二章 神の遺伝子

二章 神の遺伝子ー1

 1


 翌朝、畑地の見まわりに出た忍は、まっさきに室谷をさがした。もちろん、室谷が作ったリラクゼーションディスクについて聞きたかったからだ。


 室谷は今日、農作業のはずだ。野菜畑に行ってみるが姿がない。


 かわりにナスビのかげから、おずおずと顔を出したのは、ここへ来た初日に所長室で会った、新島静馬だった。


「室谷はいるか?」

 たずねると、新島はほんのり赤くなった。


「……室谷なら、荷車をとりに行きました。じきに、もどってくるでしょう」


 やっとの感じで、それだけ言って、うつむく。


 確実に同性愛者だと知っているので、さすがに忍も新島だけは苦手だ。さけたい気持ちを抑えきれない。口のなかでモゴモゴ言って、農具のしまってある納屋のほうへ走った。


 納屋は台風にそなえて、がんじょうなレンガ造りだ。用具一式がしまわれている。家畜小屋の近くにあり、けっこう大きな建物だ。


 入口の扉をあけ、なかへ入った忍は、薄暗がりを、室谷をさがしながら歩いていく。荷車の置かれたあたりへ行っても、人影がない。


 だが、どこからか話し声が聞こえる。


「……今度のはケッサク。絶対、損はさせないって」

「そんなこと言って、この前はーー」

「大丈夫。じゃ、さ。四点にまけとくから」

「四点は高いよ」

「高くない。見ればわかるって」


 どうも、室谷の声のようだ。

 そっと棚のむこうをスキマからのぞいた。思ったとおり、室谷だ。薄暗いので、相手の顔まではハッキリとはわからない。


 おい、室谷、何をしている——と、声をかけようとしたとき、忍は背後から口をふさがれた。ギョッとして警棒に手を伸ばしかけたが、しいッと唇に指をあてて、平林が立っている。


「だまって見てなよ」

 ささやき声で耳打ちしてくる。


 言われたとおり見ていると、室谷の手から手のひらサイズのディスクが、もう一人の男に手渡された。


「じゃあ、評価ポイント三ってことで」

「つまんなかったら返すぞ」

「絶対、おもしろいから。あんたの趣味は知りつくしてんのよ」


 二人は別れて荷車のほうへむかっていく。

 だいぶたってから、平林は忍の口をふさいでいた手を離した。


 忍は憤然とつぶやく。

「不正現場だな。裏取引だ」


 平林は暗がりのなかに、ニヤニヤと白い歯を浮きあがらせた。


「あんなの、みんな、やってることさ。知らないのは、あんただけさ。ほかの教官は黙認してるからね」

「なんだって? 教官が黙認?」

「だって、おれたちを更生させようなんて、誰も本気で思っちゃいないだろ? それに、けっこう、いるんだぜ? おれたちと闇取引したがる兵士」


 忍は二重にショックを受けた。

 教官や兵士が収容者の犯罪行為を知っていて見逃しているという事実。そして、それを自分だけ知らなかったということに。


 平林は続ける。


「でなきゃ、こんな人のイヤがる場所に、なんで来たがる兵士がいるよ?」

「私は……志願して来たぞ」

「わけありなんだろ?」

「それは、そうだが……」


 思わず、言葉につまる。

 平林はニッと笑う。


「だから、そういうことなんだよ。みんな、わけあり。なんやかんやで現実世界がイヤんなったヤツらの隠遁いんとん所なんだよ。ここはさ。


 兵士のなかにも、自分の異端傾向を自覚してるヤツなんかもいてさ。世間にバレる前に、自分から逃げてくるんだ。


 異端者として収容されるか、異端者を監督する立場で来るかじゃ、世間の目がぜんぜん違う。入ってしまえば、異端者のズルに、てきとうに目をつぶってやるかわりに、自分もいい思いができるんだ。


 おれたちも兵士にコネがありゃ、いざってときに心強い。持ちつ持たれつ。相互扶助。美しい関係だと思うね」


 ここの兵士のルーズな態度を思いうかべて、忍は口をつぐんだ。決してない話ではない。いや、おそらく、平林の言うとおりなのだろう。


 平林は満足そうに、うなずいた。


「ま、おれたちみたく、異端って言われるまで世間に反発するより、いくらか利口なんだろうよ。


 ところで、あんたはなんで、こんなところに来ちまったんだ? あんたは、ここに来るような人じゃないだろ?」


 忍が答えないでいると、平林は忍の背中を力いっぱい叩いてきた。


「ああ、いいって、いいって。あんたはさ。思いつめるタイプだよな。ちょっと肩の力ぬいたほうがいいぜ?」


 そんなこと言われたって、どうしたらいいのか、わからない。

 平林は、さらに、まくしたてる。


「おれなんかはさ。ただのナマケモノのお天気屋。きっちり決まった時間に起きて、メシ食って、クソして働いて、また寝るなんて、もう、たまんなく、やなんだよ。ちっ息しちまう。


