一章 戒めー2

 2



「おはようございます。マスター。七時です。目をさましてください」


 やわらかな女の声が眠りのなかに入りこみ、忍は寝返りを打った。


(母さん?)


 そうよ。忍。ずいぶん大きくなったわね。ずっと、あなたに会いたかったのよ。お父さまの期待にそった立派な大人になりましたか?


(はい。母上。士官学校を首席で卒業し、火星開発権をめぐる戦争に出兵しました。殊勲を認められ、大尉に——でも……申しわけありません。私は今、収容所に……父上の反対を押しきって……)


 ああ、いけませんね。あなたが早く起きないからですよ。マスター。もう七時五分なのに。いつもより五分もオーバーしています。起きてください……。


 夢のなかの母の声が、しだいに大きくなり、忍は目をさました。お手伝いロボットの丸いボディがクルクルまわりながら、忍を見おろしている。


「おはようございます。本日のマスターの体温、三十五度九分。やや低めです。脈拍、心音、血圧、血糖値、呼吸数、正常値。病原体への感染はありません。脳波は正常ではありますが、シータ波多し。寝ぼけモードと見られます」


「誰が寝ぼけてるだって?」


 忍が銀のボールを押しやると、彼女は全身をピカピカ点滅させて笑った。


「ワタシはお手伝いロボット。製造番号RAE00777——マスターの命名によるペットネームはゾロメです。マスターの母上ではありません」


「口のへらないヤツだ。着替えの用意をしておいてくれ」

「了解しました」


 ゾロメが飛んでいき、忍は浴室に入った。


 収容者たちの施設では、共同のシャワールームがもうけられているらしいが、監視兵や教官などの職員が使う中央管理室の建物内には、個室ごとに浴室がついている。


 忍のコンパートメントは地下十七階にあり、単身者用のワンルームマンションに似ている。持ってきたのは着替えと日用品ばかりだから、そなえつけの家具以外、なんの飾りもない殺風景な室内だ。


 洗面台の前でヒゲをそり、顔を洗うと、忍は鏡に映る自分をまじまじと見つめた。


 卵形のりんかくに、まっすぐ通った鼻すじ。二重まぶたの切れ長の双眸。まつげが濃く、薄い口唇は赤く、軍人らしくない女顔だ。白くなめらかな肌が、まぶたにほのかに青い陰影を作り、化粧しているようにすら見える。


 母に瓜二つだという。

 忍の記憶のなかの母の顔は、もうあまりハッキリしなくなっている。母は忍が五つのときに、家風にあわないという理由で離縁され、その後の行方を忍は知らされていない。


 もともと父が大恋愛のすえに、よい家柄とは言えない母を、両親の反対を押しきって妻にした。


 そういういきさつだから、けっきょく結婚生活はうまくいかず、母は追いだされ、まもなく二度めの母がやってきた。

 家柄のよい教養のある義母は、祖父母のおぼえもよく、父とのあいだに一男一女をもうけた。


 弟妹は可愛かったが、忍が二人をかまうことに、祖父母も義母も、いい顔をしなかった。


 家のなかで、忍は自然と一人でいることが多かった。

 父だけは忍をたいそう溺愛してくれたが、軍人なので留守がちだった。


 だから、自分の家にいながら、赤の他人のなかで育ったも同然だった。ひどい虐待やイジワルをされるわけではなかったが、忍が何をしても、誰も無関心だった。


 九龍家の跡取りは弟の拓也と決まっていたし、忍が優秀である必要はなかった。


 むしろ、優秀でないほうが、義母には喜ばれたのだろう。なまじ学校の成績もよく、適性検査の評価が高かったものだから、嫌われたのに相違ない。


 婚家を追いだされた実母の遺伝子が劣っているわけでないことを証明するために、子どもなりに努力した成果だったのだが……。


 それにしても、母の夢など、ひさしぶりに見た。

 やはり、ゾロメの声を眠りのなかで聞いたせいだろう。

 忍に対して、あんなに優しく女の声が語りかけてくることなんて、久しくなかった。


(照日さまとは、語りあえるような立場ではなかったしな……)


 婚家を追われた母は、今どこで何をしているだろうか?


