二章 神の遺伝子ー2
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寝る前に、忍はためらった。
あの夢を彼も見ていたという。
そんなことがあるだろうか?
ただのぐうぜんか、それとも似たような別の夢だろうか?
彼に問いただしてみれば、よかったのかもしれない。
どういうわけか、それができなかった。
たずねてはいけないことのような、そんな気がした。
この夢は、なんだか変だ。
そのとき、すでに、そう感じていた。
説明のつかない、かすかな不安がある。とりかえしのつかないことになりそうな予感が……。
けれど、けっきょく、その夜も忍はソフトを使った。
眠りに入ると、あの夢がおとずれた。
忍は草原によこたわっていた。
となりに彼がいて、忍を見つめていた。
また会えたねというように、ニッコリ笑っている。
彼は忍の手をとって立ちあがり、空のかなたに見える暗雲を示した。
「あっちへ行ってみようよ。何かあるみたい」
ほんとうは、忍は行きたくなかった。
ここにいれば、やすらかな気持ちでいられる。
でも、そっちへ行けば、きっと望まないことが起こる。夢のなか特有の確信があった。
「やめたほうがいい。二人で、ここにいよう」
忍はひきとめたが、彼は強引だった。
「行こう。探さなくちゃ」
忍の手をにぎって歩いていく。
しょうがなく、忍もついていった。
それにしても、何もかもが現実のことのようにリアルなのに、これはもう昨日の夢ですらない。
これは昨日の夢の続きだ。
二人で夢の続きを作っているのだと思った。
だが、そういう思案も、じょじょに薄れていく。
「ドームだね。あれはトーキョーシティーだ」
暗雲のたちこめる空の下、草原のさなかに、ぽつりとドームシティーが建っていた。
銀色のメタルやクリスタルでできた、ひょろ長い建物。
都市内部を縦横無尽に走るガラス管のような道路。そのなかをかけぬける流線形の美しい反重力カー。
ドームの内部のいたるところで、無数にキラキラと光る銀粉のようなものは、国民を監視しているカメラを内蔵したインセクトロボットだ。都市の大部分は地下に広がり、国民もほとんどは地下暮らしだ。
忍にとっては、なじみ深い生まれ故郷だ。
たった一週間ほど離れていただけなのに、急に、なつかしさがこみあげてきた。
思っていた以上に、孤島での異端者たちとの生活が、精神的苦痛になっていたのだと知り、忍は自分でもおどろいた。
「なかに入ってみるかい?」
さそうと、彼はとうぜんだと言うように、うなずいた。
ふと気づいて、忍は自分の上着をぬいで、彼の肩にかけた。
忍は自分が人生のなかで一番、着なれた長袖の黒い軍服をまとっていた。肩章や腕章、勲章をいくつもつけた正装だ。
しかし、彼は昨日の夢のまま、全裸だった。
全裸の上に、めいっぱい飾りたてた、ふたまわりサイズの大きい軍服を着た彼は、安っぽいポルノ映画の女優みたいで、正視に困るほど、みだりがわしい。
すぐにも衣装倒錯と猥褻物陳列で、公安局に捕まってしまいそうだ。と言って、忍がズボンをぬいで渡すわけにもいかない。
「こういうカッコ、好きだよ。ナチの将校の情婦みたいだろ?」と、彼は笑う。
記憶喪失のくせに変なことを知っている。
二十世紀の一時期、ヨーロッパを席巻したハーケンクロイツのことなんて、世界史で少し習うていどだ。それも、忍は軍人だから士官学校で教わったが、一般市民はそんなこと知らない者のほうが多い。
「物知りだね」
「うん。前にフランスに住んでたことがあるんだ。今、思いだした」
言いつつ、忍の帽子をとって、金色の頭にまぶかにかぶる。
「似合う?」
似合うが似合わないかで言えば、恐ろしく似合う。
もし彼が女だったなら、さしもの忍の理性も、どうなっていたかわからない。そうでなくても、上着で前のかくれた彼は、胸の薄い女性に見えて、さっきからドキドキしっぱなしなのに。
「フランスって、ヨーロッパ共同体の一地区だね」
