四章 夢の守人ー3

 3



「身分証はない。これから貰うところだ」


 ナインスドラゴンが言いかえすと、獣人たちは、いっそうニヤニヤ笑いを深くした。


「そいつは、ちょうどよかったな。ここが身分証発行の住民管理局よ。金貨百枚出せば発行してやるぜ」


 百枚とは、ふっかけてきた。

 ナインスドラゴンの手持ちの金は五十万のプリペイドカード二枚ぶんに満たない。とても、たりない。


「そんな金はない」

「じゃあ、有り金、置いていくんだな。でなきゃ、おまえも奴隷にしてやるぜ」


 おそいかかってくる。

 急に頭上で聞こえ始めた音楽が激しいから、固定戦闘なのだろう。


 ナインスドラゴンは二人がかりでかかってくる獣人を、まずニードルショットで、けんせいした。厚い筋肉に針がつきささり、手前にいたミノタウロスが、うぎゃっと悲鳴をあげる。


 しかし、深手ではない。なにしろ身の丈三メートルはある巨人だ。筋肉の厚さはフランケンにも劣らない。


(そうだ! フランケンだ)


 心強い助っ人を思いだし、ドールケースから呼びだす。

「フランケン! 出てこいッ」


 フランケンの緑色の巨体が通りに現れる。

 野次をとばしていた周囲の連中が、急にギョッとした。


「あいつ、ドール使いだ」

 そんな声も聞こえる。


 ナインスドラゴンはフランケンに命じた。

「おまえは、ミノタウロスをやっつけろ!」


 フランケンがうなずき、ミノタウロスに突進していった。

 フランケンは素手だから、リーチの長い長槍を持ったケンタウロスより、ミノタウロスのほうが相手にしやすい。それに素早い動きを誇るケンタウロスでは、フランケンにはキツイ。


 ミノタウロスはフランケンと同じ、素早さより力技のタイプだ。再生力のあるフランケンのほうが有利だ。


 ミノタウロスはフランケンに任せ、ナインスドラゴンは剣とニードルショットをぬき、ケンタウロスにむかっていった。


 ケンタウロスは長槍を風車の羽のようにふりまわして、ナインスドラゴンのニードルショットをよけつつ、四本足のひづめの音をひびかせ、一直線にかけてくる。広い通りをフルに使ってかけぬける。


 ナインスドラゴンは羽をひろげて舞いあがり、ケンタウロスの背後にまわった。敏捷さなら、こっちも負けていない。


 三十発ほどニードルを撃ちこんだところで、ケンタウロスがふりむきざまに長槍をなげつけてきた。

 きわどいところで、ナインスドラゴンは羽をたたんで急降下する。あと少しで片羽に大穴があくところだ。


 あわてて着地したので、怒り狂って突進してくるケンタウロスの真正面におりてしまった。ケンタウロスが勝ち誇ったように二本の前足をふりあげる。


 あやうく、よこにころがる。

 巨大なひづめが、ナインスドラゴンの顔のすぐよこをふみにじった。あの足にふまれたら、ナインスドラゴンの頭は風船のように破裂してしまう。


 続けて、もう一度。

 さらにころがってよけるうちに、剣をけりとばされた。

 ニードルショットで、なんとか立ちあがるスキを作ろうとするが、ケンタウロスは馬車馬みたいに太い足を前後にふって、針をけちらした。


 ゴロゴロところがるナインスドラゴンは、しだいに通りのすみへと追いつめられていく。見物人がいっせいに、とびのいて逃げる。


 もはや、ナインスドラゴンの背中は道端の塀にピッタリはりついて、逃げ場がない。ニードルショットの針も撃ちつくしてしまった。弾倉はあと一つあるが、交換している時間はない。


 ここまでか——


 思っているとき、ポケットからキメがとびだした。

「ニャッ! 目つぶしニャ!」

 後足でけりあげた砂利が、みごとにケンタウロスの両目に入った。


「早く立つニャ!ナイドラ」

 叫ぶキメの背中に、やみくもに突進してきたケンタウロスの巨大なひづめが……。


「危ないッ!」


 自分でも、どうやったのか、わからない。

 ナインスドラゴンの感情が爆発した瞬間、ケンタウロスが炎に包まれた。絶叫をあげて炎のなかで踊り狂う。


(竜……炎……)