 良家の女ならば、たとえ離婚しても、相手の家柄が劣るなどの条件に目をつぶれば再婚も可能だ。


 だが、下層階級の女ほど、それが難しくなる。一度でも結婚に失敗した女の評価はさがる。あえて、その女をめとる者は、よほどのメリットがないかぎり、いなくなる。


 働くにしても、どこへ行っても離婚の二文字がついてまわる。よい職業にはつけない。人のイヤがる過酷な労働について、細々と暮らしていくか、身をもちくずして非公認の酒場にでも流れていくか……。


 そんな母の境遇を思うと、胸がしめつけられるように痛む。


 成人して自分の収入を得るようになってからは、ヒマを見ては母の行方をさがした。しかし、見つからなかった。とうに鬼籍きせきに入っているのかもしれない。


 物思いにふけり、ぼんやりしていた忍は、ガラスドアの外からゾロメに呼びかけられ、我に返った。


「マスター。遅いです。十分もたっています。遅刻しますよ。遅刻は評価ポイントマイナス二点です」


 あわてて忍は浴室を出た。

 シャワーも浴びたかったが、そんなことは言っていられない。


 忍は評価ポイントをためて、いつか母が見つかったときに休暇をとりたいと思っていた。減点行為はひかえなければならない。


 ゾロメの用意した半袖の略装に着替えると、警棒をベルトにさし、髪にクシを入れ、ろうかへとびだした。


 朝食は地下一階の大食堂で六時より八時までのあいだ。

 八時からは通常任務だから、実質、七時五十分までには終わっていなければ、まにあわない。


 もっとも、収容者たちは七時には作業を始めていなければならないので、教官や兵士はそれだけでも優遇されている。


 地上部分では別個になっているが、収容所のすべての建物は地下でつながり、一つの巨大なシェルターになっている。エレベーターによって行ける階層が決まっているのだ。


 地下一階から四階までは食堂、医療室などの公共施設。


 地下五階から十五階までが収容者のコンパートメント。最大五千人まで収容可能だ。現在は空室も多い。


 十六階と十七階が職員のコンパートメント。

 その下は二十階まで研究施設や動力室、海水ろ過設備、製塩室、モルグなどがある。


 地下一階の食堂はすいていた。

 収容者は二千人だが、職員は百名に満たない。収容者のいない、この時間には、ほとんど空席だ。


 食堂は講堂もかねているので、収容者全員を収容できる。

 そのため、やたらと、だだっ広い。


 忍がトースト、フルーツ、スクランブルエッグのかるい朝食のトレーを持って、百人がけの長卓の端にすわると、どこからか風間曹長がやってきて、ぽんと忍の肩をたたいた。


 トレーの上の皿は食べかけだから、席を移ってきたのだ。

 内地の公共施設でなら、減点ポイント0.5というところだ。

 変人たちのお守りという不毛な任務のせいか、それとも変人に感化されてしまうのか、どうも、この島の兵士は規律にルーズなようだ。


 監視カメラはエレベーターの昇降口など、要所にしか設置されていない。監視用のインセクトカメラも放されていない。見張られていないという安心感が、そうさせるのだろう。


 忍が島に来て、ちょうど一週間になる。

 こういう風潮には、まだ、なじめない。


「おはようございます。大尉。少しは、ここになれましたか?」


 尉官クラスに下士官が話しかけるにしては、口調もなれなれしい。が、たしかに風間曹長は何くれとなく忍のことを気にかけてくれている。その点は評価すべきだろう。


「おはよう。おおむね生活のペースはつかめた」

「誰でも最初はとまどいますから、心配していたんですよ。ところで、ご家族にメールなどあれば送ります。今日は輸送機の来る日ですので」


 収容者の有害な思想が外部にもれないよう、磁気バリアに守られた島からは、パソコンを使ったメール通信さえできない。

 あくまで外部とのやりとりは輸送機を通さなければならない。


 忍は昨日のうちに作成しておいたメールディスクを、だまってポケットからとりだした。父への謝罪と近況報告がビデオメールで録画されている。


 風間曹長は微笑で受けとった。

「承りました。輸送機の到着は予定なら十時ジャストです。天候によって、多少ずれますが」


 そのあと、台風の季節のさんたんたる状況を述べる風間曹長の声を聞きながら食事を終えた。


 八時十分前に農園に行く。


 今日の忍の予定表は、午前中いっぱい農場での作業見まわり、午後からレクリエーションでくつろぐ収容者に、個別の矯正プログラムにそった指導をあたえるというものだ。