「そう? わたしが住んでたころは一つの独立した国だったけど」
「そんなの君が生まれる前のことじゃないか」
「そうかな?」
「君はどう見ても、まだ十六、七じゃないか」
「うんと若いことはおぼえてる。そうだ。たしか、二十歳くらいじゃなかったかな? そんな気がする。なんだか忍といると、いろいろ思いだしてくるみたいだよ」
「それは、よかった」
忍はスノードームのように、ガラスケースのなかにおさまった都市の通用口の前に立った。
出入口は特殊合金のハッチでふさがれている。かたわらの端末に手をあてれば、市民として登録してある者なら、誰でもあけることができた。
忍の生体認証で、ハッチは音もなくひらいた。まだ住民票が消されていなかったようだ。
忍は彼の肩を抱いて、トーキョーシティーに入った。
「どこへ行こう? 君は行きたい場所があるかい?」
「にぎやかなところがいい。そしたら何か思いだすかも」
やはり、記憶がないのは不安なのだろう。
「じゃあ、繁華街だね。上着のポケットを失礼するよ」
繁華街なら身分証かキャッシュカードがなければ何もできない。いつも上着のポケットに入れていたが、どんなに探しても、そこにはなかった。布ごしに彼の胸にふれることに、ムダにドキドキしただけだ。
「収容所のデスクの上に置きっぱなしなんだな」
つじつまがあっているようで、あっていないことを忍は言って納得した。とつぜん、収容所から別の場所へ移動したり、草原のまんなかに東京が出現したり、不思議なことばかりなので、ここでは何が起きてもおかしくない気がする。
「しかたないな。そのへんの換金所で、プリペイドカードを発行しよう」
都市に入り、無人の道路を歩いていく。
ひょろ長いビルの谷間が続いている。
地上部分は、どこもかしこも人の姿はない。
「どうして誰もいないの?」と、彼が疑問を口にする。
「地上部分は特権階級の社交場だからさ。日光権は、ひじょうに高価なんだ。私は軍人だから、任務中や誰かの招待を受けたときなら、通行がゆるされている」
「じゃあ、今、見つかるとマズイの?」
「そうなる。早いところ、地下へ入ってしまおう」
日光権侵害は減点ポイント十だ。
今日の場合は目がさめたら草原にいたので、遭難者と見なされるだろう。減点は免除されるかもしれないが、身分証もないし、見るからに外国籍の彼を同伴しているし、いろいろと説明が難しい。見つからないに越したことはない。
「私がゲートを使用したことがバレる前に、シティーを出たほうが無難だ。急ごう」
ビルのわきに地下への昇降口を見つけた。
忍は彼の手をひいて降りていこうとした。
ふと立ちどまったのは、ビルのむこうの人工樹と人工芝の公園に、人影があったからだ。かなり大勢の人間だ。
軍服をまとった男たち。きらびやかなドレスの女たち。
そして、花婿だけが着る白い礼装用の軍服の若い男と、花嫁姿の女——
結婚披露宴の最中なのだ。
遠くて見えにくいが、あれは、たしかに……。
「忍、地下に行かないの?」
問いかけてくる彼の手を離し、忍は走りだしていた。
彼が追ってきていることにも気づいていなかった。
通りをよこぎって(交通法違反で減点二だ)、公園に入る。
思ったとおりだ。そこにいた人たちの顔は、どれも知っているものばかり。
士官学校を同期で卒業した朋友たち。
以前の上官。その夫人。
名流の人々。
山城中将とその一家。
忍の父の姿もある。
みんなに祝福される新郎は、忍の親友、三条少将の嫡男、義久だ。新婦は、ひそかに忍が焦がれた……。
(照日さま。あなたは今宵、義久のものになるのですね。これを見ないために、私は逃げだしたのに)
そのとき、忍の姿に、照日が気づいた。ブーケを落として青ざめる。みるみる涙がにじんでくる。
周囲も新婦の視線を追った。
とまどう人々のなかで、おどろきを隠せない父。
一瞬、義久の顔が喜びに輝いたのは、忍が祝福にかけつけてきたとでも考えたのだろうか?
