一章 戒めー3

 3



 研究室のなかは白一色だ。

 ガラスの壁をはさんで二つの部屋がむきあっている。

 ガラス壁のむこうの部屋は実験室のようだ。


 そこに、あの人がいた。


(あのときの——)


 数時間前に森で見た男だ。

 拘束衣のまま壁に張りつけにされ、体じゅうに器具がとりつけられている。


 まだ、仮面を外されていない。

 しかし、肩から背中へと渦巻き、こぼれおちるブロンドの、なんという美しさだろう。


 みじめな姿をさせられているがゆえに、その輝きが、ひときわ目をひいた。いや、金色の髪のまばゆさが、彼の悲惨な姿をなおさらに強調していたというべきか。


 人間の手に堕ち、はずかしめられた神のようだ。


 忍が目をうばわれていると、ガラス壁の前に集まる白衣の集団のなかから、篠山博士が手招きした。

「九龍大尉。こちらへ。風間くんは、もういいよ」


 風間が出ていき、ドアが閉まる。

 忍はガラス壁の前へ近づいていった。


 より近くから張りつけにされた人物を見て、もう一度、衝撃を受ける。


 白い仮面からのぞいている双眸は、なんとも言えない、やわらかなスミレ色だ。水色のなかに紫がとけこみ、物憂いようなグラデーションをつけている。


 見つめていると悲しい気持ちになってくるのは、彼の瞳が何かを訴えかけてくるせいかもしれない。


 視線をもぎはなすことに、かなりの労力を要した。


「……所長。お呼びですか?」

「うむ。見たまえ。さきほど内地より送られてきた収容者だ」


「ずいぶん物々しいですね。あばれるのですか?」

「いや、そうではない。ひじょうに特殊なケースのため、用心の意味だろう。脳波などの精密検査をしてみたが、身体的な異常は見られない」


「では、何が異常なのでありますか? ここに送られてきたからには、異端者なのでしょう?」


 博士は本人とともに送られてきたファイルを指ではじく。


「何もかも異常だ。これほどハッキリ外見だけでわかる異端もめずらしい。第一に、ありゃ日本人じゃない。見てのとおり、金髪碧眼の西洋人だよ。肌の白さから見てスラブ系だろう」


 見れば、拘束衣の下は裸足だ。

 雪のように真っ白で、女のようにきゃしゃな素足がベルトで壁に固定されている。


「薬物投与によって色素を薄めるなどしているわけではありませんか? あるいは受精前にゲノム編集を受けている可能性はありませんか?」


「後者はわからん。薬物反応はなしだ。ゲノム編集にしろ、なんにしろ、彼は生まれつき、あの姿なのだ」


「旅行者ではありませんか? 外国人がわが国に入国するには、厳しい審査過程をクリアしなければならないとは言え、皆無というわけではありません」


 すると博士は、いよいよ苦りきったような顔つきになった。


「彼は発見されたとき、身分証明書はいっさい所持していなかった。むろん、パスポートもない。彼に該当する外国人入国者の記録もない。監視衛星のとらえた無許可の船舶、飛行体などの密入国もない。万一、衛星レーダーを回避できたとしても、生体反応プレートくらいはありそうなものじゃないか?」


「まさか、生体反応プレートが埋めこまれていないのですか?」


 それは、ありえない話だ。


 西暦二千六十年代に始まった宇宙時代の幕開けとともに、世界各国は多かれ少なかれ管理社会に移行していた。


 生体プレートは人工衛星を通して、いつでも個人の所在地や情報が把握できるので、国家として、たいへん便利なものだ。


 文明国と呼ばれるほどの国なら、どこでも新生児に生後一週間以内に埋めこんでいる。埋めると言っても切開するわけではなく、一つは脳内で、一つは心臓壁で定着するナノマイクロチップを経口投与するのだ。


