第4章

告白

 どれくらいの時間飛んでいただろう。私にはよく分からない。数分かもしれないし、数十分かもしれない。あらゆる感覚が白い霧に飲み込まれ、宙に溶けだし、時間や距離を上手く測ることができなかった。


 とにかく私とコウモリは、数値化することのできない霧の荒野を抜けた。そして緑の生い茂る丘に辿り着き、一本だけぽつんと生えている樹の下に着地した。


「おっとっと」


 長い飛行を終えたあとだと足元がふらつき、転びそうになる。だけど、なんとか踏ん張って地面に立つことができた。

 見上げれば気持ちのいい青空が広がっている。雨も霧もないところへ来たのは一日ぶりだ。深呼吸をすると、純度の高い空気が体の中に満たされる。


「さ、ここからは一人で行きなさい」

「コウモリさんに会いたいときは、どうすればいいの?」

「アタシは朝日が昇り始めるときにこの樹で少し眠るから、そのときに来ればいるわよ」

「そんなの、最初に言ってよ」

「訊かなかった方が悪いのよ」


 伝えなかった方が悪いのか、訊かなかった方が悪いのか。不毛な議論だ。


「じゃあ、何かあったらここに来るね」

「次にアンタが来たときには、異物問題が解決していることを祈るわ」


 私は何も答えずに笑顔で頷き、緑の丘の向こうへ歩き出した。



 風の色の市街地に着いたあとは、一時間ほど歩いてカナデの家に帰った。合鍵で玄関扉を開け、リビングのソファーに倒れ込む。時計を見てみると、もう午前十時を過ぎていた。


 テレビをつけ、遅めの朝食である食パンを牛乳で口に流し込む。塩味の歯磨き粉をたっぷり使って歯を磨く。洗濯物はまだ溜まっていないので、部屋の掃除だけ素早く終わらせる。

 要するに、午前中はいつもと同じように過ごした。今更じたばたしたところで事態が好転するわけでもない。


 やるべきことがなくなると、またソファーに座り、テレビを消した。そして、静かに思索の海へ潜った。


 ここへ帰る途中から考えていたことだけど、今日は小森さんの家に行こうと思っていた。私が異物混入させたことも含めて、今まであったことを全て話し、謝罪するのだ。


 コウモリは、私が見聞きした全てのものが一つに繋がると言っていた。その言葉をまるっきり信用したわけじゃないけど、誰かの協力なくして事件を解決させるのはもう無理な気がした。いずれにせよ、小森さんの存在を無視することはできない。


 私の話を聞いた小森さんはどうするのだろうか。私を警察に突き出すだろうか。それならそれでいいと思う。私が罪を犯したのは事実だし、所詮私はそれまでの存在だったっていうことだ。

 けど、もし小森さんが私に協力してくれるというのなら、もう一度じっくり話し合って、今度こそ事件を解決したい。


 小森さんは夕方まで仕事なので、夜になったら訪問する。それまでの間、今まであった出来事を頭の中で整理することにした。



 空が夕闇に染まる頃、出発した。


 小森さんの家を出ることになってしまったあの日、私はリサイクルショップに行く予定だった。そのお店の場所をネットで調べ、まずはそこまで歩いていく。辿り着くまでに一時間ほどかかってしまった。


 リサイクルショップはあの時と同じように路地裏でひっそりと佇んでいた。この場所に来ると、カナデが警察から助けてくれたことを思い出す。


 たしか、ビルの屋上から落ちてきたんだっけ……。


 頭上を見上げると、路地裏のビルの隙間から夜空が見える。

 そこに浮かぶ星を見つめていると、無性にカナデに会いたくなる。


 少し胸が苦しくなったので、先を急いだ。



 小森さんの自宅があるマンションに着くと、鼓動はさらに激しくなった。


 小森さんに会うのは正直、怖い。私は通報されることになるかもしれない。できることなら引き返して、このままカナデの家に帰りたい。


 その想いとは裏腹に、私の足は確実に私をその場所まで運んでいく。震える指がエレベーターの十階のボタンを押す。エレベーターの上昇とともに、心臓の音も高まっていく。


 だが、エレベーターの扉が開いたところで、ようやく覚悟を決めた。ゆっくりと歩き、小森さんの家の前で立ち止まる。


 もう息が止まりそうになっていた。ここでインターホンを押してしまえば、この先どうなるかなんて分からない。


 私は最後にカナデの顔を思い浮かべた。そして、意を決してインターホンを押した。


 ピーンポーン――


 夜の静寂の中で、無機質な音が鳴り響く。


「はい」


 小森さんが応答した。私の心臓はもうほとんど止まっていたと思う。


「……結原ヒカリです」


 消え入りそうな声だったけど、すぐに扉の向こうから足音が聞こえてきた。

 扉が勢いよく開いて、小森さんが姿を現す。


 彼女はジャージ姿だった。私たちはお互いに目を見開いて、数秒間固まる。


「お前、今までどこに行ってたんだよ! それにその髪!」


 捲し立てるようにそう言って、私を室内へ入れようとする。


「まあいい、入れ入れ」

「あのっ……」


 小森さんは私をリビングまで引っ張り、飲み物を出そうとした。


「とりあえず、座れよ」

「小森さんっ!」


 思わず叫んでしまった。

 でも、早く話してしまわないと心が押し潰されそうだ。優しくされるのが辛かった。


「聞いてください」

「……どうしたんだよ?」

「私なんです」

「え?」

「うちの工場で異物混入させたの、私なんです! だから……ごめんなさい!」

「は?」

「騒ぎを起こして犯人を牽制するのと、あとあと、食品工場に危機意識を持たせるのと、あと……とにかく、すいません!」


 私は頭を深く下げた。小森さんの足が近づいてくるのが見える。


「今の話、本当なのか?」

「はい……」


 小森さんは私の肩を掴み、顔を上げさせた。そして、手のひらで頬を強く叩いた。


「つっ!」


 私はフローリングの床に勢いよく倒れた。


「お前、ふざけんなよ! どれだけ迷惑かけたか分かってんのか!?」

「はい……」


 体を起こし、頬をさする。


「自分が何したか本当に分かってんのか!? おかげで、みんな、あんな大量に検品したじゃねーか! 大変だったよな! なあ!?」

「…………」

「どうして……」


 小森さんの声が震えていた。


「どうしてアタシに一言相談してくれなかったんだよ……」

「すいません」


 それから、私たちはそのまま押し黙った。しかし、沈黙に耐え切れなくなった私は口を開いた。


「警察に連絡しますか?」

「……甘えんなよ」

「…………」

「自分の運命をアタシに委ねるな。お前に協力はする。だが、どうするかは自分で決めろ」

「……え?」


 今、小森さんは協力するって言った?


「アタシに何か用があって来たんじゃないのか? 話してみろよ。今まで何があったのか」

「ううっ……!」


 その言葉を聞いて、私は堰を切ったかのように泣き出した。

 さっきまで堪えていた緊張感や罪悪感が一気に溢れ出す。


 小森さんの優しさが嬉しかった。

 小森さんが叱ってくれたことが嬉しかった。


 でも、そんな彼女を裏切った自分が許せなくて、そんな彼女を信じられなかった自分が情けなくて、私は涙を流しつづけた。

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