 ここは天国さ。てきとうにサボって、てきとうに点数かせいで、死なないていどに、やっときゃいいんだから。


 わかんないだろうな。この島に来て、やっと、まともに息がつけた、おれみたいな人間の気持ちはさ」


 たしかに、わからない。

 今、平林が言ったようなことは、忍には生きていく上での、ごくあたりまえな動作の一部でしかない。起きて食事して働くのが苦痛だなんて、考えたことすらなかった。


「どうして、そんなこと、私に教えてくれるんだ?」

「何を?」

「君の生活習慣のこともだが、兵士や収容者の内情などだ」

「さあ、なんとなくかな。あんた、わかってた? ここの連中、やたらに、あんたのこと、ひっぱりまわすだろ? なんでだと思う?」

「それは……わからない」


 平林はかるく笑う。


「さっきのネズミ——室谷のことだけど、アイツがしてたみたいなことは、みんなが関係してるんだよ。ほとんどのヤツらは一部のクリエイターの客でね。あんたから言えば、ただの売人かもしれないけど。

 だから、クリエイターは大切なんだ。みんなして、あんたに取引現場やらなんやら見つからないように、かばってやってたんだ。やっぱ、気づいてなかったんだな」


 ほかの何より、これが一番、忍はショックだった。


(そうか。私はここでも誰からも必要とされているわけではなかったのか……)


 みんなが慕ってくれているように勝手に勘違いして、おろかもいいところだ。みんなに陰で笑い者にされていることにすら気づかなかった。ただの道化だ。


 急に、平林はバツの悪そうな表情になる。


「やだな。そんな泣きそうな顔されると、悪いことしたみたいじゃないか。言っとくけど、これでもみんな、あんたに気をつかってたんだ。あんたの性格じゃ、ああいうの、ゆるせないだろ? だからさ。あんたには隠しておこうとしたんだ」


「口先だけのなぐさめなんていらない。私が知れば、どうするか、わかっていたんだろう? そうだ。私は不正を知って見すごせる性格じゃない」


「じゃあ、どうするんだ? かたっぱしから不正の現場を見つけて、減点しまくるのか? おれたちをみんな、火星送りにするために?」


 そう言われれば、忍はひるんだ。

 ここは戦場じゃない。

 忍の言動一つに大勢の人間の生死がかかっていると考えるのは苦痛だ。


「……君は、意地が悪いな。なぜ、だまっていてくれなかったんだ? 知れば、私が苦しむことはわかっていただろうに」


 平林はさみしそうにも見える苦笑を浮かべる。

「アマノジャクなんだろうな。白い雪を見たら、ふみつけたくなる。あんたが、あんまり真っ白なんで、ちょっと汚したくなった」


 そう言って、平林は去っていった。

 忍は薄暗がりのなかに一人残って考えこむ。


(私のどこが真っ白だって? 母は貧民階層の出自で、酒場で酌婦をしているところを父に見初められた。婚家を追いだされて、今はどこにいるかもわからない。

 家督は弟のもの。私は嫡男ではないという理由で、好きな女に求婚できなかった。あの人は……照日さまは、士官学校時代の親友の花嫁になってしまう。

 私の居場所なんて、どこにもなかったんだ。どこにも——)


 いっそ、戦場で散ってしまえば、家族にとっても自分にとっても、あとくされがなかった。そのほうが照日だって、おだやかな気持ちで嫁に行けただろう。


 照日が忍に少なからぬ好意をよせてくれていることは気づいていた。だが、彼女は山城中将の娘だ。深窓の姫君である。


 忍の火星権戦争の功績がいかに高かろうと、父が由緒正しい家柄の空軍大佐であろうと、家督を継げないかぎり、忍には手のとどかない人なのだ。


 親友が同じ人に想いをよせていることは知っていた。親友のほうは忍の気持ちには気づいていなかっただろう。


 しかし、それにしても、幸せそのものの顔で結婚が決まったんだ、喜んでくれという彼のそばに、あれ以上いることはできなかった。好きな女がほかの男の妻になる姿を見てはいられなかった。