 脳波をつねに管理されることで、医療的なメリットもある。


 また、チップをコンピューターに連動させて脳波をあやつり、思いどおりの夢を見たり、睡眠学習を受けることができる。


 このシステムの導入には、当初反対運動があったらしいが、現在では便利さが先行して、すっかり制度として固定化している。


 もし今、生体プレートを体内に埋められていない人間がいるとしたら、それは政府に未登録の私生児か、世界中でもごくわずかの秘境に存在する少数部族だけだろう。


「母親が私生児をタンスのなかで二十年も育てたとでもおっしゃるのですか? そんなバカな話……」

「だが現に、そのバカな話が、ここに存在している」


「しかし、多くの国で食料は配給制です。とても成人するまでは育てられないでしょう。もし、できたとしても、それなら、彼は予防接種をいっさい受けていないことになるのではありませんか?」


「血液検査の結果、彼にはどんな種類のワクチンも投与された形跡がない」

「えッ?」


 博士はぶあついガラスの壁をコツコツとたたいた。

「このなかは今、無菌だよ」


 忍は絶句して、しばし、無菌室のなかの悲しげな薄紫の瞳を見つめた。

「よく今まで生きていましたね。未開地では宇宙線病など、新たな病が多発していると聞きますが」


「どういうわけか、奇跡的にまったくの健康体だ。彼の免疫細胞を調べてみないことにはわからんが、自然治癒力が高いのだろうな。そっちの結果が出るには数日かかる。もしも、彼の体から特殊な抗体でも発見されれば、今後の科学の発展に多いに貢献するよ」


 博士は興奮した口調で続ける。


「とにかく、ひじょうに貴重なサンプルだ。徹底的に研究しなければならん。いかんせん、彼には記憶がないのだ。当人からの情報は得られんが……まあ、それもどのていどの症状なのか、調べてみなければな」


 入国経路の不明なプレートのない外国人——それだけでもトリプルAクラスの椿事ちんじだ。なのに、そのうえ、彼は記憶喪失だという。


「ほんとうに記憶がないのですか? 他国のスパイで忘れたふりをしているわけでは?」

「脳波測定では、彼の供述にはウソはないという本部の調査結果だ」


「では、会話はできるのですね?」


「日常会話くらいはできるようだな。ことによると、君の言うとおり、スパイなのかもしれんな。任務に失敗したときには、記憶を退行させる暗示でもかけられていたか。それにしても、いくらスパイでもプレートは持っているはずだ。予防接種も……どうも、わからん」


 ひとりごとのようにつぶやいて、博士は右往左往する。

 忍は問いかけた。


「しかし、そういう事情ならば、本部に置くのが当然ではありませんか? 記憶喪失ていどの異常は異端レベルBというほどではないはずでは?」


 すると、博士がファイルを忍の胸に押しつけてきた。

「これが、彼の発見された直後に撮られた映像だ」


 動画を静止画としてプリントアウトしたものが、ファイルに貼られていた。全身像だ。画像が小さくて顔立ちまではわからないが、着衣はものすごい。


 とんでもないカッコだ。

 透きとおった布地のロココ調のドレスの下に、派手な色の女物の下着。レースの手袋。ヒールの高い靴。蛇をデザインした貴金属をたくさん身につけている。ドレスはナイフで切りさかれたようにズタズタだ。


 体のラインがあまりにも、しなやかなので、一見、女性のようだが、胸部はたしかに平らだ。胸の白さが強烈に目をひく。


 忍は目のやり場に困って、すぐに視線をそらした。

 かなり赤面したのではないかと自分で感じる。


「これは……衣装倒錯ですか? 正気とは思えない」

「脳波は正常だから、正気だろう。ちなみにドレスは、もともと、そういう仕立てらしい」


「正気で、この服装ですか……」

「露出狂と女装癖がからみあっているのだろうな。わかっただろう? とにかく、何から何まで異常なのだよ」


 なるほど。これでは本部のお歴々が、彼を手元に置くことを嫌うはずだ。


 それにしても、こんな重大なことを、博士はなぜ、忍に打ちあけるのだろうか?


