五章 ファントムー2

 2



 独房に入れられたあと、忍はすぐにベッドにあがった。


 もう何もかも、どうでもいい。

 ただ眠りたい。

 優しく迎え入れてくれる夢のなかへ、早く行きたい。


 まだ昼間だが、目をとじると、その人が見つめていた。

「ナイドラ。うなされていたわ」


 薄暗い、雑然とした部屋。

 あかじみた布団によこたわるナインスドラゴンを、マリーが見おろしている。


「眠ってしまっていたのか」

「少しね。いやな夢を見たの?」

「ああ」


 ナインスドラゴンは心配げな恋人を抱きよせ、くちづけた。

「大丈夫だ。起きよう」

「行くの?」


 マリーのおもてに深い悲しみの色が浮かぶ。

 彼女をここに残してはいけない。

 やっと探しあてたのだ。

 なんとしても、つれていかなければ。


「宿の主人に金を払えば、君を自由にしてくれるだろうか?」


 しかし、マリーは首をふった。


「ここの主人はガーディアンなの。どんな大金をつまれても、わたしを手放しはしないわ」

「ああ。画家の……」

「そうよ。絵からしもべを呼びだすことができるの。店のサイクロプスたちも、そう」


「では、逃げるしかないな」

「つれていってくれるの?」

「もちろんだ。でも、君のブロンドは目立ちすぎる」

「これをかぶっていくわ」


 マリーはクローゼットから大きなショールをとりだし、頭からかぶった。


「あなたが金貨五枚を払ったから、六時間は見つからないわ。見つからずに、ここをぬけだせればだけど」

「窓がある。一人ずつなら脱出できる」

「窓には鉄格子がハマってるのよ?」

「大丈夫。これくらいなら」


 ナインスドラゴンは小さな火炎をあやつり、窓にハメこまれた鉄格子を焼き切った。人間一人がぬけだせるくらいのスキマができる。


「なんでもできるのね」

 からかうような口調で言って、マリーはドアに内カギをかけた。

「これでいいわね」


 まず、ナインスドラゴンがうしろむきに窓枠に腰かける形でぬけだし、そのまま羽ばたいて外に出る。それから、マリーをかかえて、ひっぱりだした。二階だろうと三階だろうと、翼のある逃亡者には関係ない。


 このまま、夜空を滑空して街を脱出したいが、マリーをかかえて高射砲の的になるのは、利口な選択とは言えない。ふりきるとしても、もう少し街の外周近くになってからでなければ、あとがキツイ。


「私の身分証はある。どうにかして門番をごまかし、正面突破したほうがいいかもしれないな。荷車とガラクタを買いこみ、君は荷のなかに隠れてもらおう。商人のふりをして、門をぬけることができれば——」


 街路の暗がりをかけぬけ、低い声でささやく。

 たったいま逃げてきた酒場から、さわがしい物音がした。大勢の人間が口々にわめいている。


「ナインスドラゴンは?」

「いない。逃げたぞ!」


 風にのって、かすかに声が聞こえる。


「もう見つかったのか!」


 するとポケットから頭を出して、キメトラが耳をピクピク動かした。


「ニャッ。ファントム将軍のさしがねニャ。住民管理局のネズミが告げ口したんニャ。王女さまをさらったナイドラを捕まえろと言ってるニャ」


 つまり、酒場を逃亡したせいではなく、すでに帝都からの追っ手がせまっていたのだ。


 将軍ならば、たしかにナインスドラゴンはジャマな存在だろう。ナインスドラゴンを王女をさらった罪人として捕縛し、処刑する心算のようだ。


「しかし、なぜ、ジャンクシティーの小役人なんかが、将軍と知りあいなのだ?」

「ジャンクシティーの連中は、将軍の裏金を作ってるってウワサがあるニャー」


 マリーが首をふり、話にわりこんでくる。


「違う。ほんとに作ってるのは資金なんかじゃないの。将軍はジャンクシティーに技術者を集めて、別世界から魔神を呼びだす装置を作らせているという話だわ。奴隷狩りは、そのための労働力を確保するためだって。