 そうだ。なぜ、こんな大事なことを忘れていたのだろう。

 ガーディアンの自分には、竜族のすべての力が託されている。九つの竜の技を駆使することができるのだ。


「にゃあ……すごいニャ」


 感心しているキメをポケットにつっこむ。

 キメは友情によって、すすんでドールになったので、ナインスドラゴンの意思に関係なく、勝手にケースから出入りできるらしい。


 剣をひろいあげ、フランケンに加勢しようと思ったときには、そっちも勝敗がついていた。

 フランケンの両腕にガッチリ首をとられたミノタウロスは、コキリという音とともに地面にくずれた。


 ナインスドラゴンはドールケースをかざして、倒れた二体をおさめようとしたが、ケンタウロスしかドールにならなかった。ちょくせつ自分で倒した相手しか、ドールにはできないようだ。


 しかし、ミノタウロスの金棒はフランケンの武器にちょうどいい。持たせてケースにもどすと、パラパパッパッパーとレベルアップの音が三、四回、立て続けにした。



 ——ナインスドラゴンは二万の経験値を得た。ナインスドラゴンはレベル十五になった。竜炎を思いだした。ナインスドラゴンはレベル十六になった。竜水を思いだした。ナインスドラゴンはレベル十七になった。竜風を思いだした。ケンタウロスがドールになった。鉄の金棒を手に入れた。



 目の前に忙しくテロップが浮かびあがり、ナインスドラゴンをおどろかせる。


「勝ったニャー! わがはいも強いニャ? 役立つニャ?」


 ポケットからとびだして、キメトラが小おどりしている。

 ナインスドラゴンは安堵の吐息をついたあと、キメをしかった。


「キメ。おまえは戦いには出てくるな」

「にゃ……にゃんで怒るニャー? わがはいも……わがはいも役に立ちたかったんニャー」


 うるうる涙を浮かべているので、ナインスドラゴンはキメのふかふかの体を抱きしめた。


「おまえにもしものことがあったら、私の心臓がもたないからだよ。こっちの寿命がちぢむじゃないか。もっと精進して、さっきみたいなピンチにはならないようにするから、おまえは危険なマネはしないでくれ」


「にゃあん……わかったニャ」


「でも、私の身を案じてくれたことには感謝するよ。勝てたのは、おまえのおかげだ」

「われら親友ニャ」


 ほおずりしてくるキメトラを抱きしめているうちに、野次馬は逃げだした。管理局にたむろしていたゴロツキも、事務所の奥に逃げこみ、四すみにかたまって、ささやきあっている。


「あいつ、強ぇよ。竜人だぜ」

「ミノタウロスとケンタウロスのコンビは、この事務所じゃ最強だったのに」

「それにドール使いだ。負けたらドールにされて、永遠にこきつかわれてしまうー!」

「早く、どっか行ってくれェ!」


 ナインスドラゴンは雑魚はほっといて、まっすぐ事務所のデスクに歩みよった。


 デスクには、おびえたネズミが一匹すわっている。薄汚いドブネズミが、途方にくれてナインスドラゴンを見あげている。


「身分証をくれ」

「獲物に手ごろなサイズにゃ。早くしないと食っちゃうニャ」


 ガタガタふるえながら、ネズミは身分証をくれた。

 これでようやく奴隷市場へ行ける。


「奴隷市場はどこだ?」


 たずねると、部屋じゅうのゴロツキが、中央に通じるゲートを指さす。ナインスドラゴンは通行パスの身分証を片手に、堂々とゲートをくぐった。





 *



 だが、身分証を手に入れるのに手間どったため、センター地区にある奴隷市場に到着したときには、キューティーブロンドの手がかりは失われていた。


 市場の端から端まで調べてみたが、手かせをつけられて競りにかけられたり、檻に入れられた奴隷のなかに、キューティーブロンドの麗しい姿は、どこにもなかった。


 奴隷商人にたずねても、そんな女は知らないと言われるばかりだ。


「え? そんなにキレイな女なら、誰かの愛人にでも買われていったんだろうよ。さ、どいた、どいた。おれは残りのヤツらを売りさばいてしまわないといけないんだ」と、つきはなされてしまう。


