたしの胸はそれ以上は躍らない。


 ぼんやりピッチを眺めていると、味方がカットしたボールを内藤が受けるところだった。


 前半のカウンターと同じような場所だ。彼はハーフライン上でトラップし、ボールを前方に蹴りだした。前半のカウンターと違うのは、既にそれを見せているので実感をもって警戒されているところである。


 これまでの内藤はトップスピードになる前に潰されていた。それはファウルになることもあり、内藤へのチャージでこれまで2人にイエローカードが出されている。


 今回もそうであろうと思われた。内藤が2タッチ目を触れる前に、彼は誰かに引き倒されることだろう。実際相手チームの左サイドハーフの選手が内藤に並走していて、彼の手は内藤のシャツに伸びようとしている。内藤はシャツを掴まれた。


 そう思った次の瞬間、内藤はひとりで飛び出していた。急激な加速についていけず、相手の伸ばされた手は空を掴んだ。


 それを見ることもせず、内藤は2ステップの距離でトップスピードに乗った。


 じきにロスタイムに突入する時間帯であるにもかかわらず、内藤のスピードは少しも衰える様子を見せなかった。周りの動きは衰えている。つまり、相対的に内藤のスピードが上がっている状態だった。


 寄せてくる選手を単純なスピードや体の強さで突破する。内藤はなおもドリブルを続けた。


 相手ボランチが彼の前に立ちふさがると、トップスピードに乗ったままボールを跨いでフェイントをかけ、ボールをその選手の左から、自身をその選手の右から抜け出させた。スピードに乗った内藤に対して反転した後追いかけなければならないボランチの選手は、いくらボールまでの距離がその段階で近かろうとも内藤に追いすがることさえできはしない。


 そのことを頭より先に体が理解したようだった。混乱した彼の下半身は彼に尻餅をつかせる。彼には内藤の遠ざかる背中を眺めることしかできないだろう。


 内藤がひとり抜くたびわたしの隣で西片さんが声をあげ、最前列の少女が腕を振って興奮する。わたしは手に汗握っているのに気がついた。


 内藤はついに、ペナルティエリアの角に差し掛かろうとしている。


 センターバックのひとりが内藤に対峙した。内藤はそれを視界に入れると進路を調節し、避けることなく真っ直ぐに彼に対して向かっていく。


 その動きは想定外のことだったのだろう。あわてた様子で内藤と適当な距離を取ろうとする。


 内藤はそれを許さなかった。十分な守備体勢を取る前に素早く距離を詰め、ぽっかりと空いた彼の股下のスペースにボールを転がす。


 自身はその脇を通ってペナルティエリアに侵入した。股を抜かれるなど久しぶりのことなのだろう。完全に虚をつかれた様子のセンターバックはファウルで止めることさえできなかった。


 内藤の体がペナルティエリアに侵入する。私は自分が前のめりに腰を浮かせているのに気がついた。


 1対2の局面だった。


 内藤はなおもディフェンダーの1人をキーパーとの間に残している。


 内藤のキックフェイントにディフェンダーが飛びかかることはなかったが、その直後の鋭い切り返しについていくことはできなかった。内藤はディフェンダーを置き去りにし、キーパーとの1対1に持ち込んだ。


 そのとき既に、内藤の勝利は確定していた。


 1プレイ前に行ったキックフェイントに奥のゴールキーパーは引っかかり、内藤がディフェンダーを抜き去った段階で、その前に広がっているのは大きく口を開いたゴールだけだったのだ。内藤はこれまでの試合でゴールを挙げられなかった鬱憤を晴らすように、渾身の力を込めて、至近距離からボールをゴールに蹴り込んだ。


 キックの勢いのまま内藤の体が宙を舞い、その左足から放たれたシュートは破らんばかりにゴールネットに突き刺さる。空中でその光景を目にする内藤はゴールした者のみが得られる圧倒的な快感にその身を貫かれていることだろう。