だが、花嫁と忍を見くらべるうちに、困惑の表情になる。
すると、忍の耳元で声がした。
「なんで言わないの? おれも、その女が好きなんだって」
ナチの将校の情婦みたいなカッコの彼が、満座に恥ずかしげもなく声をひびかせる。さらには、花嫁に指をつきつけた。
「あんただって、なんで言わないの? 忍のことが好きなんだって。いらないの? なら、忍は私がもらうよ」
人々は予想外のことが続いて、茫然自失している。
凍りついたように立ちすくむ公衆の面前で、彼は忍のほおを両手でつかみ、そして唇を押しつけてきた。
忍は彼を離そうと思いながらもできなかった。
それほど甘美な陶酔だった。
「行こう。忍」
自分から離れると、彼はそこにいる集団に興味を失ったようすで、忍の手をひっぱっていこうとする。
忍は列席者たちに頭をさげ、照日に声をかけた。
「どうぞ、お幸せに」
さっきまで、はらわたをえぐられるように、つらかったのに、言葉にすると案外、ラクだった。
立ち去ろうとすると、列席者のなかから父がとびだしてきた。
「待ちなさい! なんのつもりだ。恥知らずなマネをしおって」
怒りのために父の声はふるえていた。
かけよってきて、いきなり忍のほおを思うさま、はたく。
中将初め、なみいるお偉方の前で息子がとんでもないことをしでかして、父の沽券にもかかわる。
忍は家族のなかで、ゆいいつ自分を愛してくれた父の顔に泥をぬったことを恥じた。
「すみません……父上」
「すみませんじゃない。その女はなんだ! その服装。完全な衣装倒錯だ。おまえはいつから、そんな異端の女と——」
どうやら、彼を女と勘違いしているらしい。
そのほうが、まだしも救いがある。
ここでもし彼が男だと知れたら、衣装倒錯どころか、世間でもっとも蔑視される異常性愛の烙印を押されてしまう。異端のなかの異端。けがらわしい同性愛者として、社会から抹殺されてしまう。彼も、忍もだ。
「今すぐ公安局に連絡して、そんな女は収容所送りにしてやる。忍、おまえは上からお達しがあるまで謹慎していなさい」
「違います。父上。かれ——彼女は、草原の倒れているところを、たったいま発見したのです。服を何者かにうばわれたようなので、私の服を着せているだけです。私が責任を持って、公安局にとどけるところでした。
ここを通りかかったのは、ほんのぐうぜんで……おさわがせして、まことに申しわけありません。なにとぞ、ご容赦ください」
忍は父の手をふりきり、走りだした。
父を裏切るやましさで、胸の内がいっぱいになりながら、それでも、彼を公安局にひきわたすことはできなかった。
(彼は私の気持ちを代弁してくれただけなのだ)
忍が言いたくて、でも一生、言えないことを言ってくれた。
愛しあった者どおしが結ばれてはいけない社会なんて、まちがっているのだと。やりかたはとんでもなかったが、それだけで嬉しい。
「待ちなさい! 忍——忍!」
父の声を背中で聞きながら、忍は彼の手をひいて走った。
父や軍人の朋輩たちが追いかけてくる。が、地下への昇降口へ入ってしまうと、その姿は見えなくなった。
「急いで逃げだそう。私の言いわけを信用したかどうかわからないが、たぶん、父は公安局を呼ぶだろう。中将の手前があるからね」
「私がいけないことしちゃったの?」
「いいんだ。君は記憶がないんだから、赤ん坊のようなものだ。社会のルールを忘れてしまっているんだからね」
エレベーターを地下二階でおりて、銀行の自動カード発行室へかけこむと、自分の口座から引き落としでプリペイドカードを数枚、作る。
彼はそのカードに、なんの価値も見いだしていないようだ。
「どうするの? これ」と、聞いてくる。
「君の服を買う。そのあとメトロのチケットを買って、べつのシティーへ逃げだそう」
「繁華街は?」
「そんなこと言ってる場合じゃない。捕まったら、君は性倒錯者として、収容所に……」
あれ? もともと彼は収容所にいたんだっけ?