 すでに、その日の商売を終えて帰宅した商人もいて、これといった情報は得られなかった。


 ただ、みんな口をそろえて言うのは同じことだ。


「女なら宿か酒場だね。西に行きな。いい宿がいっぱいあるぜ。にいちゃんみたいな男前なら、可愛がってもらえるだろうよ」


 そう言って、いやらしく笑う。

 ただの宿ではないのだ。

 女のいる宿。つまり、淫売宿だ。さらわれてきた女がムリヤリ働かされているのである。


 そんなところにキューティーブロンドが売られていったのだと思うと、ますます焦燥感がつのる。

 ナインスドラゴンは急いで、西の花街へむかった。


 センター地区はジャンクシティーのなかでは、比較的きれいな建物が多い。しかし、花街が近づくにつれて、ふたたびガラクタまじりのすさんだ光景になってくる。


 ピンクにぬりたくったレンガ造りの壁。

 ペンキのはげた、けばけばしい看板。

 花街だというのに、異様に空気が重い。


 とたんに空まで曇ってきた。今にも雨の降りそうな、どんよりした天気だ。


 暗い街なかを、昼間から酔っぱらった男たちが闊歩かっぽしている。女のうばいあいや、肩がぶつかった、にらんだといって、ケンカが絶えない。


 ナインスドラゴンはとにかく宿という宿をしらみつぶしに調べるつもりだった。


 あれほどの美女をおぼえていないという市場の人間は、どうかしている。一度でも見れば、忘れることなどできないものを。

 宿に売られたというのなら、すでに評判になっているに違いないのだ。


(あの高貴なかたが、なんてことに……手遅れになる前に探しあてなければ)


 入りくんだ路地を歩きながら、宿の窓辺にならぶ女たちをながめた。


 だが、どれも王女の足元にもおよばない。人間の形をしていればいいほうで、たいていは得体の知れないクリーチャーや、食いつかれそうな牙をした獣人だ。


 一軒ずつ、なかへ入ってたずねても、宿の主人のあしらいは冷たい。


「輝くばかりのブロンドの絶世の美女? 知らないね。客じゃないなら、行った。行った」

「近隣の宿でも聞いたことはないか?」

「客じゃないんだろ? 商売のジャマだ」

「そこをなんとか」

「あんたもしつこいね。おーい、先生、コイツを追っぱらってくれ」


 しまいには用心棒をけしかけられる。勝てば正直に答えてくれるが、捜索が進まないのでイライラする。

 見かねたのか、キメトラがポケットから顔を出した。


「ナイドラ。わがはい、キューティーブロンドの匂いなら知ってるニャ。あの匂いを探してみるニャ」


 キャットピープルは犬族ほどではないにしろ、やはり嗅覚はするどい。


「探せるのか?」

「このへんからはしないニャー。もっと奥に行ってみるニャ」


 ポケットからとびおりてきて、キメトラはクンクンと匂いをかぐ。

「こっちのほうから匂いがするニャ」


 ナインスドラゴンはキメの案内で、暗い路地を奥へ奥へと入っていった。


 建物のふんいきが、ますます古くさく、中世ヨーロッパの石造りの街の景色へと変わっていった。さっきまでいたジャンクシティーとは、どこか別の世界に迷いこんでしまったような感覚だ。いつのまにか時刻も夜になっている。


「さっきとは別のガーディアンのナワバリに入ったんニャ。この街には何人もガーディアンがいるみたいニャね。何人かは共同で一つのテリトリーを守ってるみたいにゃけど、こっからさきのガーディアンは一人ニャ。頑固で偏屈ニャ。匂いでわかるニャ」


 匂いでわかる頑固さってなんだろうと思ったが、とりあえず、それは重要な問題ではない。


 そういえば、この街に入ってから、まだ一人もガーディアンに会っていない。数人のガーディアンの意思が混在しているから、この街はこんなにガラクタをよせ集めたように見えるのかもしれない。


