帰郷
私は立ち上がって、もう一度耳に神経を集中させる。カナデも立ち上がって目を閉じた。
「僅かだけど聞こえるの。ポツポツって」
「そうなのか? 僕には聞こえないけど」
「このまま風を起こさないでいこう。たぶん、そんなに遠くじゃない」
私はカナデの手を握った。
「わかった。僕は方角を見てるから、この懐中電灯で足元を照らしてくれ」
「うん」
「慌てなくていいから、ゆっくりね」
私はこくんと頷き、歩き出した。
雨音が聞こえる方向へ進んでいくと、徐々にそのリズムがはっきりと感じ取れるようになる。
久しぶりに聞く雨の音。
あの街に住んでいるときは毎日降り続ける雨が嫌だったけど、今はこの音が懐かしく思える。本当に帰ってきたのだと実感し、心が温かくなった。
やがて、自分の頭に水滴が落ちてきたことに気付く。
「これが雨……」
カナデは不思議そうに手のひらを広げる。
「カナデ、ローブを着よう」
私はカナデの手を離し、リュックサックから薄手のローブを取り出した。カナデも自分のローブを着て、フードも被った。私と初めて会ったときに着ていた茶色のローブだ。
「あっちの方角の霧を思いっきり吹き飛ばして」
「……やってみる」
カナデは前方に手をかざし、もの凄い勢いの風を吹かせた。すると、目の前を覆っていた霧が薄らぎ、その奥に大きな影が見えた。
「あった……!」
心臓が強く脈打つ。
そこに現れたのはいくつもの建物の影であった。雨の街を象徴する石造りの街並み。
私は遂に、雨の街へ帰ってきた――。
私がこの街を出るときには門がある場所から出たけど、それらしきものは見当たらなかった。仕方がないので国境を示すロープをくぐり、そのまま街中へ入った。
この街には、今日も終わりのない雨が降りつづけている。空は雲に覆われ、街が灰色に染まっている。水の香りが鼻孔をくすぐる。
人々は石畳の道で楽しそうに靴音を鳴らしている。彼らの持つ傘の色は、道端に咲く花のように見える。
何も変わっていないな。
街中をしばらく歩いていくうちに、見覚えのあるところに辿り着いた。そこで私たちはとりあえずお昼ご飯を食べることにした。時刻はもう十二時前だ。
すぐにおじさんの家に向かっても良かったんだけど、まだ心の準備ができていない。それに、今の私の状況をどう説明したものかと悩んでもいた。
私たちは近くにあるレストランに入った。照明が火のランプだからあんまり明るくないけど、味は特に問題ない……と思う。
木製のテーブル席に案内され、私はカエルのトースト、カナデはヒトデのグラタンを注文した。
「カナデ、これからどうしようか?」
「まずは食料品が売ってる店にでも行ったらどうかな? 異物のクレームがあったか聞けるし」
「うん。ここのレストランはどうなんだろ?」
私は店内を見回してみたが、昼時で混み合っており、ウェイトレスさんが慌ただしく歩き回ってる。
「今聞き取りするのは、やめた方がよさそうだね」
カナデはそう言ってヒトデのグラタンを口に運び、少し顔をしかめる。
「ヒトデ美味しいでしょ?」
「とても個性的な味だと思う」
たぶんこれは美味しいと思っていないな。
「カナデはどうするの? 雨の魔礫とやらを探すんでしょ?」
「うん」
カナデは魔法針を取り出した。
「君の近くにいると、魔法針は君のいる方向を指してしまう。こいつで探すから、しばらく別行動でいいかな?」
そういえばそうだった。この魔法針はなぜか私に反応するんだった。
「それはいいけど、魔法針だけで探せるものなの?」
「大体の位置は掴めるよ。雨を降らせ続けるなんて芸当ができるのは、相当強い魔力のはずなんだ」
「ふーん」
私は魔法針をじっと見つめた。
「ところで気になっていたんだけど、カナデ」
「なんだい?」
「雨の魔礫を見つけたら、
「…………」
カナデは少しの間黙った。店内の喧騒が耳につく。
「どうもしない」
カナデはゆっくりと、しかしはっきりとした声でそう答えた。
「今回の目的は位置と状況の確認だけだ。特別に何かをするというわけじゃない」
「わかった……じゃあ、私はその間異物について調べていればいいわけだね」
「ごめん、悪く思わないで」
「いいよ。それで、どこで落ち合う?」
「午後三時にこの店の前で」
「了解」
私たちは食事を済ませ、レストランの前で別れた。カナデは笑顔で私に手を振り、どこかに行ってしまった。
私は行き付けだった食料品店に向かった。
特に親しいわけではなかったが、店番のお兄さんの顔は覚えている。あの人は私のことを覚えているだろうか。
レストランからそれほど遠くない場所にそのお店はあった。扉を開けて中へ入ると、店の奥には初めて見る若い女の人がいた。
今日の店番はあのお兄さんじゃないのか。まあ、毎日同じ人がいるというわけでもないのだろう。
私はお姉さんに質問する前に、店内の棚をざっと見てみた。だけど、以前と変わっているようなことは何もない。雨の街製の商品は紙袋に入っていて、風の色製の商品はビニールの袋でパッケージされている。私は風の色のチョコレートを買うのが好きだった。
幸運にも他のお客さんはいないようだったので、さっそくお姉さんに質問することにした。
「すみません」
「あら、いらっしゃーい」
「ちょっとお聞きしたいんですけど」
「どうぞ、何でも聞いて」
「ここ一週間くらいの間に仕入れた商品に、異物が混入していたかって分かりますかね? 最近異物が出なくなったとかいう話は聞いたことありますか?」
