二章 神の遺伝子ー4

 4



 午後になって、忍は二十分早めに研究室へ行った。

 なにやら博士たちが大さわぎしている。


「おっ、大尉か。勝手になかへ入って話してやってくれたまえ。ちと忙しいのでな」


 七、八人いる研究員が顕微鏡をのぞいたり、試験管をふったり、データを打ちこんだり、いやにあわただしい。


 疑問に思い、忍はたずねてみた。

「所長。何かあったのですか?」


 博士は怒鳴るように返事をする。かなり興奮しているようだ。

「何かも何も、大発見だ。とんでもないことになった。人類史上最大の新発見だ。彼のテロメアは自己修復する。それに細胞の異常増殖だ。こんなバカなこと考えられん……」


「申しわけありません。話が見えないのですが」

「ああ……うむ」


 博士は深呼吸して気分を落ちつけようとした。


「うむ。免疫細胞の検査結果が出たのだよ。信じられんことに、あらゆる病原菌に彼の免疫細胞は勝った。ありとあらゆる病気で試したのだがね。結核菌、破傷風菌、ペスト、チフス、ポリオ、インフルエンザ、C型肝炎、梅毒、淋菌、天然痘……エイズウィルスもやっつけた。発見されたばかりの新種の病もだ。火星植民者がバタバタ倒れとるマーズキラーもな。彼は癌細胞さえ排除してのけたよ」


 博士の興奮の意味が、忍にも多少、伝わってくる。


「それはまた、きわめて優秀な免疫力ですね。ですが、すでに撲滅された古い病原体に対しては、親から遺伝的に耐性を受け継いでいるのかもしれません」


「そういうんじゃない。細胞単位でシャーレのなかで同時培養したんだ。彼の免疫細胞と病原菌をな。あたりまえの人間の細胞なら、たまには病気に勝つとしても、そのすべてで感染しないなんてことは絶対にありえない。


 それにだな。さっき、癌細胞にも打ち勝つと言ったが、あれは正確には違う。彼の細胞は通常人が発癌する百倍の放射能をあびせても、まったく癌化しない。


 つまり、彼の細胞は、どんな条件下でも、まったくミューテーションしないのだ」


 よくわからないので忍が返答に困っていると、博士が忍の手をひっぱった。


「来たまえ。口で言うより、見たほうが早い」

「今日は殺菌消毒はいいのですか?」

「問題ない。彼はわしらなんぞより、はるかにタフだ。もしかしたら、頭上に核を落とされても、へっちゃらかもしれん。無菌にする意味がないことがわかった」


 そう言われて、消毒もせずにガラスの壁の内側へ入っていく。

 そのあいだも博士は話し続けた。いったん、しゃべりだすと止めることができなくなったらしい。


「彼がワクチンを受けた形跡はない。ワクチンを受けたマーカーがないからな。しかし、そのくせ彼は、さっきならべた病原体への抗体を、すでに持っていた。はるか昔に撲滅ぼくめつされたはずのペスト菌なんかに対してもだ。


 抗体を持っているということは、その病気に一度は罹患りかんしたことがあるということだ。


 これが、どういうことかわかるかね? 撲滅されて絶滅した菌に彼は、いつ、どこで罹患したのか?


 あるいは彼はもともと、どこかの国の実験体だったのかもしれん。抗体はそのときにできたのだろう。

 まあ、人体実験に使いたくなる気持ちもわかる。彼ほど特殊な体質ならばな」


 忍が室内に入ると、待ちかまえていた彼がとびついてきた。

 その彼にむかって、博士がメスをつきつける。


「篠山所長。何を——」


 博士は片手で忍を抑え、猫なで声で彼に問いかける。

「いいかね? 少し痛むよ?」

「いいよ。忍がやってくれたら、もっと嬉しい」


 彼はむしろ嬉しそうだ。

 博士は忍に耳打ちしてきた。

「彼は被虐嗜好があるらしい」


 あぜんとしているうちに、博士はメスを忍の手ににぎらせた。


「九龍大尉に切ってもらおう。手を出してごらん」と博士が命じるままに、彼は従順に手をさしだしてくる。


 忍はためらったが、博士が大きくうなずいて、うながしてくる。しょうがないので、忍は彼の手をとった。手のひらにナナメに浅い傷をつける。玉石のような白い肌に傷をつけるのは、しのびない気がした。