 ましてや、忍だって、九龍家の嫡男でさえあれば、決して望みのない結婚ではなかった。そう思えば悔しくないわけがない。自分を生んでくれた母を恨むまいとは思うけれど、嬉しそうな親友のそばにいれば、いつかは恨みに思っていた。


 そんな自分がイヤだった。ゆるせなかった。

 だから、逃げてきたのだ。


(私の内面だって、こんなに汚れている。ちっとも白くなんかない。泥まみれで、真っ黒だ)


 ひさしぶりに忍は泣いた。子どものころのように。

 幼いころは、かげに隠れて、よく泣いた。


 母が出ていったばかりのころ。義母が嫁いできて、祖父母から母の悪口を聞かされたころ。弟が生まれて、みんなに邪険にされるようになったころ。


 思えば、忍はいつも一人だった。


 ああ、けっきょく私は、どこへ行ってもそうなのだ。私こそ、どこにも行き場のない、世界でたった一人の異端者なのだ。


 泣いていると、ゾロメがやってきて、忍の足元にすりよってきた。


「マスター。脳波が乱れています。感情抑制数値に大幅な乱れがあります。危険です。このままでは危険——」

「少し、だまっていてくれないか」

「マスターはご病気ですか? 緊急レベル二? それなら救助要請いたしますが」

「病気じゃない。気分が悪いだけなんだ」

「気分が悪いのは病気です。救助信号を発します」


「やめてくれ! おまえがいると、うかうか泣いてもいられない」

「泣くのは婦人と子どもの特権です。マスターはどちらにも、あてはまりません」

「わかった。もういい。おかげで泣く気も失せた。きっと、平林から見たら、私もおまえと同じくらい石頭なんだろうな」

「わたしのボディーは合金メタルです。石ではありません」


 本気でおかしくなってきて、忍は笑った。

「私は機械とのほうが相性がいいのかもしれないな」


 泣いていたことがバレないかどうか、ゾロメのボディーに映して何度もチェックした。そののち、納屋を出る。


 畑に帰ったときには、ナスビの収穫はほぼ終わっていた。荷車に載せたナスビを収穫センターへ運ぼうとする数人のなかに、室谷を見つけた。


「室谷。話がある」

「ああ、昨日のディスクかい? どうだった?」


 ネズミのような出っ歯を出して笑っていたが、忍がだまって手招きすると、ようすがおかしいことに気づいたようだ。神妙な顔になった。


「ええと……なんだい?」

 緊張しながら近づいてくる。


 忍は単刀直入に切りだした。

「さきほど納屋で、君が誰かに、評価ポイントと交換でディスクを渡しているところを見た。売買だな?」


 室谷は小さくて、そのくせ、つぶらな瞳をオドオドを泳がせる。そんなところも、あだ名どおりだ。


 周囲にいる収容者たちも緊張した顔つきで、このようすを見守っている。


「え……ええと、その、昨日のディスクさ。あいつ、最近、不眠症だって言うからさ。いずれ所内の販売リストには載せるつもりのディスクだから……えっと、申告もれで減点かな?」


 言いわけくさいのが、いよいよ怪しい。

 たぶん、忍が見たものとは別の内容だ。

 それも、こうあせるということは、検閲にかければ発禁処分になるようなディスクなのだろう。


 ディスク一枚の申告もれと発禁処分では、マイナスポイントがケタ違いに異なる。異端レベルにもよるが、千や二千はかるく、ひかれる。


 しかし、残念ながら、さっきのディスクが忍の見たものとは違うという証拠がない。室谷の言いぶんは、つじつまがあっている。とりあえず、このときは申告もれで一点ひくにとどめた。


「今後、気をつけるように」


 室谷の不正をあばくには、こんな方法ではダメなのだ。

 検閲にひっかかるソフトを制作しているという、たしかな証拠がなければ。


(いいさ。私が異端者のなかでも異端だというなら、そのように生きるまでだ)


 あるいは自身をあわれんでいたのかもしれない。

 異端者たちにまで相手にされない自分を憐憫し、深い罠に落ちた。卑屈な気持ちをはねかえすために、意地になったのだ。


(あとで室谷の販売リストの商品を購入してみるか)


 収容所内では、収容者たちの作った品物やデータがコンピューターに登録され、誰でも購入できる。収容者たちは無収入だから、評価ポイントでの交換になる。


 いちおう所長や教官の検閲を受けるが、政府公安局の正式な検閲にくらべれば、はるかに基準が低い。とても内地では販売できないようなものまであると聞いてはいた。もちろん、島の外への持ちだしは禁止だ。


 考えているうちに、室谷は忍の前から逃げだしていた。

 ほんとうは、そっちのことを聞きたかったのに、昨夜の夢のディスクのことを聞きそびれてしまった。


 昨夜のあれは、なんだったのだろうか?