「キューティーブロンドの匂いは?」

「こっち……だと思うニャ。だんだん匂いは強くなるんにゃけど、にゃんか違うみたいなんニャー」

「違うって、何が?」

「にゃーん。よくわからにゃい。あッ。あそこニャ。行ってみるニャ」


 急ぐと四つ足になるようで、キメは完全な猫スタイルで走っていく。建ちならぶ酒場の一つに入っていった。扉はあけはなしで、カンテラの光に照らされる内部が外からも見える。安っぽい薄暗い酒場だ。


 なかへ入るとすぐに、ナインスドラゴンはキメをポケットにもどした。


 ひとめ見て、客層がよろしくない。


 巨人や獣人など、気の荒い種族のなかでも、人相の悪いヤツらが酔っぱらって真っ赤な顔をしている。

 ほえるような声で給仕の女にからんだり、安おしろいの匂いをぷんぷんさせた女の肩を抱いて二階へあがっていく。


 つまり、一階が酒場で、二階が売春宿なのだ。


 広くもない店内だが、店は繁盛していた。

 テーブルは満席で、三十人ほどの客のあいだを、二、三人の女が忙しく動きまわっている。


 女の一人が客と言い争っていた。


「しつこくしないで! 忙しいんだから」

「なんだと、このアマ! おれさまは客だぞ。そんな口きいてもいいのか?」


 あの人だった。


 背中まで流れるブロンドを暗い照明にきらめかせ、胸元のあらわなハデで下品なドレスを着ている。青いスカーフを頭にまいてるので、世にも美しいおもてが、金色の髪でなかば隠れていた。


 彼女はハイエナともワニとも鷹ともつかないキメラと、大声でののしりあっていた。自分の三倍も大きな男ににらまれて、まったく臆していない。


「あんたが客? あたしを買う金もないくせに。いばるんなら買ってからにしな。ゲスやろう」


 美しい唇から、汚い言葉を次々に吐いて、キメラ男を逆上させている。


「このアマぁ、淫売のくせに。思い知らせてやる!」

「あたしをなぐるの? 言っとくけど、あたしの体は、あたしのもんじゃないんだよ。あたしに髪ひとすじでも傷をつけたら、ただじゃすまないんだからね!」


 酒場のなかに、それらしいのは見あたらないが、奥には何人も用心棒がいるに違いない。カウンターのむこうの扉から、チラチラと一つ目のサイクロプスが顔をのぞかせていた。


 それに、こういう売春宿は、たいてい、その街の顔役とつながっている。女に傷をつけようものなら、手下をウジャウジャひきつれた顔役に追いまわされて、街にはいられなくなる。


 それがわかっているから、彼女は強く言えるのだ。


 ふつうの男なら、顔役を敵にまわしたくないと考え、ここらで手をひく。だが、キメラはよほど腹が立っているのか、それともどこかの山奥から出てきたばかりなのか、そのまま立ちあがって彼女になぐりかかった。


 彼女が悲鳴をあげて、うずくまる。

 カウンターの奥からサイクロプスの集団がとびだしてきた。

 しかし、ナインスドラゴンのほうが速い。竜水をあびせた上に竜風を吹きつけて、一瞬のうちにキメラを凍らせた。


「女をなぐるヤツなんて、ドールにする気も起こらない」


 うしろからコツンとゲンコツでたたくと、キメラは粉々にくだけた。サイクロプスは出番を失って、ぼうっと立ちつくす。


「ケガはないか?」

 助け起こすと、彼女はあでやかに笑った。

 なまめかしい女の香りが、ふっと鼻孔をくすぐる。


「ありがと。強いのね。何か飲む?」

「竜の火酒を」


 彼女にひっぱられて、ナインスドラゴンはカウンターの席にすわった。


 彼女のしぐさに、ナインスドラゴンはとまどった。


 彼女にはナインスドラゴンがわからないのだろうか?

 彼女を見失ったのは、まだほんの数日前だというのに。

 ともに手をとりあって帝都を逃げだしたことを忘れてしまったのだろうか?


 それほどに、ナインスドラゴンの外見が変化したからか?