 ここの顔役は、みんなゴロツキでしょ? 口がかるいのよ。酔っぱらうと、なんでもペラペラしゃべってくれるのよ」


 酒場で客の男から聞いた話なら、出どころはしっかりしている。デマではなく真実であろう。


「魔神だって? なんてことだ」


 そのあいだにも暗い街路を城壁にむかって走り続ける。

 だが、酒場や娼家のならぶ花街に、にわかに甲冑姿の兵士が目についてきた。隊列をくんで、あちこちに散らばっていく。


 そのたびに、ナインスドラゴンたちは立ちどまり、隠れてやりすごさなければならなかった。


「しかたない。こうなったら、なんとか高射砲をふりきって……」


 これでは、もはや買い物なんて言っていられない。

 だが、そのときにはもう、空にはウンカの群れのように、ファントムが飛びまわっていた。ファントム将軍の自前の軍隊だ。


 ファントム将軍の本名は誰にもわからない。

 つねに仮面で隠されていて、素顔を見た者もいない。

 ただファントム族の戦士なので、ファントム将軍と呼ばれているにすぎない。


 彼が将軍についてから、竜人族は空の覇権はけんをうばわれ、飛行を禁じられてしまった。

 空いっぱいのファントムを見ると、帝都での屈辱の日々を思いだす。


「空はムリよ」

「しッ。何か来る」


 キメがクンクンと鼻をならす。

「ネズミの匂いニャ」


 どこから集まってきたのだろう。

 いやにネズミの多い街だとは思っていたが、街路という街路にネズミの大群が押しよせて、ナインスドラゴンたちにむかってくる。


 マリーが言った。

「ネズミはこの街のガーディアンの一人よ」

「住民管理局の小ネズミが?」


「いいえ。もっと大きい、ネズミたちのボス。室ネズミっていうイヤなヤツだわ。あなたがアイツの本体を殺してしまったから、ネズミたちが怒り狂ってるの」

「本……体……?」


「そう。本体。だから、室ネズミはもうすぐ消えてしまう。こっちの世界で死んだのなら、なんとかしようがあるけど、むこうの世界では、わたしにもどうしようもない。

 ゲームバランスがくずれてなきゃいいけど。今まで敵モンスターの強さとかを調節してたのは、アイツだし……」


 意味がわからなくて、ナインスドラゴンはマリーの顔を見つめた。


「むこうの世界とか、どういうことなんだ?」

「今はいいのよ。あとでわかるわ。それより、ネズミがおそってくる!」


 ネズミの大群が目の前にせまっていた。

 出っ歯をむきだして、おそいかかってくる。


 ナインスドラゴンは竜炎でネズミたちを焼きはらった。

 百、二百——

 一度に大量のネズミが炎のなかでちりになる。


 だが、ネズミはいっこうに、ひるむようすがない。

 焼いても焼いても、ものすごい数でやってくる。

 その数、何千か、何万か。


 しかたなく、ナインスドラゴンはマリーをかかえて空中に舞いあがった。ネズミの群れからは逃れたが、今度は頭上からファントムの軍団が集まってくる。


 ファントム族は浮遊はするが、竜人や鳥人のように翼を使って飛ぶのではなく、念の力で浮きあがっている。そのため、フラフラとおかしな飛びかたをする。


 あまつさえ、 一瞬で一点から別の一点へ瞬間移動する。短い距離でのことだが、おかげで、狙いすました攻撃を次々かわされていく。


 そのうえ、ヤツらには物理的な攻撃はきかない。

 魔法でしかダメージをあたえられない。

 必然的に苦戦をしいられた。


 マリーが不安そうな声で、ささやく。


「いけない。やっぱり、ゲームバランスが狂っているんだ。ここは、ほんとならファントムじゃなく、機械兵が出てくるところだと思うんだ。気をしっかり持って、忍。あなたの念のほうが強いから。あなたが望めば、事態は好転する」