「うーん」
お姉さんは首を傾げた。一度に色々と訊きすぎてしまっただろうか。
「異物があったって話は聞いたけどぉー」
妙に間延びした話し方をする人だ。
「最近出なくなったというよりは、むしろ
「えっ?」
何を言っているんだ、この人は。
「いえいえ、そんなはずないですよ。異物が出始めたのは一ヶ月以上前のことですよ」
「あら、そうなの? ごめんなさい、私この店で働き始めてからまだ二週間くらいなのよぉ」
別にこの店で働いてなくても、この街に住んでいれば異物問題のことは知っているはずだけど……。
私はお姉さんにお礼を言って食料品店を出た。
何かがおかしい、そう思い始めていた。
今の話だけじゃなく、この街に着いてから何か違和感がある。私の知っている雨の街とはどこか違うような……。
立ち止まって少し考えてみると、すぐに違和感の正体に気付いた。
そうだ、知り合いだ。それほど大きな街じゃないのだから、一人くらい誰か知ってる人を見かけてもおかしくないはず。それに、久しぶりに帰ってきたというのに誰からも声をかけられないのも変な気がする。
どういうことなんだろう。まあ声をかけられないのは、髪を染めたせいで気付かれていないだけかもしれないけど。
頬に冷汗が流れ、水の中に入ったときのような息苦しさを感じた。
誰か、誰か知り合いに会いたい。
そこで、すぐ近くに文房具屋があることを思い出した。あそこなら毎日店主のおばさんがいるし、顔見知りでよく話もしていた。
文房具は必要ないけど、そこに行ってみよう。
私は足早にその店を目指した。
濡れた石畳で転びそうになったけど、小走りで向かったら数分で着くことができた。
少し緊張しながら入口の木の扉を開ける。すると、店内におばさんがいた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
「あの……」
「どうかしましたか?」
まだ私に気付いていないようなので、雨避けのローブを脱いだ。
「ほら、私。お久しぶりです」
「…………」
「あれ? 私そんな雰囲気変わったかな? たしかに髪は染めちゃったけど。ハハ……」
「んー?」
なんでそんな顔で私を見るんだろう。何か嫌な予感がした。
「だからヒカリですよ、結原ヒカリ。もう、おばさんったら忘れっぽいんだから」
「えーと」
やめて……。まるで、
「おばさん……?」
「ごめんなさい、人違いじゃないかしら。私、あなたのこと知らないわ」
頭の中が真っ白になった。
風の色へ行く前、この店には毎週のように通っていたんだ。特に買うものがなくても、おばさんとお喋りをしに来てたんだ。就職の相談とかにも乗ってもらったし、それから、それから……。
なのに、数ヶ月会わなかっただけで完全に忘れてしまうなんて、どう考えてもおかしい。
おばさんは不思議そうな、申し訳なさそうな、そんな顔で私を見ていた。きっと、今の私は顔面蒼白なのだろう。
「すいません。そうですね、私の勘違いでした……」
そう答えるのが精一杯だった。
私はふらふらとした足取りでお店を出た。おばさんはそんな私に何も声をかけてくれなかった。
そのあとはただ当てもなく街中を歩いた。その間、誰かに声をかけられるようなことはやはりなかった。
どうしてなんだろう。この街の人々は私のことなんか忘れてしまったのだろうか。
何もかもが分からない。
以前から起きていたはずの異物混入が、数日前に初めて起こったことになっている。
親しかったおばさんは、私のことを知らないと言う。
一体何がどうなっているのか。
記憶の喪失――。
その言葉を意識すると、どうしても荒野で聞いたカナデの話を思い出してしまう。
魂の実験と記憶障害。これが何か関係しているのだろうか。
皆目見当もつかないまま彷徨っていると、いつのまに円形の広場に出た。商店街の入口にもなっている場所で、人々が歩き回っている。中央には樹木の形をした大きい石像がある。
懐かしいな。
石像を見上げながら、呑気にそんなことを思った。
それから、大雨の夜にここで女の子と会ったことを思い出した。そういえば、あの子の姿も見かけていない。
そのままぼうっと石像を眺めていると、向こう側から二人組の男性が歩いてくるのが見えた。
「あっ」
彼らの顔を見て、心臓が跳ね上がる。
その二人組は、この街の町長さんと私を育ててくれたおじさんだった。
仕事の話でもしているのだろうか、喋りながらこちらへ向かってくる。
どうしよう。
私は話しかけるべきか迷った。
おじさんまでが私のことを覚えていなかったら、もう立ち直れないかもしれない。だから、文房具屋から出たあと、おじさんの家に行けなかったんだ。
二人がこちらへ近づいてくる。どうするか決めなければならない。
怖い。
しかし、私は勇気を振り絞ることにした。
おじさんなら大丈夫、おじさんなら……。
ちゃんと私の顔が見えるように、フードを脱いだ。
そして、二人が私とすれ違おうとする。
私は正面からおじさんの顔を見た。
おじさんも私の方を見て、目が合った。
おじさん、私だよ。ヒカリだよ。
そう心の中で呼びかけた。
必死に目で訴えた。
「あ……」
二人は私を一瞥し、そのまま横を通り過ぎていってしまった。
私は雨の中、独り立ち尽くす。
冷たい雫が容赦なく髪と頬を濡らしていく。
私は心の中で絶叫した。
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