 でも、彼女のほうも、ずいぶん変わった。

 帝都をぬけだしたときの、しなやかでイタズラ好きな少年でもなく、ニャゴヤシティーでの可憐で愛くるしいキャットピープルの少女でもない。


 はたちくらいの成熟した女だ。男を狂わせる目つきをした、人ずれした酒場の女。けれど、暗闇のなかでも香気をはなつ大輪の花のような麗しさだけは変わらない。


「どうぞ。竜の火酒よ。チップをくれたら、ついであげるけど?」

「ああ……」


 なぜ、彼女がナインスドラゴンを知らないふりをするのか、理解できず困惑した。言われたとおり、チップを盆に載せる。


「違うわ。チップは、こうやって渡すものよ」


 ナインスドラゴンの手をとり、置いたばかりのチップをにぎらせると、彼女はその手を自分の胸の谷間へ入れた。ビックリして、ナインスドラゴンが手をひっこめると、彼女はとなりのイスにすわって、ドレスのすそをふとももまで、めくりあげた。


「こっちのほうがよかった?」


 ガーターベルトでとめたハデな色のくつしたには、すでに何枚も銅貨がさしてあった。彼女はそれをチャリチャリと片手でとりだし、コルセットのなかに押しこむ。


「くつしたは歩いてるうちに下にたまってきて、ほんとは好きじゃないの。でも、お客さんになら、いいのよ?」


 身をくねらせて、すりよってくる。

 いよいよナインスドラゴンは困りはてた。


 彼女は王女ではないのだろうか?

 よく似た別人か?

 美しい彼女にこんなことをされたら、いくらナイトの自分だって、理性に自信が持てなくなる。


「ナイドラ。デレデレにゃね」

 いつのまにかキメトラが勝手に外に出て、ナインスドラゴンの勘定で、マタタビ酒とエビフライを飲み食いしていた。


「わがはい、お呼びでにゃい? しょうがないニャ。おうちに帰って寝るニャ」


 ニッシッシッと牙を見せて笑いながら、ナインスドラゴンのポケットにもぐりこんで消えた。


 ナインスドラゴンは、がらにもなく、ほおがほてるのを感じた。きっと真っ赤になっている。


「あら、可愛いのね」

「キャットピープルのキメトラだ。親友なんだ」

「あなたがよ。きれいな顔してるから、遊びなれてると思ったわ」

「これは……酒に酔った」

「竜族が竜の火酒に酔うなんて、聞いたことないわ」


 言いわけしようと思ったが、男らしくないのでやめた。

「君が美しすぎるからだ」


 彼女は悲しげな顔になって、片ほおに手をあてた。髪で隠れているほうのほおだ。


「ねえ、二階にあがらない? あたし、あなたを気に入ったわ」


 ナインスドラゴンは迷った。が、彼女が自分を知らないふりするのは、ここでは用心棒や店員の目があるせいかもしれないと考えた。


「行こう」


 彼女の代金は二時間で小さな金貨一枚だった。

 ナインスドラゴンは一晩借りるからと、金貨を五枚カウンターに置いた。


 客らしく、彼女の肩に手をまわして、せまく薄暗い階段をのぼっていった。しかし、落ちつかない。


「こっちよ。ここが、あたしの部屋。せまいから気をつけてね。今、明かりをつけるわ」


 ナインスドラゴンは暗いところでも見えるが、彼女自身が明かりがなくては困るのかもしれない。見たところ彼女は、とてもめずらしいピュアピープルだ。クリーチャーでも獣人でもない。


 彼女はナインスドラゴンに背をむけて、一本のロウソクに火をつけた。ベッド一つでいっぱいいっぱいのせまくて小汚い部屋が、ぼんやりと照らされる。ゴミだめの街にはピッタリだが、彼女の美しさにはふさわしくない。


「キューティーブロンド」


 彼女の背中に呼びかけてみるが、返事はそっけない。


「誰? それ」

「違うのか? だって君はキューティーブロンドだろう? 私が助けにくるのが遅かったから、怒っているのか?」


「わたしの名前はマリーよ。スティグマのマリー」

「でも、王女だろう? ずっと探していたんだ。君にツライ思いをさせて、すまない」


 マリーはふりかえり、少し笑った。謎めいた笑み。


「あなたが探しているのは、わたしじゃないわ」

「そんなはずはない。その顔。その声。その瞳の色。髪の巻きかたも何もかも……」

「そうかしら?」


 ふたたび彼女のおもてがくもる。


 マリーは両手を背中にまわして、ドレスのヒモをといた。コルセットをゆるめると、小銭がバラバラと床にこぼれおちる。それは、とても悲しく切ない音だった。お金で買われる身に彼女が堕ちたことを、如実に語っている。