「自分が呼ばれたのは、彼に関連することですか?」


「彼を君の担当グループに組みこもうと思う。もちろん、その前に、ここから出られるよう、むこう数ヶ月で彼には各種の予防接種を受けてもらうが。プレートも埋めこむ。つまり、我々と同じ体にしてから外に出し、通常の収容者のあつかいをする」


「了解しました」


「そういうことなら君も彼の顔を見ていかんかね? じつは我々もまだ見とらんのだ」


 いずれ、自分の受け持ちになるのなら知っていなければならない。

「はい。では」


 博士は研究員の一人に命じた。

「有田くん。仮面をはずしてみたまえ」


 有田と呼ばれた研究員は、殺菌消毒を受けてからガラス壁のむこうに入っていった。


 有田とならぶと、彼はとても小さく見えた。


 ファイルで見れば、彼の身長は百七十四センチと記されている。現今、日本人でも成人男子は百九十なんてザラだ。西洋人にしては、かなり小柄だ。


 背丈もだが、東洋人とくらべてさえ、きゃしゃな骨組みをしている。写真を見たあとでなければ、ほんとは女じゃないかと疑うほどだ。


「井上くん。音声スイッチをオンに」と、博士は、さらに別の研究員に声をかける。


 壁ぎわの機器類の前にいた研究員が、装置を操作した。

「通話可能です」

「うむ。有田くん。はずしたまえ」


 ガラスのむこうで、有田研究員が、緊張のためか、少しふるえる手を仮面にかけた。留め具のはずされる音が小さく聞こえた。白い仮面の下から、ゆっくりと彼の素顔があらわれる。


 想像していたとおり、彼は美しかった。

 いや、想像をはるかに凌駕した美貌だった。


 オパールのように純白のひたい。

 形のよい金色の眉。

 きざみこまれたような二重まぶた。

 キラキラと光る長いまつげは、髪よりやや色濃く、マスカラをぬったように、ふっさりと瞳をおおう。

 細く通った鼻梁には気品があり、なめらかなほおに薔薇色が透けている。

 赤い唇は両端が、つんとあがった笑口だ。肉感的な口唇に、ほのかな愛らしさをそえている。


 美しかった。

 魂を吸いとられそうなほど。


 見つめながら、忍はギリシャ神話に出てくるトロイのヘレネーというのは、こういう女だったのだろうかと考えた。こんな女のためなら、国と国をまきこんで戦になることもあるかもしれない。


 あの話を図書館で読んだときには、神話のなかでしかありえない虚構だと思ったものだが。


 研究員のあいだからも感嘆の声がもれた。

 つかのま時が止まったかのように、みなが見とれていた。

 すると、とつぜん、彼の双眸から水晶のような涙がこぼれおちた。


「あに……う、え……」

 かすれた声が朱唇からもれる。


 モニターをながめた井上研究員が叫んだ。

「脳波に変化が! 記憶中枢に反応ありです」


 博士がやつぎばやに質問する。

「君、聞こえるね? 名前はなんだ? どこから来た? なんのために?」


 だが、そのときには彼の涙はおさまりかけていた。あどけないようなしぐさで、まばたきする。キョロキョロと目玉だけを動かして、あたりを見まわしている。


 井上研究員が言った。

「反応、消えました」


 博士は嘆息した。

 そのため息に、彼の声がかさなった。

「ここから、おろして。この服も苦しくて、イヤ」


 絶世の美女のような顔なのに、声変わりした若い男の声だ。

 でも、ひびきがやわらかく、少しハスキーがかっているので、聞きようによっては、ひじょうに低い女の声にも聞こえる。


 小柄なはずだ。西洋人でこの見目なら、まだ十六、七ではないだろうか。


 博士が気をとりなおしたように、たずねる。

「君は誰だね?」


 彼は首をふろうとしたようだ。しかし、固定された頭部や首が痛んだのだろう。また、じわじわと涙が盛りあがってきた。


「お願い。おろして」


 そう言いながら、彼の瞳が、さっきからずっと忍を見ているような気がするのは、うぬぼれだっただろうか?