 やがて、静脈が透けて見えるほど白い手に、じわじわと血がにじんでくる。


 博士はなぜ、こんなことを自分にさせるのだろうと、忍は怒りすらおぼえた。が、


「もういいだろう」


 博士はクシャクシャのハンカチをポケットからとりだして、彼の傷からにじんだ血をふこうとした。

 彼がサッと手をひっこめて、自分でペロペロとなめる。


「血の味って好き」

「大尉に見せてごらん」

「うん」


 彼が手のひらを忍の目の前にひろげる。

 忍は目を疑った。

 さっき、たしかに忍自身がメスで切った傷がない。

 血が止まっているだけではない。傷跡が、あとかたもなく消えている。


「なっ——バカな……」


 博士はまるで自分の手柄のように自慢げに説明した。


「もう、ふさがっとるんだ。これが彼の細胞の増殖力だ。実験は彼の免疫細胞である、ヘルパーT細胞、B細胞、キラーT細胞をひと組みにして、それぞれの病原菌とともにシャーレで寝かせた。


 するとだね。彼の細胞は病原菌を発見しだい、みるみる増殖し、ほんの一瞬で皆殺しにしてしまう。


 もしも彼の細胞の増殖力を持つ病原菌が人体に侵入すれば、その人間はものの数分で死ぬ。たとえば、インフルエンザにかかっても、それが彼の細胞と同じ増殖力なら、数分で死ぬんだ。そんなこと不可能だろう?


 だが、彼の細胞はやってのけている。なにしろ増殖速度が速すぎて、正確な数値が出せない。


 しかもだ。この増殖力は免疫細胞にかぎられている。あるいは、通常細胞でも、さきほどのようにケガにより損傷した部分にだけ働く。日々の新陳代謝はむしろ、我々のサイクルより遅い」


「なぜですか?」


「彼の細胞は呼吸や紫外線などによって傷つくことがないからだ。さっきも言ったとおり、強烈な放射線でも破壊されないからな。細胞が長持ちするから新しく作る必要がないという単純な図式だよ」


「では、彼は我々より、かなり長寿なのではありませんか?」

「ふむ。そこだ」


 博士はうなるような声をあげる。


「新陳代謝のサイクルが遅い。それだけでも、寿命は長くなる。人間の細胞ってやつは細胞分裂できる回数が決まっておるからな。細胞が分裂することによって、人間は若さを保つようになっとる。つまり、分裂できなくなると年老いる。


 ときに、分裂回数がおとろえるのは、なぜか知っとるかね? 大尉」


「テロメアですよね? 細胞の核のなかに入っている染色体の両端に存在している。分裂するごとに短くなり、一定の長さを失うと染色体は分裂できず、細胞も増えなくなる」


「そう。つまり、テロメアの長さは人間の寿命を左右する。これによって、人間の最長寿命は百二十年が限度だ。テロメアの長さを修復する夢のような薬も研究されとるが、まだ実現はさきのことだな。ここを克服できれば、人類もいよいよ不老不死なんだが」