 仮想現実の夢の場合、たいていそうだが、内容を一分の狂いもなく正確におぼえている。


 最後のほうに出てきた青年は、たしかに昨日、この収容所に送られてきたブロンドの彼だった。


 室谷が彼を知るはずがない。ぐうぜん似た姿になったというには酷似しすぎている。彼を収容所に入る前にでも見たことがあるのか、たずねてみたかった。


 しかし、それにしても、全裸の青年が抱きついてくる夢なんて、よく考えたら公認できない内容だ。


 あんまり平穏な気持ちで快眠できたためウッカリしていたが、あれはよくない。せめて服を着せて、手をにぎるていどにとどめるべきだ。あれでは同性愛者のための欲望解消ソフトだ。


 午前中は、そのように、あれこれ思い悩むうちに終わってしまった。


 ディスクも室谷に返しそびれたので、忍は昼食の時間を切りつめ、再度、夢のソフトを使用してみた。


 映像の再確認というのは、自分への口実だったろうか?

 あんな内容を認可するわけにはいかないが、心の底では惜しいという気がしていたのかもしれない。もう一度、観てみたいと。


 映像はともかく、あのときの至福感はすばらしかった。麻薬的な心地よささえあった。


 休憩時間はまだ三十分ある。ソフトの所要時間は十分だから、時間は充分にある。


 自室に帰り、壁面に埋めこみ型の端末で試してみた。だが、どうにも奇妙なことが起こった。


 草原で花がひらき満開になる。

 そこまでは夢で見たのと同じだった。が、そのあとが違っていた。


 昨夜の夢では、あの金髪の美青年が現れたのに、このときは一面の花びらが舞いあがり、純白の羽毛に変化して草原にふりそそいだ。風にゆられて、とけていく。ただ、それだけだ。


 青年はもちろん、青年と錯覚するような人の姿さえ出てこない。


 ハッキリと忍は失望した。

 もちろん、ソフトは心地よかったが、昨夜の夢で見たときほどの強い陶酔感は得られなかった。


 ごくふつうの市販されているソフトのたぐいだ。


(どういうことだ? ソフトが誤作動したのか? そんなバカな)


 バグと言ってしまうには、あの映像はできすぎていた。


 あれがソフトを未使用の状態だったなら、昼間の忍の経験が反復作用として現れたと言えるが、バーチャルリアリティ中の脳波は、完全にソフトに制御されている。ほかの記憶がまざることなど、ありえない。


 もしかしたら、ソフトの映像が終了したあと、ソフトに刺激されて、そのまま自己発生的な夢に移行したのだろうか?

 しかし、それなら、ソフトの最後の部分、花弁がとびちり羽毛に変わる部分も記憶に残っているはずだ。


 あきらかに昨夜の夢は、ソフトの映像の途中で、まったく別の夢に変化してしまったのだ。


 どうにも説明のつかない現象だった。

 忍は少なからず、とまどった。


 ともかく、今夜も試してみるしかない。


 少し早かったが、忍は昼休みが終わる前に、地下十九階の研究室へむかった。ソフトのせいもあるが、あの青年のことが気にかかってならない。


 研究室へ入ると、篠山博士が待ちわびていた。


「来てくれたか。九龍くん。よかった。いやはや、まいったよ。君がいなくなってからというもの、手がつけられなくてね。すねて、ふくれて、ワガママほうだい。まったく山猫だ。そら、始まったぞ」


 忍が入室するのを見た彼は、ガラスに張りついて、こぶしでたたいている。一夜明けて、あらためて見ても、やはり彼の美貌は目がさめるように鮮烈だ。


「測定器は外そうとするし、食事はマズイと言って口にしない。やれやれだ。我々は検査のためにいるのか、彼の機嫌とりのためにいるのか知れたもんじゃない。君がいれば、少しはいいだろう。さあ、なかへ入って話し相手になってやってくれ」