 そんなことを言われたって、どうしたらいいのかわからない。


 めくらめっぽう竜炎を打って、竜風であおりたて、どうにか数体のファントムを倒した。


 たった一体を倒しただけで、固定の中ボスなみにレベルがあがっていく。


 マリーの言うとおり、本来なら今、相手にする敵ではないのだ。そんな敵がビッシリ数百と空を埋めつくしているのである。


 高射砲はファントムの飛行のジャマになるため、なりをひそめている。かわりに、ファントムのなげてくる闇の波動や、超音波の攻撃に、つねにさらされていた。


「ファントムに有効なのは光の魔法よ。竜光をおぼえるまで、なんとか、ねばって。レベル三十になったらおぼえるから」


 さっきから六、七レベルがあがったから、レベル二十は越えたはずだ。しかし、いくらなんでも三十まではもたない。


 ファントムの攻撃をかわしつつ、上昇と降下をくりかえし、ひたすら逃げた。なんとか、ジャンクシティーをかこむ城壁を飛びこえる。


 だが、そこで、ファントムのダークインパルスに片羽のつけねを撃ちぬかれる。ナインスドラゴンはマリーをかかえたまま、地面に落下してしまった。


 ナインスドラゴンはマリーをかばって受け身をとった。肩に激痛が走る。意識がもうろうとしてくる。


 ファントムがナインスドラゴンたちを押し包むように、わッとたかってきた。


 そのとき、とつぜん、ファントムの動きが変わった。

 いっせいにしりぞいて道をあける。


 その中心に、ひときわ禍々しい影が立った。長い黒いマント。仮面をつけている。ファントム将軍だ。


「手間をとらせてくれたな。王女よ」

 将軍がマリーの腕をつかみ、ひきよせる。


「は……離せ。マリーを……」


 ナインスドラゴンは立ちあがろうとした。痛みと出血で今にも気が遠くなりそうだ。


 将軍のせせら笑う声が聞こえた。

「そこまでだな。竜の騎士ナインスドラゴン。死ね」

 将軍の手があがり、闇の波動が高まる。


 将軍にぶつかるように、マリーがしがみついた。

「やめてッ! 彼を殺さないで!——キメトラ、彼をつれていって!」


 ナインスドラゴンのポケットからキメがとびだす。


「ニャッ! ケンタウロス、出てくるニャ!」

 勝手にケンタウロスを呼びだした。

 ケンタウロスはナインスドラゴンを背中に乗せ、一目散にかけだす。


「ダメ……だ。マリーが……」


 自分の体を盾にして、将軍をひきとめるマリーの姿が、しだいに遠のいていく。


 そのあとすぐに、ナインスドラゴンは気を失ってしまった。

 意識をとりもどしたときには、草むらに一人でよこたわっていた。ケンタウロスやキメはドールハウスにもどったようだ。


 夜明け前の薄闇が、あたりをつつんでいた。


「大丈夫だよ。追っ手は来ない」


 一人だと思っていたのに、背後から声がした。

 ふりかえると、狼の皮を頭からかぶった男が、草むらにしゃがみこんでいた。火を起こして湯をわかしている。薬湯のようだ。苦い匂いがしていた。


「ムチャするね。あんたも」

「おまえは……?」


「おれ? おれはただの旅の薬師さ。これでも治せない病気はないと言われる名医なんだぜ。あんた、ケガしてたから、手当てしといた」


 そういえば痛みがひいている。


「傷は治るが、とうぶん羽は使わないほうがいいね。ムリすると二度と飛べなくなるぞ」

 そう言って、薬湯の入った木の器をさしだしてくる。


「これは増血剤やらなんやら。早く治るから、ガマンして飲むんだ。ちょいと苦いが」


 男の顔はフードになった狼の頭で、口の上までかくれている。フードの狼の目のところに穴があいていて、その下から当人の目がのぞいていた。


 どこかで見たことのある男だと思った。


 薬湯を受けとりながら、たずねる。

「名前は?」


「人に聞くときは自分から名のるもんだ。と言いたいとこだが、あんたのことは知ってる。ナインスドラゴンだろ? 将軍に追いかけられてる竜人なんて、そうそういるもんじゃないからな。おれには名前なんてないよ。ま、ヒーラーとでも言っておくか。薬師だしな」


「おまえ、ガーディアンだな?」

「うん。まあ」


 そのあと、ヒーラーは長いこと、ナインスドラゴンを見つめていた。


「おれ、ほんとはこういうの、よくないと思ってる。むこうでダメだから、こっちに逃げてくるなんて。それじゃ、なんの解決にもならないって。だから、いつもは来ないんだが、今日はあんたがケガしたから。おれの助けがいるだろうと思って」