 教官の予定は週末に次週のスケジュールを自分で申請するので、基本は何をしていてもいい。


 収容者たちは約百人のグループにわけられている。教官はそれを何組か受けもつ。忍は今のところ、十一グループから十三グループまでの三グループを任されている。


 収容者たちは、ほっといても作業しているので、事実上は教官なんて必要なかった。


 退屈なだけの仕事のようだが、忍にかぎっては意外とそうでもない。なんだかわからないが、赴任してきた初日から、異様なくらい収容者たちになつかれているのだ。


 畑仕事のときも、レクリエーションのときも、あちこちからお呼びがかかって忙しい。行ってみれば、たいていは、たいした相談ではないのだが、ほっとくわけにもいかない。


 初日の所長室でのことがあるから、初めは親しげによってくる収容者を全員、異常性愛者ではないかとかんぐったが、疲れるばかりなので、そのうち気にすることをやめた。


 忍が担当グループの畑地まで行くと、収容者たちは、せっせと作業していた。朝は収穫作業だ。作物は劣悪な環境でも豊かに実る遺伝子組み換え品種だ。毎朝、収穫できる。


「おはよう。大尉」

「大尉。おはようございます」

「よう。大尉。今日もいい天気だねぇ」

「大尉。もぎたてのキュウリかじってみるか?」

「教官! 子牛が生まれたんだ。見にこいよ」


 声をかけてくる収容者にうなずき、あいさつを返しながら歩いていく。


 一週間では三百人全部の顔をおぼえるまでにはいたらない。ほとんどは、おとなしく、正常人と変わらない者ばかりだ。


 だが、なかには個性的な連中もいる。


「平林。君はそこで何をしているのだ?」


 声をかけると、木かげに寝そべって本を読んでいた男が、めんどくさそうに目をあげた。


 平林郁男は二十八さい。麻薬所持で何度も捕まった男だ。

 わりにハンサムで理知的で、そのくせ性格はだらしなく、忍とは正反対である。


「ああ、大尉。今、いいとこなんだ。もうじき終わるよ」

「また図書館の本を勝手に持ちだしたな?」

「うん? なんだって?」


「文献の無許可持ちだしは減点二。怠業は減点六。計八点のマイナスだ」

「はいはい。減点ね。別にいいぜ。今日は働く気分じゃねぇよ」


「気分を優先させていては、社会の一構成員とは言えない。君は頭脳はすこぶるいい。適性検査では、いくつかの上位職業で良好な結果を出している。まじめに働きさえすれば、いくらでも更生できるのだが」


 平林のとなりにすわって長々と説教すると、彼は急に本をとじて起きあがってきた。


「なあ、あんた。そんなふうに生きてて、疲れないか?」

「言っている意味がわからないな」


「だろうね。あんたみたいな人が、なんで、こんなとこ来るかね。不思議でならないよ」

「不思議でもなんでも、私は教官だ。午後から作業にもどるなら、怠業の減点を三点に抑えておこう。やる気はあるか?」

「イエッサー!」


 サッと敬礼して、平林はクスクス笑った。

「でも、キライじゃないね。ミスター石頭」


 どういうわけか、忍も彼のことがキライじゃなかった。

 ひょうひょうとして風のようにつかみどころのない平林は、いつも、とても生き生きしている。


「ときに、いつも君のまわりをウロついている児玉は、どこに? ちゃんと作業しているのか?」

「チビなら、そのへんにいるだろうよ」


 ニヤニヤ笑っている。ウソをついているのだ。


「知っているのなら答えたまえ」

「さあ? おれはアイツのボスでもなけりゃ、イロでもないし」

「イロ……?」

「純粋培養だねぇ。水平リーベ、ぼくのお船」


 そこで、なぜ元素記号のごろあわせになるのか、わからない。


「まあいい。さがしてみる」

 と言って立ちあがったところに、とうの児玉直輝こだまなおきがかけてきた。


 平林が直輝をチビと言うのは、いたしかたない。

 背丈も百六十センチに満たないが、これは第二次成長期の途中だからだ。


 直輝は全収容者のなかで最年少の十四さいだ。

 十さい違いの弟と同い年であるため、忍は直輝のことを特別、目にかけていた。この年でレベルBの異端者とは、あまりにも哀れだ。


 調べてみたところ、直輝の収容原因はひとことで言えば、うつ病だ。


 適性は音楽家だが、軍人の父は息子を軍人に育てようとした。結果、繊細すぎる少年の精神は疲弊しきって、奇矯なふるまいが目立つようになった。収容所に入れば治るのだが、家に帰ると、ぶりかえす。