忍の思考は一瞬、混乱する。
彼は甘えて忍にしなだれかかってきた。
「残念。この服、気に入ってたんだけど」
「え? いや、ダメだよ。そのカッコじゃ目立ちすぎる……」
混乱をふりはらい、忍は彼をつれて地下十七階までおりた。
この階では、安価な品物を購入できる多様な店がならんでいる。
高級ブティックでは評価ポイントを使用するため、身分証を提示しなければならない。だから、プリペイドカード一枚で買い物ができるディスカウントショップを選んだ。
彼の姿は人目をひく。
公衆トイレの個室に押しこんでおいて、そのあいだに忍が服とチケットを購入した。
「さあ、これに着替えて。さっき公安員らしいのがウロついていた。私たちを探しているんだ」
だが、楽しみの繁華街が見られなくて、彼はふくれていた。
「地味な服」
「すまない。でも、これなら男女兼用で着られるから」
ありふれた白い無地のシャツに、薄いブルーグレーのパンツとジャケット。くつしたはグレー。靴は白。
「髪が……目立つな。しかしまあ、さっきよりは……」
彼は地味だと言ったが、肌の色が真っ白なので、あわい色彩の服はよく似合った。さっきまでの毒々しい服装より、こっちのほうが忍は好きだ。
「行こう。メトロのステーションは地下十階にある。そこまで見つからなければいいが」
思えば、さっきからの一時間ほどのあいだに、いくつ規律違反を犯したことだろう。
ゲートの無断侵入。
日光権の侵害。交通法違反。
結婚式のジャマをしたから、儀式妨害罪。花嫁の中傷。
おまけに人前でキスをした。猥褻物陳列だ。
家長への反抗。
彼をかばってウソをついたことは、虚言罪と職権濫用にひっかかる。
そのあと彼をつれて逃げたから、逃亡と逃亡補助。
万一、彼が男だとわかれば、例のごとく異常性愛にもなる。
かるいのから重いのまで、全部あわせて三百五十から三百八十にはなろうというマイナスポイントだ。
たった一日で四百もの減点を受けるなんて、これまでの忍には考えられないことだった。
彼が忍の顔をのぞきこんでくる。
「後悔してるの?」
「いや。不思議と、爽快だ」
たぶん、彼がいてくれるからだ。
照日と義久のことを心から祝福できる気持ちになったのは、自分でも知らないうちに気持ちが変わっていたからだろう。
彼がいるから。
彼といっしょだから……。
「君がほんとに女性だったら、よかったのに」
忍が嘆息すると、彼はいたずらっぽく微笑した。
「いいよ。忍が望むなら、女になる」
冗談だろうと思い、忍は気にとめなかった。
なんとなく印象に残る口調ではあったが。
公衆トイレを出たところで、忍たち二人は監視虫に発見された。わらわらと公安員が集まってくる。
「止まれ! 止まらないと、政府反逆罪だぞ」
忍は声をあげて笑いながら、彼の手をひいて逃げだした。
「政府反逆罪だって。さらに三百の減点だ」
地下通路は、こみいって複雑だ。
迷路のように入り組んだろうかを、公安員の追っ手や待ち伏せをさけながら走っていく。
彼は少し不安になったらしい。
「大丈夫なの?」
「どうにかして、君だけは逃がすよ。これ、列車のチケットだ。二番ホームから十一時に発車する。ナゴヤシティー行きだ。君が持っていてくれ」
彼のぶんのチケットを渡そうとしたが、彼は首をふった。
「イヤだ。忍といっしょでなきゃ、行かない」
「…………」
愛しいと……思ってしまうのは、罪だろうか?
忍は力いっぱい、彼を抱きしめた。
「二人で行こう」
追っ手の足音がせまってきた。
あわてて、また走りだす。
だが、まもなく、忍たちは左右から追っ手に進路をふさがれ、袋小路に入りこんでしまった。
公安員たちが威丈高に叫ぶ。
「こっちだ! 追いつめたぞ」
「九龍忍、ならびに脳波不明の女。政府反逆罪および数多の違反で逮捕する!」
「おとなしく、うしろをむき壁に両手をつけ」
まがりかどのむこうから、白い制服を着た公安員が、軍隊アリのようにウジャウジャと袋小路に入ってくる。
「忍……」
泣きそうな彼の肩を抱いて、忍はベルトにさげた警棒に手を伸ばした。
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