 着陸した内藤はその場で激しく吠え、両手を大きく広げて走りだした。


 思わず拳を握って腰を叩いたわたしの隣では、西片さんがすっかり興奮した様子で飛び跳ねていた。


「すごいねー! あのコ、すごいねー!」


 西片さんは、手を広げたままピッチを走りまわる内藤を指さした。わたしの口元には笑みが貼りついて離れず、顔の筋肉が他の表情の作り方を忘れてしまったのかとさえ疑われる。最前列に目をやると、活発な少女が安全柵から身を乗り出すようにして腕を振っていた。


 なかなか良いものを見た。わたしは手のひらの汗を拭って時計に目をやった。どうやら既にロスタイムに突入していて、残された時間は2分ほどのようだった。


 リードが2点に広げられた状況においても再び試合ははじめられる。キックオフからディフェンダーに送られたボールが左サイドに渡ろうとする。


 飛び出た内藤がそれをカットした。


 内藤の左足アウトサイドが完璧なタッチでボールをコントロールするのを見た瞬間。


「まさか」とわたしの口から言葉が小さく漏れ出した。


 センターバックのひとりが泡を食って内藤につっかかってくる。冷静なプレーからは程遠い動きだった。


 その様子とは対照的に、内藤は冷静にボールを転がし、避ける。完全なフリーの状態になった内藤は、ペナルティエリアをやや出たところ、右45度の位置にいた。


 内藤の周りの時間が止まっているかのようだった。彼はワンステップ分の距離を正確にボールからとっており、その一連の動作に干渉できる者はその場に居合わせていなかった。


 一目でキーパーの位置を把握した内藤は、そのワンステップを踏み込み、左足インサイドで擦り上げるようにボールの芯を蹴り抜いた。


 クロスを入れたのか、と一瞬思った。そうではなかった。内藤の蹴ったボールはカーブしながら芸術的な弧を描き、キーパーに飛びつく気など起こさせない軌道でゴールマウスに吸い込まれていった。


 あまりの出来事に観客席は静まりかえっており、回転のかかったボールがサイドネットを滑り落ちる音が聞こえてくるような気さえした。


 一瞬遅れて爆発したような歓声が起こる。このまばらな客席から出されたとは思えない音量だ。


「そんな馬鹿な」


 信じられない! わたしは拳を握りしめ、自分の予想をはるか超越したところにあるプレーを見せつけられる快感に身をよじる。ピッチ上では、10分間でハットトリックを成し遂げたフォワードが、荒い祝福を受けていた。


○○○


 編まれた毛糸たちの隙間を潜り抜け、1月末の寒さがわたしの首を撫でてくる。


 それをなんとか拒もうと顎先をマフラーに押し付けながら、わたしは『マカロニ』のドアを押し開けた。カランカラン、とステレオタイプな音が鳴り、店長の西片さんがにっこりと微笑みかけてくる。


「いらっしゃい。とりあえずコーヒー?」

「そうですね。ミルクを入れて」とわたしは頷き、カウンター席に腰掛けた。

「あれ。今日はお仕事じゃないの?」

「じゃ、ないんですよ」


 わたしは鞄から一冊の雑誌を取り出した。わたしが関わっている雑誌の特集号で、来シーズンを睨んだチーム考察や移籍情報、そして、今シーズン中にプロ契約を結んだ新人たちのことが載っている。


 わたしはドッグイヤーのついているページを大きく開き、西片さんに掲げて見せた。そこには内藤の名前が載っていた。彼はすっかり人気者で、まだ公式戦に出場したこともないにも関わらず、既にその滑空するようなゴールパフォーマンスから『小型飛行機』という愛称をつけられている。


 その好物欄とラッキーアイテム欄に、ピザまんの4文字が踊っていた。



  おしまい

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サッカー少年とピザまんとわたし 柴田尚弥 @jukai

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