 直輝の場合、本人より、本人を適性に進ませない父親を矯正しなければ、なんの解決にもならない。


「平林さん! 森でスゴイもの見ちゃった!」

 大声で言いながら走ってきて、木かげにいた忍に気づくと、直輝は真っ赤になって、うつむいた。


「あ……教官。ぼく、減点かな?」


 かわいそうだが、直輝だけ特別あつかいにはいかない。


「今すぐ作業にもどれば、二点減点ですまそう」


 直輝は安堵した。が、気になるようすで、チラチラと森を見る。


「あの……今すぐ?」

「今すぐだ。君は家畜小屋の係だったね。子牛が生まれたそうだ。見てきたまえ」


 少年の瞳が、パッと輝く。

 何日も前から楽しみにしていたのだ。いつもなら、すぐにでも走りだしているだろうに、なぜか今日はためらっている。


 すると、平林が笑いだした。

「午前中だけのサボりなら、三点でいいんだと。おまえ、どうせ、バッチリ評価ポイント、ためてるんだろ? 見に行こう!」

 直輝の背中を押して走っていく。


 忍はあとを追った。

「待ちなさい。待たないか。勝手な行動はゆるされない。森は君たちの移動許可エリア外だ。また減点されたいのか?」

「いいから、大尉も来いよ。おもしろいもんが見られるっていうんだからさ」


 ふだんは、だるそうにしているくせに、こういうときの平林の行動はすばやい。軍隊で鍛えた忍が、なかなか追いつくことができなかった。


 やっと追いついたときには、もう森の入口まで来ていた。

 ちょうど、一台のホーバークラフトが帰ってくるところだ。


(そうか。輸送機が到着したあとなんだな)


 操縦しているのは、風間曹長だ。

 この前、忍が乗せられた四人乗りである。

 前回と違うのは、助手席にすわっている男が、異様な風体をしているということ。


 男……なのだろう。かなり細身だが。


 全身を拘束衣でしばられ、顔にまで、錯乱状態の精神病患者が舌をかまないように使用される仮面をつけている。頭も体も白い包帯でグルグル巻きにされたミイラ男のように見えた。


 ただ、まぶしいばかりの金色の髪が肩にこぼれるのが、遠目にもハッキリとわかった。


 直輝と平林がささやきあう。


「ね? スゴイでしょ? ブロンドだよ。今時、ハーフなんているんだね」

「まさか。衣装倒錯かなんかで送られてきたんだろ。染髪料だって、ヤミでなら手に入る」


「それなら、拘束衣まで着せないんじゃないの?」

「どうかな。しっかし、妙にそそる絵だったなぁ」


 忍はだまって二人の会話を聞いていた。

 たしかに、ひどく気になる。


(なんだろう? この感じ。どこかで……?)


 既視感にゆさぶられて、忍は長いこと考えこんでいたらしい。

 ゾロメの声が物思いをさます。


「マスター。コダマ、ヒラバヤシが逃げます。よろしいですか?」


 平林が子どもみたいに両手をふって、忍をからかいながら逃げていくところだった。もちろん、ホーバークラフトはとっくに建物のなかに入り見えなくなっている。


「こら! 待たないか」

「わかった。わかった。もう働くよ。おれみたいな文士が土にまみれて。世の中、まちがってるね」


 逃げていく二人を追うのをあきらめて、忍は歩きだした。

 まだ頭がぼんやりする。


 しかし、それだけのことなら忘れていた。

 ところが、午後になって、レクリエーションルームにいた忍のもとへ、篠山博士の呼びだしがかかった。


 そのとき、忍は藤川勇という男の絵を感心しながら、ながめていた。


 藤川は四十代なかばの目つきのするどい男だ。


 芸術家というより、軍人か武術家めいた風貌だが、今どき、めずらしい、テレビン油を使って絵の具を画布にぬりつける、古風な手法の画家だ。


 コンピューターグラフィックや脳波連動のホログラフィーなどもやるらしいが、水彩、油絵、コンテ画など、古めかしい画材を好む。


 そういう作品は手間のわりに見返りが少ないので、多くのアーティストはさけるのだが、藤川はあくまで古典的手法にこだわっていた。


 革命前ならともかく、現在の日本では、芸術家の地位は低い。


 評価の高い職業は、一位が軍人、次いで医者、科学者、学者、エンジニアときて、あとは社会貢献度の高い順に、肉体労働や生産業、製造業、流通業、販売業とくる。


 接客などのサービス業はその下で、そのなかでも娯楽業と呼ばれる音楽家、画家、作家、スポーツ選手などは底辺だ。


 そのように地位が低いのだから、アーティストは収入も少ない。


 娯楽産業は鑑賞したり購入するのに、評価ポイントを対価として消費する。いつでも好きなときに好きなだけ行ったり買ったりできるものではない。需要がたいへん少ない産業なのである。このため、アーティストはつねに困窮していた。