「抱いていいのよ」


 下着姿でしなだれかかってくる。

 やわらかな乳房がナインスドラゴンの胸で押しつぶされる。甘い香りがした。


「わたしのこと、愛してないの?」

「愛している」

「じゃあ、抱いて」


 ナインスドラゴンはマリーを抱いて寝台に倒れこんだ。


 マリーの大理石のようになめらかな白い足をなでながら、くつしたを片方ずつぬがせていく。下着の前ヒモをとき、白薔薇を思わせる乳房をあらわにした。


 ナインスドラゴンが輝かしいブロンドをおおうスカーフを外そうとすると、マリーの手が押さえた。

「これは……外さないで」


 変だとは思ったが、深くは考えなかった。


 これまで彼女はけがしてはならない人だった。

 初めは同性だったし、次は少女で、男の欲望を押しつけるには、ためらわれる年齢だった。


 第一、彼女は王族。ナインスドラゴンは彼女を守る騎士にすぎなかった。


 でも今なら、自分たちは客と娼婦だ。

 誰もとがめることはできない。


 そう思うと、もう抑えることはできなかった。

 性急に彼女を求め、二人はとけあった。


 甘美な数刻をすごしたのち、マリーはまどろんだ。

 スカーフがほどけかけていたので、ナインスドラゴンは愛おしさで彼女の頰をなでた。


 ゆたかな髪の下に手をやって、頰にあてたとき、ナインスドラゴンはこわばった。手のひらに予想外の感触があったのだ。


 マリーが敏感に気づいて目をあけた。ナインスドラゴンの手をはねのける。


「見たのね?」


 涙が浮かんでくるマリーの目を、ナインスドラゴンは見ていることができなかった。たしかに、一瞬だが見てしまった。彼女はあれを隠したがっていたのだ。


「……誰が、そんなことをしたんだ? 誰がそんな、残酷なことを」


 ナインスドラゴンは怒りを抑えられなかった。

 それは彼女を守りきれなかった自分自身への怒りと悔しさだ。


 歴史上のどんな美女もかすんでしまうほどの彼女の完ぺきな美貌に、誰がこんな、むごいことをしたのだろう?


 スカーフで隠された左頰には、シルクのようななめらかな肌をかぎ裂きに引き裂いたあとがあった。


 それも、ちょっとやそっとの傷じゃない。目の下からあごの近くまで、数本の傷がミミズ腫れのように赤く盛りあがって、かさなりあっている。傷はひっつれて、見るも無残だ。


 比類ない美貌につけられているだけに、その傷はなおさらに醜怪で残忍だった。


「ゆるせない。誰が——」

「サディストの画家の趣味だわ。あの男にとっては、これが一番、魅力的なわたしなのよ」


 うつむいていた顔をあげたときには、彼女はもう泣いていなかった。弱い女でも、酒場のアバズレでもない、神秘的な表情をしている。


「この傷を治せるのは、あなただけよ」


「キューティーブロンドにもどせばいいのか?」


「キューティーブロンドは、猫好きの老人とマッドサイエンティストの願望が生んだ、わたし。スティグマのマリーは、サドの画家が。でも、どれも、ほんとのわたしじゃない。わたしの影。分身みたいなもの。あなたが望めば、別の姿になる。わたしの名前を見つけてほしいの」


 そうだ。彼女は以前にもそう言っていた。


「わたしに名前をつけて。あなたがふさわしいと思う名前を。お願いよ。忍」


 忍は目がさめた。


 彼女は消えていた。

 やっと会えたのに、夢の世界はまたも忍を一人、現実に置きざりにしてしまった。


 切り離されるのが、ツライ。

 どうして、ずっと眠っていられないのだろう?


 白い清潔な布団のなかで、忍は長いあいだ、喪失感にさいなまれていた。

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