五章 ファントム
五章 ファントムー1
1
目がさめたのは、六時半ごろだった。
うつろな気分で機械的に朝の支度を始めた。
近ごろ、夢のなかでの経過時間のほうが、現実世界の時間より長い。だから、現実で前日に何をしていたのか、なかなか思いだせない。
(そうだ。私は室谷におどされていたのだった。あの映像が公安局に渡れば、私は身の破滅だ)
どうにかして、あれをとりあげなければならない。
しかし、どうやって?
室谷はあの映像データを、少なくとも二つ以上に複製して、つねに一方は持ち歩いているようだ。
室内に置いてあるほうは、室谷が農作業に出ているときに教官の権限で家探しすれば見つけられる。が、本人が身につけているほうが残る。
もしも室谷に留守中、侵入したことを勘づかれれば、身の危険を感じて映像を公表されてしまうかもしれない。
それでは困る。
どうにかして、室谷の持っているすべてのデータを同時に消してしまわなければならない。
その方法を思いつかないまま、熱いシャワーをあびていると、とつぜん室内の非常呼びだしブザーが鳴った。
収容者たちのあいだで緊急の事態が起こったときに、彼らが教官を呼びだすためのものだ。これが使用されるほどの緊急事態など、そうはないと聞いていた。
おどろいてインターフォンをつなげる。
かなりあわてた声が、いきなり急を告げてきた。
「大尉! 今すぐ来てくれ。大変なんだ!」
そう言って、ブツリと切れた。
今のは平林の声だっただろうか?
だいぶ、あわてていた。何があったのだろう。
忍は大急ぎで服を着て、平林たちが宿舎にしている地下十階へ行った。エレベーターの出入口に直輝が立っていて、忍を見ると、とびついてくる。
「教官。こっち」
「何があった?」
「う、うん。それが、今朝になって、急に……」
直輝は会話がうまくない。
しどろもどろでモゴモゴ言っているうちに、目的の場所についた。
一つのコンパートメントの前に十人ほどの人だかりができている。忍が来ると、道をあけた。みんな、忍が担当する十一から十三グループの班長たちだ。
平林もいて、コンパートメントの扉を示す。
「あけてみてくれ。返事がないんだ。たぶん、ほかのヤツらといっしょだ」
事情をたずねたかったが、とにかく自分のIDカードで、コンパートメントの扉をひらいた。
電子ロックが外れ、扉がひらくと、なかは昨日の木場老人の部屋と同じ間取りだ。空調はきいているが、テレピン油の匂いが、うっすらただよっている。
「ここは、誰の部屋だ?」
「画家先生だよ。あの先生だけ、誰にも暗証番号、教えてなくってさ。あけることができなかったんだ」
なるほど。壁に大きな絵がいくつも飾ってある。
どれも検閲スレスレだ。
迷宮で今しもミノタウロスに四肢をひきさかれそうな少年少女の群像や、身をよじらせて矢を受けながら、恍惚とした表情で大木にしばりつけられた聖セバスティアヌス。
地獄の底で大ワシに肝臓をついばまれるプロメテウス。
あるいは大岩にクサリでつながれたイケニエのアンドロメダ。
黄泉の国から死んだ妻をつれ帰る途中のオルフェウスが、ふりかえった瞬間のエウリュディケ。これはハッキリ検閲にひっかかるほど、すさまじかった。
神話や聖書に題材してはいるが、必要以上に凄惨で、作者の残忍な性癖が感じとれる。神話は残虐嗜好をごまかすための隠れみのでしかない。
美しいが、怖かった。
もちろん、藤川自身の手による作品だ。
「藤川は?」
それらを描いた当人の姿は室内になかった。
部屋のなかは整然と片づいていて、隠れていられるスペースはない。
平林が疲れたように、つぶやく。
「……やっぱりだ。やっぱり、画家先生もいない」
「やはりとは? 画家先生も?」
「今朝になってグループのメンバーが何人もいなくなったんだ。最初は便所でも行ったかと思ってたんだが、集合時間になっても来ない。変だなって、班長たちで調べてたんだ」
「いなくなった? どこにも見つからないということか?」
「そうだよ。さっきまで、みんなで探してたんだ。風呂場や便所。食堂。レクリエーションルーム。オーディオルーム。畑もな。おれたちが行ける場所は全部、行ってみた。
七時になるから班長以外は作業に行かせてさ。いなくなったヤツらの部屋を見てまわってたんだ。画家先生だけ、誰にも部屋の暗証番号、教えてなくって。
食堂に行けばわかるけど、朝食もヤツらのぶん、あまってるんだ。それに……それに……」
平林が彼らしくなく、くちごもる。
「それに?」
たずねると、
「え? いや……別に、たいしたことじゃ。なんか、よそのグループもあわててた」
考えていたこととは違うことを口にしたような印象を受けた。
忍は藤川の部屋の電子ロックを調べた。点検用のメニューをひらく。思ったとおり、藤川の部屋のカギは、昨夜からさっき忍が外からロックを外すまで、一度もひらかれていなかった。
同じだ。あの人がいなくなったときと。
キューティーブロンド、それとも、スティグマのマリー?