 忍はとつじょ思いだした。さきほど、研究室に入ったとき、博士はたしか——


「彼のテロメアは自己修復する……と、おっしゃったのではなかったですか?」


 その意味を考えて、忍はがくぜんとした。

 博士の興奮の真の意味が、ようやく理解できた。


「つまり、彼は……」


 博士は手招きして、今度はラボに逆もどりする。

 忍にひっついて、彼も出てきたが、博士は気にしていない。


「見たまえ。これが、彼の免疫細胞と病原菌を一つのシャーレに入れたときの映像記録だ。よく見ていたまえ。速いからね」


 壁の一面にモニターがおりて、博士の指示で映像が映しだされる。


 忍は人間の細胞なんて見たことがなかったが、アメーバみたいなものが数個くっつきあって、かすかにうごめいていた。動きは静かで、眠っているように見える。


 だが、そこに別種の細胞が投入されたとたんだ。

 一瞬のうちに免疫細胞が爆発的に増殖した。まばたきするうちのあいだに、病原菌を包みこみ、食らいつくしてしまう。


 それは狂気を感じさせるほどに暴力的な光景だった。

 忍は背筋に、ゾクリと寒いものを感じた。


「これは……たしかに、スゴイ……」


「このとき細胞は三十個ほどから、いっきに数億個にまで分裂増殖している。わずか0コンマ数秒のあいだにだ。ふだんはおとなしい、いい子に見えるが、いったん敵を見つけたら、まさに修羅と化す。


 そして、これが、さらに倍率をあげたときの彼の染色体だ。わかりやすいようにテロメアに色をつけてある。こっちが分裂前」


 画面が切りかわり、核のなかの染色体がアップになる。


「ここからは超スローだ。これ以上スローにできんから、わかりづらいかもしれんがね」


 病原菌が侵入したのだろう。染色体が分裂し始める。

 博士は超スローだと言ったが、それでもまだ速い。

 染色体は一瞬のうちに二つにわかれ、飛ぶように離れていった。画面はオリジナルの染色体を映し続ける。


「こうすると、よくわかる。見たまえ」


 画面上に短い物差しが表示される。


「今、五度めの分裂をした。六度め——わかるかね? このテロメアの部分」


 そのあいだにも、たえまなく細胞は分裂しているのに、画面上のテロメアの長さは変わらない。


「同じ……ですね。まったく短くならない。もう十八、いや、二十回は分裂しているのに」

「速すぎてわからんと思うが、分裂の瞬間、テロメアが再生しているらしく見える。ほら、ここだ」


 博士の示すあたりを食いいるように見つめていると、たしかに、ほんの一瞬、テロメアの先端部にシュッと影がゆれて、伸びているように見えなくもない。


 忍は再度、悪寒を感じた。


「これは……なんですか? こんなの、人間ではありません」


 博士の顔は対照的に輝いている。


「そうとも。彼はあたりまえの人間ではない。人間の弱点をすべて克服した超人。ネオヒューマンとも言うべきもの。あるいは神だ」

「神……」


「そう。神。病気をよせつけない体。どんなケガも、またたくまに治し、くわえて寿命に束縛されない永遠の若さ。不老不死。これが神でなくて、なんだね?


 まあ、ほんとのところは、研究で生まれた実験生物なのだろうが。どこの国か知らんが、みごとに新人類を創りだしたものだ。


 じっさい、あの無限回数のテロメアがなければ、あれほど爆発的な増殖力は持てない。


 あとは彼の細胞と同じ力を全人類に応用できれば。むろん、ミューテーションを起こさない細胞そのものの強靭さも研究せんとな」


 博士の話を、とうの彼自身、真剣な顔で聞いている。


(いったい、君は何者なんだ? 神なのか? それとも悪魔なのか?)


 忍が見つめていると、彼は忍の視線に気づいて、ささやいた。


「そういえば、私は年をとらないし、病気にもならないんだった。私が住んでたフランスって、十九世紀のことだよ。ヨーロッパはたいてい旅行した。二十世紀にはアメリカにも行った。うん。だんだん思いだしてきた。


 でも、不老不死じゃないよ。心の力がおとろえれば、若さを保てなくなる。それに私を殺したいという相手の思いのほうが強ければ、殺されてしまう。


 私たちは、そういうものだったんだっけ」


「私たちって?」

「私や兄上や……いろいろ。私より強いのは、父上と兄上だけなんだ。私は父上の命令で、ここに来た」


「どんな命令?」

「さあ、わからない。でも、大事なこと。早く思いださなきゃ」


 彼が思いだしたら、何が起こるのか?

 むしょうに不安な気持ちに忍はおそわれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る