三章 夢追いー2
目がさめたとき、忍は強い自責の念にかられた。
思わず、枕をにぎりこぶしでたたく。
あんな状況のなかに、彼をたった一人で残してしまった。
あれは夢にすぎない。現実ではない。
わかってはいても、説明のつかない怒りが自分に対してわきあがってやまない。
「マスター。どうされましたか? 脳波が測定不能の感情を表しています!」
よってくるゾロメを片手で押しのける。
どう処理していいかわからない感情に、ふとんのなかで
そのときだ。
インターフォンが鳴った。
それは忍を決定的に打ちのめす事実を告げるための使者だった。
「九龍大尉。所長のお呼びです。すぐに研究室へ来てください!」
聞きおぼえのある声。井上研究員のようだ。
忍はとびおき、ハッチにとびついた。
本能的に、彼の身に何かが起こったと感じた。
「何かあったのかッ?」
井上研究員はギョッとしていた。
身だしなみにウルサイ社会だ。パジャマ姿で髪もボサボサのままの忍のようすに、めんくらったのだろう。
しかし、その井上のほうも、そうとうに顔色が悪い。
「大変なことが……とにかく、研究室に来てください」
時刻は七時前。正確には六時三十分を七分すぎている。
「わかった。すぐ行く」
ほんとにそのまま行くつもりだったが、足元にゾロメがころがりついてきた。それでやっと、忍は自分のかっこうに気づいた。
「……着替えたら、すぐに行く」
念を押しておいて、忍はあわただしく身じたくを始めた。五分で洗顔、ひげそり、排泄、着替えをすまし、髪をといて、部屋をとびだす。
「マスター。忘れ物です」
ゾロメが警棒を持って追いかけてくる。
あの夢のなかでなくしたはずの電子サーベル。
これを喪失しなければ、彼を守りきれたのだろうか?
忍は電子サーベルをベルトにさしながら、ろうかを走った。
ゾロメがついてくる。
「マスター。走ってはいけません。ろうかを走るのは減点一です」
「これは緊急レベル四だ」
「緊急レベル四は人命救助および自身の命に危険のある場合です。現在は、どちらにもあてはまりません」
「人命にかかわる気がするんだよ」
「マスターは予言者ではありませんよ?」
「人間には予測能力というものがあるんだ」
口論しながらエレベーターにとびのり、地下十九階に直行する。
「 所長! お呼びと聞きました」
研究室にかけこむと、博士はガラスの壁の前で、死人のような顔をしてイスにしゃがんでいた。ほかの研究員も似たりよったりだ。
忍は見たいような、でも見るのが怖いような気持ちで、ガラスのむこうを直視した。
なかは、もぬけのからだった。
あの男とも女ともつかない妖しい魅力をはなつ姿は、影も形もない。
「彼は……どこへ行ったのです? 彼を別の部屋へ移したのですか?」
たずねると、あれほど精力的だった博士が、うつろに首をふった。
「どこにもやっとらん。いつもどおり、ドアには三重に電子ロックをかけ、宿直を一人ラボに残して、我々は自室へ帰った。今朝未明の一時すぎだった」
「では、宿直が彼をつれだしたのですね? 宿直していたのは誰ですか?」
忍の形相が恐ろしかったのだろうか。
博士はたじろいだようすで、従順に答えた。
「宿直は、有田くんだった。だが、つれだしたのは有田くんじゃあるまい。電子ロックは三つとも、我々が帰ったあと、一度も解かれてないんだ。ちゃんと記録に残っとる」
「記録を削除したのではありませんか?」
「電子ロックのうち一つは、わしの身分証でしか開閉できないんだ。そのカギは、緊急にそなえてパスワードでもあけられるが、有田くんはパスワードを知らない」
つまり、有田には彼のいた部屋の扉をあけることができない。
でも、それでは、なかにいた彼は、どこへ消えてしまったというのか? 密室のなかから。
「では、ともかく、有田研究員の話を聞いてみてはいかがでしょう? 有田研究員なら何か知っているはずです」
「そうだな。有田くんなら、知っとるだろうな。有田くんなら……」
「ですから、ここへ呼んでは——」
博士は首をふる。