あの人が三重の電子ロックのかかった密室から消えたときと。
昨夜の夢のなかで、あの人は言っていた。
ほおの傷はサディストの画家の趣味だと。
藤川は夢の世界につれ去られてしまったのだ。
忍は平林に問いかける。
「いなくなったのは何人だ?」
「わかってるだけで七人。原田、陣内、沢口とか。変だと思ったあと、みんな集めて点呼とったから、まちがいない。ヤツら、逃げたんだろうか?」
逃げたのなら、室内からドアをあけた記録が残る。
ドアをあけずに外へ出ることなど、あたりまえの人間にはできない。
それにしても、原田、陣内……どこかで聞いた名前だと思えば、室谷のソフト開発にたずさわっていた連中だ。おそらく調べてみるまでもなく、二人の部屋も、朝まで開錠された記録はないだろう。
「わかった。所長に報告する。おまえたちは指示があるまで、通常の作業についてくれ。それから、平林、ちょっと来い」
ほかの班長を去らせ、平林だけ残す。
「ちょっと聞きたいのだが、藤川たちは昨日より前に、夢について何か言ってなかったか? 変な夢を見たとか」
「夢? どんな?」
逆に問いかえされて困ってしまう。
「どんなと言われても……いや、いい。すまなかった」
肩をすくめる平林を残し、忍は一番近くの非常呼びだしベルのところへ歩いた。インターフォンを所長室につなぐが、なかなか出てくれない。
それもそのはずだ。このとき所長のもとには、すでに同様の報告が殺到していたのだ。
「ああ……九龍大尉か。行方不明者が七人? 君のところもか……え? いや、何。ほかの教官からも報告がね。研究員も二名いなくなってしまったしな。今すぐ所内に非常召集をかけ、集団逃亡にそなえねば。乗り物はちゃんと押さえとるよ。心配はいらん。では」
とうとつに交信が断たれてしまう。
そのあとは一日中、大さわぎだった。
行方不明者は総計五十七人。うち収容者が五十三人。研究員二人。兵士が二人だ。
どの行方不明者も夜間には自室へ帰っていて、それ以降、部屋を出た形跡がない。荷物はすべて室内に残されたまま。
各棟の地上につながる一階出入口のセンサーは、そこを通る者の脳波を記録していない。非常時の地下脱出口も同様。潜水ボートなどの乗り物は一台も持ち去られていない。
それでいて、行方不明者の脳波は完全に島内から消えていた。
彼らは空気のように、とつぜん消えてしまった。
忍は朝の段階で、その結果がわかっていた。
彼らを探すには、そんなあたりまえの方法ではムダなことが。
だから、キューティーブロンドないしスティグマのマリーを見つけだすためには他のどの職務にも優先していいという、以前、博士から受けた所長命令を行使して、行方不明者の捜索にはくわわらなかった。
忍は博士に報告したのち、すぐに医務室をおとずれた。
医務室には、ちょうど風間曹長がいた。
明日が週に一度の輸送機の来る日なので、在庫の確認中だった。
「大尉。大変なことになりましたね。昨日に続いて今日も。こんなことが毎日起こるなんて、いったい、どうしちゃったんでしょう」
「そうだな」
忍は知った顔があって、ほっとした。見ず知らずの人間にするには、妙なお願いをしようと考えていたからだ。
「ところで、風間曹長。すまないが、このリストの収容者のカルテを見せてもらえないだろうか?」
今朝の時点で行方不明になった七人のリストだ。
「カルテですか? いいですよ。でも、どうしてです?」
「気になることがあって」
あいまいに答えておく。
カルテには収容者たちの体調に関する相談も書きこまれている。誰かが前もって相談に来ているのではないかと期待した。おかしな夢を見るから睡眠薬をくれとでも。
しかし、コンピューターにアクセスして七人のカルテを調べても、ここ数ヶ月に医務室をおとずれた収容者はいなかった。
「いったい、何を調べたいのですか?」と、風間が聞いてくる。
「妙なことを言うと思うだろうが、重要なことだ。彼らが見た夢の内容を知りたい。できれば昨夜がいい」
「夢ですか。それでしたら、彼らの脳内プレートの反応記録をダウンロードしてはいかがです? たしか心理学の研究用ソフトに、脳波の波形を分析して、仮想現実にして見せてくれるというものがあったはずですよ。所長ならお持ちでしょう」