 言われて、忍は無菌室のなかへ入った。

 昨日はガラス壁のなかまでは入らなかったから、ちょくせつ対面するのは初めてだ。


 なかへ入ったとたん、彼は抱きついてきた。

 夢のなかと同じように。

 夢と違っていたのは、彼の体温がハッキリと伝わってきたこと。


 細身なのは見ためでわかっていたが、すがりついてきた体は、すっぽり忍の胸におさまって、おどろくほど、きゃしゃだ。そして女のように、やわらかい弾力と、かぐわしく立ちのぼる甘い芳香があった。


「……やめたまえ。こういうことをしてはいけない」

「どうして?」

「社会のルールに反するからだ」

「そうなの?」


 言いながらも離れようとしない。

 忍はムリヤリひき離した。両手でつかむと、彼の肩は折れそうに細い。


 それでも貧弱に見えないのは、彼の身体的には、これで完ぺきに均衡きんこうがとれているからだ。西洋の彫像や絵画で見る、極限まで理想化された青年像だ。青年というより、少年というべきか。


 現実には存在しえないほど、ユニセックスななまめかしさを有している。


「食事をとっていないそうだね。よくないな。さあ、すわって」

「ほしくない」

「記憶がないのは病気なんだよ。食べて栄養をとらないと、体まで弱る」


 彼は忍の顔を見たあと、しぶしぶ承諾した。

「じゃあ、食べる」

「それがいい。何か持ってきてもらおう」


 ガラスの外を見ると、通話装置がオンになっているのだろう。

 博士がうなずいた。


「今、来るから、ここにすわって待っていよう」


 忍が寝台にすわらせると、彼は嬉しそうに忍の顔をのぞきこんできた。


「この顔、知ってる」

「昨日は兄だと言ったじゃないか?」

「そうだった? おぼえてない。でも、好きだよ。この顔。ねえ、ずっと、いっしょにいてくれるよね?」

「それはムリだ。私には仕事が——」

「イヤだ。そんなの」


 プイとふくれて、そっぽをむく。

 ほんとに猫のようにワガママだ。しかも、そんな仕草まで可愛い。


 話しているうちに、忍は今日あった不快なことなど、すべて忘れていた。


「なるべく会いには来る。休憩時間にでも。私は九龍忍。そのうち、君の上官になる」

「そしたら、ずっといっしょにいられる?」

「ずっとではないが、今よりは」

「じゃあ、早く、そうしてくれたらいいのに」


 むじゃきに喜んでいる彼を見て、こんなにきゃしゃな体で、ほかの収容者と同じ力仕事をさせるのかと思うと、胸が痛んだ。

 彼はそういう働きをするようには生まれついていない。


「まあ……そのうちだ。そのころまでには、君も自分の名前を思いだしているといいね。呼ぶときに困る」

「名前……なんだか、とてもキレイだったような気がする。わからない。でも、シノブもキレイな名前。クリュウ……忍は、竜なの?」


 とうとつだったので、忍は返事に窮した。


「竜って、八大竜王とか、東の青龍とかの、あの竜? 私が?」

「違うの?」

「竜は伝説上の生き物だ。私は人間だよ」


 彼は少しガッカリしたようだ。


「変だな。そんな気がしたんだけど」

「名字のせいかな」

「わからない」


 心細げなようすで考えこんでいる。


「なんにも思いだせない。でも……わたしは何かを探していたような気がするんだ。とても大切な……何か?」


 博士を見ると、何度も大きく首肯していた。

 忍は彼をなだめすかして、もっと詳細に聞きだそうとした。


 だが、そこへ食事が運ばれてきて、彼の興味がそれてしまった。ウンザリしたような顔をしながらも、おとなしくグリーンサラダやフルーツ、トースト、自家製ウィンナーなどを少しずつ食い散らした。


「お肉はもっと生焼けが好き。とろけるような、やわらかいのが。子どもの肉が好き」

「それは日本語の使いかたが、おかしいな。子どもはおもに人に対して使う言葉だ。食肉の場合は子牛、子豚、子羊などだね」

「大人のほうがおいしいところもあるよ」


 ウィンナーソーセージの端にフォークをつきたて、やたら、いやらしくしゃぶりながら、忍を見あげてくる。


 彼は言った。

「夢で会ったね。きれいな花畑で。また会えるといいな」


 忍は彼を見つめた。

 彼の真意をたしかめるために。

 だが、彼のけむるような薄紫の瞳からは、何も読みとることはできなかった。

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