「有田くんは行方不明だ。コンピューターの記録によると、今朝方六時ごろに、有田くんの生体反応は停止しとる」
「え……?」
さすがに、忍もがくぜんとした。
「生体反応が停止? 脳波も脈拍もですか? それは、有田研究員が死亡したということですか?」
話しているうちに、博士は多少、元気をとりもどしてきたようだ。声に力がこもってくる。
「うむ。グラフを見るかね? 脳波も脈拍も、きっちり同時刻にとだえている。その寸前まで正常に機能しとったのにだ。もっとも脳波を見ると、有田くんは、うたたねしとったようだな」
「誰かに殺害されたということですか?」
「殺害されたにしても、脳と心臓が一秒の狂いもなく同時に停止するのは妙だがね。即死の場合でも、どちらかに遅れが出る。第一、死体がどこにもない。
そのうえ、有田くんの生体反応が消えたのと同じ時間に、彼の脳波も消えとるんだ。睡眠中のデータをとるために、彼には機器をとりつけたまま寝させとったんだが」
忍は薄ら寒いものを感じた。
何かが、おかしい。
「いったい……何があったというのです? 昨夜、この場所で」
「わからん。わからんが、人知を超えた何かだ。まるで神隠しだ」
神隠し……夢のなかで離ればなれになってしまったから、現実でも彼が姿を消したというのか?
忍が夢のなかで彼を守りきれなかったから?
まさか、そんなことあるわけがない。
あれは夢だ。ただの夢……。
博士は嘆息した。
「彼は君になついとったからな。もしや君のところに行っとるんじゃないかと……行っとってほしいと期待したのだが、愚の骨頂だったな。それでは電子ロックのことも消えた脳波のことも説明がつかん」
そういえば、夢のなかで、彼は名前を見つけてほしいと言っていた。彼のほんとうの名前を見つければ会えると。
もしかして、このことだったのではないだろうか?
非論理的だが、そんな考えが、ふっと頭に浮かんだ。
忍が考えこんでいると、博士が見すかすような目で見つめてくる。
「大尉。どう思うね? じつのところ、彼は人間だったのだろうか? わしゃ、もうわからんよ。狐に化かされた心地だ。じつはな、昨夜、君が帰ったあと、新たな発見があった。それで、わしらは驚愕しとったんだ。見たまえ」
博士はモニターに二枚のレントゲン写真を映した。
二つとも腹部のアップだ。
「ここを見たまえ」
モニターに矢印が表示され、左がわの写真の下腹をさす。
「これはミュラー管だよ。人間の生殖輸管のうち、女の働きをする。こっちがウォルフ管。男のほう。人間は元来、性別に関係なく、男女両方の働きの生殖器を持っている。
XYの性染色体を持つ男児の胎児のみが、胎内でウォルフ管を発達させる性ホルモンを分泌する。女の子はしない。
すると、ホルモンを分泌しない女の子はウォルフ管が退化し、ミュラー管が発達する。男の子はその逆だ。生まれたときには、男女の性別ができとるというわけだ。
この写真は、彼が収容所に入所してきたときに撮ったものだ。このへんに退化したミュラー管の痕跡が見られる。ウォルフ管は発達し、精巣は正常な成人男子の働きをしとる」
いちいち矢印で示されて、なんでか気恥ずかしい。
「はあ……」
「成人男子でも微量の女性ホルモンは分泌しとるんだがね。もともと彼は正常なXYにしては、女性ホルモンの分泌量が異常に多かった。通常人なら性機能に障害が表れとる量だ。
だが、彼の体は例のごとく一般常識が通用せんから、うまくバランスが保たれとったようだ。
右脳、左脳の成長も、男性型というより、男性と女性の両方の特徴を持っとった。中性型とでも言おうか。精神的には、彼は両性具有だったんだろう」
だから、なんだというのか。
博士の意図がつかめない。
すると、博士はもう一枚の写真に矢印を移す。
「これは昨日に撮った写真だ。つまり、左の写真を撮った二日後に撮影した。
昨日、彼の女性ホルモンが、前日にくらべて五倍近く、はねあがった。もともと病気にならないのが不思議なほどの分泌量だ。それが、いっきに五倍だから、こりゃもう異常だよ。
そこで、いろいろ検査したところが、これだよ」