収容所内のすべての人間の脳波は、つねに生体反応プレートによって、ホストコンピューターに送られている。プレートの番号さえわかれば、誰の脳波でもかんたんに調べることができる。プレートナンバーはカルテに記入されていた。
七人のプレートナンバーを手帳にひかえて、忍は医療室をでた。次にむかったのは所長室だ。が、そこに所長の篠山博士はいなかった。ドア前の留守録が研究室にいることを告げる。
こんなときまで研究かと思ったが、このときには博士も捜索に成果が得られないことを見越していたのだろう。
忍が研究室に入ったとき、博士は熱心に顕微鏡をのぞいていた。
「お忙しいところ申しわけありません。以前より受けていた特命の件で、所長にお願いがあってまいりました」
博士は忍のほうを見ようともしない。
「ふむ。なんだね?」
あれこれ詮索されないほうが助かるので、忍は博士の関心が顕微鏡から離れないよう、あたりさわりのない口調で告げる。
夢分析ソフトを使いたいことと、いなくなる前の数日間に記録した彼の脳波形が欲しいこと。
「よろしいでしょうか?」
「ふむ。彼の脳波形か」
「睡眠中のものだけで、かまいません」
「妙なことを言うな。が、まあよかろう。今、手が離せん。有田くんに続き、米沢くん、山科くんまで……まったく、どうなっとるんだ。あとで井上くんにでも用意させよう。すまんが二、三時間後に、もう一度、来てくれ」
「研究熱心ですね」
つい思ったことを口走ってしまった。
博士は笑っていた。
「彼の残していってくれたサンプルがあるからだ。なんとか彼の遺伝子の謎をとかんことにはな」
有田は夢のなかでも同じようなことを言っていた。今日いなくなった二人の研究員は有田の研究所にでも行ったのではないだろうか。
「では、のちほど出なおしてきます」
研究室を出てしまうと、やることがない。
ふと、行方不明者の書いた日記でも残っていないかと思いついた。
そのときには昼になっていた。ちょうど昼休みの時間だ。収容者は食堂に集まっている。今ならジャマされずに宿舎のなかを調べられる。
ふたたび、地下十階へ急いだ。
藤川のコンパートメントには、手がかりになりそうなものはなかった。クローゼットのなかに、とても人前には出せない油彩画やスケッチブックなどが入れられていただけだ。
スケッチブックをめくると、習作らしい木炭画のなかに、ひどく気になる絵があった。なんとなく昨夜の夢で見た景色に似ている。暗い石造りの街並み。でも、それだけだ。
忍は手帳にひかえたリストを見ながら、行方不明者の部屋をまわった。コンパートメントの位置はゾロメが教えてくれた。
「こちらです。マスター。もっとも近いのは、十二グループのジンナイです」
ゾロメは忠実だし、やることにそつはない。
だが、そのとき、ふと忍は物足りなく感じた。
いつもそばにいてくれるのなら、やはり……。
(ふかふかの毛皮。アーモンド形の瞳。ゆれる尻尾。語尾は決まって、ニャア)
我ながら、だいぶ夢に毒されている。
できれば今すぐ夢の世界に帰りたい。
あの世界にいれば、自分は自由でいられる。
思いのままに行動し、仲間がいて、恋人がいて、空を飛び、魔法の力を自在にあやつることができる。
だが、現実の自分はなんの力もない。孤独で退屈な石頭だ。
友人もいなければ恋人もいない。
相手をしてくれるのは、人間のために働くよう造られた鉄のかたまりだけ。
そう思うと、急速に虚無感にとらわれる。
(ナインスドラゴン。私は、おまえが、うらやましい)
夢のなかのもう一人の自分に対する、憎悪にも似た激しい羨望が心を乱した。
いくぶん、ふつうの心理状態ではなかったのかもしれない。
平静な皮一枚裏側に、ドロドロに血を流す
そのまま、忍は陣内のコンパートメントのドアをあけた。ひらいた瞬間、なかにいる人物と目があった。
それは今もっとも、忍が会いたくない人物だった。
職務も何もかも放棄して、ゆるされることなら一生さけてすましたい。
室谷だ。
室谷は陣内のクローゼットから黒いカバンをひっぱりだし、なかみをあさっている最中だった。
忍と目があって、本人が一番うろたえている。