「マリーみたいなことを言うんだな。むこうとか、こっちとか」


 ヒーラーはうつむき、足元をながめた。まるで彼にだけは、そこに草むらではなく、別の何かが見えているかのような目で。


「……悪かったよ」

「え?」


 もしや、さっきの薬湯が毒入りだったのかと思った。が、どうも、そういうふうでもない。

 うつむいたままのヒーラーだが、かいまみえる目は真剣そのものだ。


「ほんとに、すまなかった。おれ、あんたをこんなに苦しめるつもりはなかったんだ。こんなことになるとわかってたら……あんなこと言うんじゃなかった」


「なんのことだ?」


「おれって、あまのじゃくだからさ。あんたがあんまり真っ白で羨ましくて……おれは、あんたに憧れてたんだよ。あんたは、おれにできないこと、なんでもできて。おれにないもの、みんな持ってて。カッコよかった。おれも、あんたみたいになれたら……って。ちょっとだけイジワルしてみたんだ。でも、傷つけたかったわけじゃない」


 表情は見えないが、ヒーラーが泣いている気がした。

 だまっていると、ヒーラーは続ける。


「ネズミのことは、しょうがないよ。気にするな。あいつは、あんなヤツだったから、ろくな死にかたしないことはわかってたんだ。あいつにおどされてるヤツは、ほかにも何人もいたんだよ。いずれ、誰かに殺されてた。あんたが悪く思うことはない。自業自得ってやつさ」


 この男は頭がどうかしているんじゃないだろうか?

 そう思う一方で、その言葉は不思議と、すんなり心にしみとおってくる。


「だから、帰ってきてくれ。まだ、やりなおせるさ。きっと。むこうの世界にも、あんたを待ってるやつはいるんだ。だから……」


 顔をあげて、ふたたびナインスドラゴンを見つめる。

 ナインスドラゴンはとまどった。


「おかしなことを言うんだな」

「おれ、あまのじゃくだから。こんなときしか言えないんだよ」


 さみしげに笑うヒーラーの顔が、だんだん、にじんでくる。


 その瞬間、忍はいつもと違う感覚を味わった。


 そう。これは夢だ。それはわかっている。

 だが、夢のなかで未来に起こるはずのことが、とつぜん早送りで目の前をかけぬけていった。


 まるで、そこで経験するはずだった忍の時間が、何者かによって吸いとられ、うばわれていくかのようだった。


 夢の未来の断片……一つ一つがひじょうに重大な意味を持つであろう場面が、その意味もわからないままに消えていく。


 そして、はるか彼方に人影が浮かんだ。

 金色の髪の、あの人だった。

 どこか無機質な表情で、冷たく忍をながめていた……。





 *



 独房のなかで、忍は目ざめた。

 まっしろな壁に、毛布一枚のベッドが一つ。洗面台と便器は壁に内蔵だ。


 何もない部屋。


 時計もないので、時間はわからないが、それほど長時間、眠っていた感じはしなかった。


(さっきのは、なんだ? まるで夢にこばまれているような感覚だった)


 そう思うと、ふるえがとまらない。


(怒って……いた? 最後に見えた、あの人の顔)


 なんだか、とても悪い予感がする。

 とてつもない大きな変化が起こったと直感した。


(マリーをファントム将軍にうばわれたからだろうか? だから、ゲームオーバーになってしまった……のか?)


 ぼんやりしていると、ドアよこの小さなシャッターがひらき、食事をのせたトレーが入れられてきた。


 食欲などなかったが、のどはかわいていた。水を飲むと、急激に空腹が感じられた。ぼそぼそと食べているところに、外から足音が近づいてくる。


「出たまえ。大尉」

 所長の声がして、扉がひらく。


「処分はついた。もう出ていいよ」

 意外にも優しい声である。


「すまなかったね。もっと早く出してやりたかったが、わしも忙しくてな」

「ですが、博士。私は室谷を……」


「室谷は行方不明者の一人だな」と言って、博士は微笑した。

「気にすることはない。わしは行方不明と報告した。異端者の一人や二人いなくなっても、誰も気にせんよ。異端者の家族もな。これだけ行方不明者がいれば、政府はそっちのほうに仰天するだろうな」