矢印が下腹の両脇の小さな内蔵を示す。
忍は腎臓かと思ったが、それにしては形がソラマメではない。
「卵巣だよ」と、博士は告げる。
「このまんなかのは子宮だ」
忍は耳を疑った。
「えッ?」
「信じられんだろう? 二日前には存在しなかったものが、ここにハッキリ写っとるんだ。かわりに精巣は三分の二ほどに小さくなっとる。退化してきとるんだ。外見ではわからなかったが、昨日の段階で、彼の体内は急速に女性に変化し始めとったんだ」
忍は思いだした。
——忍が望むなら、女になるよ。
彼はあの夢のなかで、たしかに、そう言った。
(彼は自分の意思で、体を変化させたのか?)
忍はめまいをおぼえた。
彼の遺伝子の驚異だけでも、人類史上に残る大発見だというのに、彼の超人ぶりは細胞だけにとどまらず、精神にもかかわってくるなんて。
意思の力で性別を変える——
それはもう、超能力と言ってもいいのではないだろうか?
あるいは、魔法と。
彼は何者だったのだろうか?
そして、どこへ行ってしまったのか?
何かをしなければならないと言っていた。
その何かとは?
いや、何よりもまず、彼は帰ってくるのだろうか?
もう一度、会うことができるだろうか。
それとも、このまま、永久に……?
ズキンと重く胸が痛む。
忍はどれほど強く、自分が彼に惹かれているのか思い知らされた。
(彼が好きだ。失いたくない)
だが、どうやって探したらいいのだろう。
幻になったか、夢のかなたにでも消えてしまったかのような彼を。
(夢……)
——探して。わたしの名前を。あなたの望む、ほんとうのわたしを……。
彼の言葉が、くりかえし脳裏にこだました。
*
ほかのいっさいの職務に優先して、彼を探してくれと篠山博士から所長命令を受けた。
しかし、手がかりといえば、あの奇妙な夢くらいしかない。
とりあえず、同時刻に消えた有田の行方を追えば、彼のことも何かわかるだろうと思った。
有田の自室を調べてみたが、行方の知れるような情報は残っていなかった。
メールのやりとりや日記などを見ても、有田がみずから失踪しそうなほど悩んでいたようすはない。
若い研究員らしい野心もあり、ここ数日は、むしろ、いつも以上に仕事に没頭していたようだ。
もちろん、彼の存在のせいだ。
人類の進化に貢献できる発見などと言って、驚異の遺伝子のことが詳細に書かれていた。
有田は彼に“キューティーブロンド”というニックネームをつけて、彼の細胞を使った実験の思いつきを箇条書きにしていた。
ただ、どうも、有田の実験には異常性を感じる。
彼の細胞と動物の細胞をかけあわせたクローン体を作るだとか、より強い遺伝子のゲノム編集だとか、いきすぎた記述が目立つ。
やはり、以前、平林が言っていたとおり、収容所に来る人間は、兵士や研究員と言えど、どこかふつうでないのだろう。
有田の部屋からわかったのは、それだけだった。
有田が少なくとも自分から姿を消すことはない。
もしこれが、有田の言う“キューティーブロンド”がいなくなったあとでなら、研究対象を失い、絶望して自殺という可能性もなくはないのだが。
忍は早々に有田の線での捜索を打ちきった。
有田を調べても何も見つかりそうもない。
それより、あの夢の現象を調べたほうが、収穫がありそうだ。
(夢か……)
これまでのところ、どういうわけか、あの夢は室谷のソフトに関連があるように思える。
だが、ソフトの内容そのものでないことは、すでに立証されていた。
二度めの夢などは、草原でめざめたところ以外、ソフトとの関係性はなかった。そのあとの内容は、すべて忍自身が思い描いたものだ。
生まれ育ったトーキョーシティー。
ずっと心のしこりとなっていた照日の結婚。
父や社会に対する、ひそかな反抗心。
そういう、忍の心の奥底にあるものが表面に現れて、あの日の夢となったのだ。
ソフトそのものではなく、ソフトに触発された忍の夢ーーいや、忍の夢にソフトの世界がかさなりあってきたと言ったほうがいい。
室谷のソフトに、そんな魔法的な力でもあるというのだろうか?