「や——違う! これは……貸してたものをとりに来ただけで……ほ、ほんとだよ」
あわをくって言いわけするようすが怪しい。
もともと室谷は小心者だ。
こんなとき平気な顔でウソをつける男ではない。
視点を泳がせ、ビクついた態度は疑ってくれと言っているようなものだ。
忍は室内に入り、室谷がにぎったノートのたばをうばいとった。めくると、こまかな文字でビッシリと埋まっている。
おそらく、室谷と共同制作しているソフトの原案だろう。
そうとわかるのは、ところどころに描きこまれているイラストのせいだ。ヘタクソな絵に注釈がついて、色や形状が説明されている。裸の男女がおかしな形でからみあっている。
あきらかに法にふれるものだ。
室谷たちが裏で流しているソフトの重要な証拠物件だ。
室谷があわてて、とりにくるはずだ。
こんなものが人目にふれれば、持ちぬしの陣内ばかりか、共同制作者の室谷も充分に処罰の対象になる。
室谷はネズミみたいな小さな目で上目づかいに忍をながめ、ノートをとりもどそうとした。
「見逃してくれよ。たのむよ。おたがいさまだろ? ほら、あのことがあるんだしさ。な? いいだろ?」
忍の手から、むりやりノートをむしりとって、カバンにつめこむ。
「おれだってさ、火星に行きたくないんだよ。な? わかるだろ? あんただって、そうだよな? おれがあんたの秘密をバラせば、あんただって火星行きだ。
火星植民者なんて、きわめつけの異端者だよ。快楽殺人犯や公安狩り。極左のテロリスト。
軍人のあんたが、そんなとこに送りこまれりゃ、どんなヒドイめにあうか。ヤツらは容赦しないぜ? まわされて、拷問されて、死なないように体の端から、ちょっとずつ切り刻まれてさ。最後は殺されるんだ。あんたキレイだから、ヤツら大喜びだ。
なあ? そんなめにあいたくないだろ? あんたさえ見逃してくれりゃいいんだよ。たいしたことじゃないよ。ほんのちょっと目つぶってくれて、ときどき、おれにオイシイ思いさせてくれればいいんだ。
ああ、そうだ。あんたにもオイシイ思いさせてやるよ。な? それならいいだろ?
あんただって、こんなとこに来るくらいだから、他人に言えない趣味があるんだろ? 教えてくれたらナイショで手に入れてやるよ。ギブアンドテイクってやつ。な? おれたち親友だよ」
なれなれしく忍の肩に手をかけてくる。
室谷の口から“親友”という言葉を聞いた瞬間、忍のなかで何かが、はじけた。
一瞬、目の前に愛らしいトラジマの猫や、なにものにも束縛されない竜の姿が浮かんで消える。
気がついたときには、電子サーベルをにぎりしめ、室谷に切りつけていた。
「私は……きさまに憐れまれるほど落ちぶれてはいない! きさまが親友だと? ふざけるなッ!」
叫びながら何度も切りつけていた。
室谷の口から悲鳴があがり、血がしぶく。
やがて悲鳴はくぐもったうめきに変わった。
「マスター! やめてください! 過度の体罰は減点十です。相手の命に危害をおよぼせば、さらに減点二十です」
ゾロメに止められ引き離されたときには、室谷は虫の息だった。大量の血がリノリウムの床に水たまりのように広がる。
忍はそれをぼうぜんと見つめた。
外から激しくドアをたたく音がする。
「大尉! あけてくれ。なかで何があったんだ?」
平林の声だ。
きっと昼休みをすぎても室谷が集合場所に来ないので、呼びに来たのだろう。
ゾロメが忍をひきずっていき、なかから扉をひらいた。
平林と新島、室谷の班の班長がそこにいた。室内の惨状を見て立ちすくむ。
「なっ——これ……室谷……?」
「室谷、しっかりしろ!」
「室谷は?」
「ダメだ。息がない」
「おれ、医療班、呼んでくる」
忍の暴力的な発作はおさまっていた。
気ぬけした炭酸飲料のような、ふぬけた気持ちで、あわてふためく平林たちをながめる。
「大尉! これは、あんたがやったのか? なあ? どうなんだよ! なんで、こんなこと——」
平林が胸ぐらをつかんで、しめあげてくる。
それにも、忍はされるがままになっていた。
やがて、兵士がかけつけてきた。
忍はとりおさえられ、独房へつれていかれた。
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