 評価ポイントは給与とは別に個人にあたえられる社会貢献度の査定である。毎日の生活のなかのあらゆる行動で加減される。社会に貢献すればプラス。その逆ならマイナス。


 総合ポイント数がマイナスになると、異端レベルが加算されていく。


 しかし本来は政府から国民へのボーナスのようなものだ。

 評価ポイントがたまれば、特別休暇をとったり、嗜好品を購入したり、あるいは現金とも交換できる。


 そういう代物だから、ほんとうに欲しいもの以外に安易に使うことはできない。


 だから、あまり点数を作れない手描きの作品ではなく、コンピューターを使って大量生産できる、デジタルグラフィックで生計を立てるアーティストがほとんどだ。


 藤川のような存在は、ひじょうに稀有けうである。


「とてもキレイな絵だね。花や風景は多くの人が好む画題だ。いい傾向だと思う」


 忍はほめたつもりだったが、藤川は気難しい顔で、だまりこんでいた。


 忍は藤川の絵の多くを見たわけではない。だが、たしかに彼の絵には、ある種の迫力がある。見つめていると、絵のなかにグイグイひきこまれていきそうだ。


 芸術家の地位が高い時代だったなら、天才とうたわれていただろう。


 しかし、天才なだけに、その絵には多かれ少なかれ毒がある。

 藤川が今、描いているような、ありふれた花の絵ですら、そうだ。


 人々が求めるのは、満開の花の美しさや、つぼみの可憐さ。枯れかけがまざっているとしても、咲き誇ったあとの残りの美といったものだろう。


 しかるに藤川の絵は、花の形をしていながら、今にも死人の手に変化していきそうな禍々しさがある。


「ああ……この絵は売るつもりかね?」

「まあね」

 ひとことだけ、ぶすりと答えてくれる。


「それなら、どうだろう。このへんの花は、あんまり枯れすぎじゃないだろうか? 多くの市民が壁に飾りたがるのは、もっと生き生きした花だろう」


 こういうアドバイスをするのが教官の仕事だ。が、藤川は鼻先で笑った。そして、返事のかわりに、とつぜん、するどい三白眼で忍をにらんできた。軍人の忍でも、ちょっと、おののく。


「九龍大尉。今度、あんたの肖像画を描いてやろう。あんたが火星の赤い土の上で、岩の下敷きになっているところだ。端正な顔の半面がくだかれ、血まみれになっている。だが、残りの半面は血の気が失せ透きとおるように美しい……いい絵だろう?」


 忍は吐き気がした。

 収容者たちは、ふだん、おとなしい。でも、ふとしたはずみで異端の一面をかいまみせる。そこにいるのが無害な市民ではないということを、如実に感じさせる。


 ひるむ忍を無視して、藤川はキャンバスにむかった。

 よこから手が伸びてきて、忍の腕をつかむ。CGやゲームソフトを作成して点数をかせいでいる、室谷むろやだ。


「ほっときなって。画家センセ、ドSなんだよ。キレイなものほど、めちゃくちゃにしてやりたいのさ。あんた、気に入られてるんだ」


 レクリエーションルームにそなえつけのコンピューターにむかって、何やらプログラムしながら言う。


 室谷はまるで出っ歯のネズミみたいな容姿で、近眼で猫背である。いつも人のことを上目づかいに見るので、なんとなく卑屈に見える。なんでも有害なソフトを作って、ここに送りこまれてきたらしい。


「こいつは売れると思うんだ。そろそろ、おれもポイント、かせがないと。あとで試してみてよ。リラクゼーション用のバーチャルリアリティ。脳波にシンクロしてさ。睡眠時に使用すると夢になるやつ」


 データをディスクにコピーして、手渡してくる。

 教官の立場としてはイヤとは言えない。内心は、こういう男の作ったものを試すのは、そうとう勇気がいるが。


「わかった。チェックしておく。所要時間は?」

「十分ほど。直輝の歌、使ったからね」


 直輝の音楽的才能は素晴らしい。歌声も天使のようだ。

 それなら期待できるかもしれない。


 そこへ入口のドアがひらいて、風間曹長が入ってきた。


 レクリエーションルームは使用目的別に何室かにわかれているが、どこも収容者だらけである。カーキ色の群れのなかで、軍服姿は目立つ。


 風間曹長は苦もなく忍を見つけて、足早に近づいてきた。


「大尉どの。所長がお呼びです。来てください」

「所長が?」


 こんな時間に妙だとは思ったが、命令なので、忍は急いだ。


「ゾロメ。所長の呼びだしにより、午後の勤務、一時中断だ」

「はい。記録しておきます。緊急レベル一ですね」


 中央エレベーターに乗り、風間曹長に案内されていく。

 今回は所長室ではなかった。

 地下十九階の研究施設内の一室だ。


 銀色のドアが音もなくひらく。

 忍は息をのんだ。

 明るい電光のもと、その人がいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る