はっきりと本人に聞いてみたいが、そのためには忍の見た夢について、室谷に説明しなければならない。頭がどうかしたと思われるのはイヤなので、聞くに聞けなかった。
同様の理由で、篠山博士にも相談することができない。
夢のことは博士の専門分野なのだから、助言をもらえれば、役に立つかもしれないのだが。
(そういえば、有田研究員の消えた六時前後というと、ちょうど私が目をさましたくらいの時間だな)
そんなことを、ふと思ったりもする。
しかし、雲をつかむような話だ。
忍には、バグ探知プログラムで、室谷のソフトに誤動作がないかどうか調べることくらいしかできない。
あとは、室谷のソフトをかたっぱしから体験してみること。
室谷の行動を監視すること。
そして、もっとも有効と思えるのが、眠って夢を見ること。
このうち、眠ることは、つねにはできない。
二十四時間、眠り続ける芸当は、忍にはない。
ソフトをかたっぱしから試すというのも、以前の草原のソフトを昼間に見たとき、何も起こらなかった。あまり効果はなさそうだ。昨日のゲームソフトもしかりだ。
これらを考えあわせれば、ソフトに異常があり、そのために脳波が乱れ、不可思議な現象を起こしているわけでもない。
いちおう、政府発行のバグ探知プログラムにかけてみたが、やはり室谷のソフトに異常はなかった。
残る一つ。
室谷の行動を監視する。
これは、かんたんだった。
この日、室谷はレクリエーションの日だったので、一日中、レクリエーションルームの端末の前にすわって、何やらプログラミングに余念がなかった。昼食やトイレなどのほかは、部屋から出ることさえなかった。
忍があまりにも凝視するので、室谷は落ちつかないようだった。迷惑そうに何度もせきばらいしていた。
それが、おかしかったのだろう。
近くでイーゼルを立てて、いつものように絵を描いていた藤川が、ギロリとするどい目に笑みをふくませて、このようすをながめていた。
「大尉。あんたに、これをやろう」
シガレットケースサイズの小さな画用紙を忍に手渡してきた。
無口な藤川が声をかけてきたばかりか、プレゼントまでくれたので、忍はおどろいた。
「ありがとう」
「男前に描いといたからな」
たったいま、忍を見ながら描いたに違いない。
緻密な鉛筆画は、ひじょうに写実的で、ひとめで忍がモデルとわかる。だが、目の下に陰があり、双眸が異様に輝いて見える。その瞳は虹彩がたてに長い獣のそれだ。
「……これは、私か?」
「あんたが、いい顔しとったもんでね」
ふん、と鼻さきで笑って、藤川はまた画布にむかう。
忍はもらった絵を見つめた。
自分は今、こんな顔をしていたのだろうか?
これでは、室谷がおびえるはずだ。
(だが……どうしたらいいのか、わからない。どうしたら、彼に会えるのか)
どうしようもなく焦燥だけがつのる。
飢えた野獣の心地になっていることを、忍は自分でも感じていた。
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