 忍はガマンならなくなって、博士に意見した。


「博士。おとなしいようですし、おろしてはいかがでしょう?」

「そうだな。言葉も通じる。問題はないだろう。有田くん。支えてやりたまえ。佐藤くん。かせを外してくれ」


 二人の研究員が言われたとおりに動く。

 彼は留め金を外され、有田研究員の腕のなかにくずれおちた。

 有田の顔が真っ赤になる。


「有田くん。両手を自由にしてやりなさい」と、博士。


 胸の前で交差するミイラのような手つきで縛る拘束衣の袖を、有田がといた。


 すると彼はむじゃきに笑って、自分の手で拘束衣をぬぎ始める。その下には何も着ていない。純白の肌がまぶしいほど目に焼きつく。


 忍があわてふためくのは当然だ。人前で肌を見せることは慎みがないと言って、毛嫌いされる世の中だ。同性でも、誰か別の人物がいるところで着替えることなど、まずない。


 博士の声も、ぎこちない。

「服——服だ。早く、山根くん、持ってきたまえ」

「は、はい!」


 ガラスのこっちでは、みんな大あわてだが、当人は赤ん坊のように恥じらいがない。ニコニコ笑いながら、うつむく忍の前まで近づいてきて、ガラスに両手をあてた。チラリとうかがうと、目があった。まちがいなく、忍を見ている。


「脳波にふたたび変化です。反応はおだやかですが、さきほどの波形に似ています」

 井上の声が聞こえてくる。


 博士が考えこむ。


「九龍大尉。どうやら、君の存在が彼の記憶を刺激しているらしい。さきひど彼は『兄上』と言ったのではないかね?」

「はあ……私も、そのように聞こえました」


「君は彼の兄に似ているのかもしれない。いいだろう。九龍大尉。君にスケジュール変更を許可する。明日より毎日、午後の一時間を彼のために使いたまえ」

「はっ。了解しました」


 話しているあいだに着替えがとどき、彼はカーキ色を着せられてしまった。服はブカブカで、彼はおもしろがって袖をふって遊んでいた。


 その夜、忍はあの夢を見た。

 すべての終わりと始まりを告げる、あの夢を……。




 *



 最初はぐうぜんだと思っていた——


 いつも定時に就寝する忍だが、この日は室谷からディスクを受けとっていたことを思いだした。


 睡眠時に夢になると言っていたから、自室のコンピューターにインストールし、レム睡眠時に自動再生されるようにセットしておく。


「ゾロメ。もし、私がうなされるようなら、真夜中でもいい。起こしてくれ」

「うなされる予定がおありですか?」


「予定というか、万一のための保険だな。朝はいつもの時間に起こすんだ」

「それは心得ております。おやすみなさいませ。マスター」


「おやすみ。私の忠実なるボールくん」

「ボールではありません。ゾロメです」

「うんうん。おやすみ。ゾロメ」


 疲れていたのだろう。

 目をとじると、すぐに眠りに落ちた。


 夢を見ていた。

 あきらかにディスクの見せる夢だということはわかっていた。

 脳波をコントロールして見せるバーチャルリアリティーの夢は、覚醒時のようにすべてが鮮明なのだ。


 目の前に青空が広がっていた。

 忍は草の上に寝ころんでいる。

 見渡すかぎりの草原だ。

 風が快く吹きぬけていく。


 どこからか、かすかにピアノ曲が流れている。

 うっとりするほど心地よい音楽だ。


 忍が半身を起こすと、草のなかから芽が伸びだし、かれんな花を咲かせた。草原のあちこちから、次々に美しい花がひらいていく。まるで映像を早送りで見ているようだ。


 赤い花。青い花。白に黄色。薄桃色。

 大輪の花。

 そぼくな花。

 みるみる草原は花だらけ。


 透きとおるボーイソプラノの歌声が、天上のかなたから降ってくる。


 いつのまに、目の前にあったのだろう?

 そこに、彼がいた。

 ガラスの柩に人形のように入れられている。

 陽光に輝くブロンドが、全裸の肌をいくばくか隠していた。


 眠っているのか?

 彼は目をとじている。


 昼間もガラスの壁に阻まれていた。

 近いのに遠い、この距離を、ひどく切なく感じる。


 すると、忍のその感情を察知したかのように、彼のまぶたが、すっとひらいた。そして、彼が両手を伸ばすと、柩の前面が消える。ほほえみながら、彼は忍の腕のなかに、すがりついてきた。


 幸福な、おだやかな気持ちで、忍は彼を抱きしめた。

 音楽と花の香り。

 純白の裸身が溶けるように、にじんでいく。


 ただ幸福の余韻だけが、いつまでも続いていた……。

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