 博士は手招きして忍を外へつれだす。


「若い兵士が、ちと勘違いしたようだが、あの男がほかの収容者の持ちものを盗もうとしていたところを、君は止めようとしたんだろう? カバンのなかみを調べたが、あれなら、そうとう強く抵抗しただろう。さすがに少しやりすぎだが、もみあううちに、ああなったのは、いたしかたあるまい」


 勘違いしているのは博士のほうだ。

 忍が純粋に正義感から職務をまっとうしたのだと信じている。


 違いますと言おうとしたが、声にならなかった。

 博士が、なぜ、室谷が持っていたであろう、例の忍を隠し撮りした映像のことについて何も言わないのか、それが気になった。


「……博士。室谷は、何かディスクを持ってはいませんでしたか? または小型のプレーヤーのようなものを?」


 あれを見れば、どんなに博士が寛容でも、こんなふうに悠長に笑ってはいられないはずだ。

 どうしても聞かずにはいられなかった。が、博士の答えは予期に反していた。


「うむ。あれはソフトの原案だった。だが、完成品はなかったよ。カバンのなかにも、身につけていた所持品にも」


 あのカバンに入っていたシナリオのことを言っているらしい。

 忍が室谷に脅迫されていた、あの映像ではなく。


 では、死体の身体検査はされたわけだ。

 それでも、博士の手に映像データは渡らなかった。

 たまたま、室谷がデータを持ち歩いていなかったのかもしれない。


 卑怯にも、忍は安堵で力がぬけてしまった。

 その場ですわりこみそうになったほどだ。


 篠山博士は、わずかに説教くさい口調になった。


「君も若いから感情的になったのだろう。これにこりて、ムチャはせんようにな。収容者が裏でいろいろしとるらしいのは知っとるが、いちいち目くじら立てていては、きりがない。君の身がもたんよ」


 やはり博士も承知の上で目をつぶっているのだ。


 忍はむしょうに悲しくなった。

 たったいま、自分の不正を黙認した自身をふくめて、何もかもが、けがらわしく思えた。


(こうして、私も少しずつ鈍化していくのか。神経がマヒして、ここの風潮にならされて……)


 自分はもう室谷を責めることはできない。

 保身に走って卑怯者に堕ちてしまった。


 同じだ。室谷と。

 おくびょうで、ずるがしこいネズミだ。


(イヤだ。こんな自分は、もう)


 生きていることが、こんなにツライことは初めてだ。


 足をひきずるようにして、博士のあとについていった。

 博士の声が、どこか遠い世界からのように、うっすらと聴こえてくる。


「そうそう。君にたのまれとったもんだ」


 夢分析ソフトと脳波形グラフを、白衣のポケットから出して手渡してきた。


「やはり、このところの行方不明者の続出にも関連しとるのかね? 収容者たちの消えかたは、彼のときと同じだ。電子ロックをかけた密室から消え失せる。バカバカしい話だが、まるで魔法だね。何かつきとめているのなら、教えてくれんかね?」


 忍には、このとき、会話をする気力が残されていなかった。


「すみません。もう少し、時間をください……」

 それだけ答えるのが精いっぱいだ。


「まあ、しかたあるまい。そのグラフやらで何かわかれば、いつでも報告に来たまえ。収容者はともかく、彼だけはとりもどさんとな」


 博士は彼をとりもどしたい。だが、それは実験体としてだ。彼を生体実験に利用して、一生、切りきざむつもりなのだ。


 忍は博士と別れて、自分の部屋に帰った。

 だが、渡されたグラフを調べてみる気にもなれない。


 もし彼を見つけて、こっちの世界へつれもどすことができても、生涯、檻のなかにつながれた獣のように監視され、白い肌に注射針やメスを入れられ、電極をつけられ、細胞を凌辱されつづける毎日だとしたら、あまりにも彼がかわいそうだ。


 そんな悲惨な一生を送らせるだけなら、呼びもどさないほうがいい。


 もし夢の世界に移住した人々が、現実の世界にいるときと同様に生きているのだとしたら、むこうにいるほうが、ずっと幸せに違いない。


 忍は博士からあずかったソフトとグラフを机の上になげだした。


 その夜。

 夢に迎えられることだけが喜びだったのに、あの世界が忍の眠りにおとずれることはなかった。

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