第3章
霧の荒野
いつもは騒がしい街も、早朝には静まり返っている。
そこには朝五時の沈黙と、朝五時の薄明りと、朝五時の冷たさがある。
私とカナデはそんな街並みの中を、ひっそりと息を潜めるようにして歩いていた。
私たちはまず「風の色第四区」と書かれた大きな看板を目指した。私がこの街に着いたとき、最初に見かけたものだ。場所は事前にインターネットで調べてある。
バイクが使えればすぐだったんだけど、看板の近くには駐車場がなかったから歩いていくことにした。看板の場所まで向かう間、人も車もほとんど見かけなかった。きっと、せっかくの休日なのに朝五時から起きている人は稀有なのだろう。
結局、徒歩で一時間もかかってしまったがなんとか目的地に着いた。
街の外側に目を向けると、アスファルトの道路だけが真っ直ぐに伸びていて、周囲には草原が広がっている。道路の先に丘があり、その向こう側は濃密な霧の世界だ。
私がはっきりと覚えているのは霧の手前まで。霧の中を進む間は気を失っていたから、霧の中がどうなっているのかは分からない。
私たちは丘の上まで歩き、ぽつんと一本だけ生えた樹の下で立ち止まった。今でこそ見慣れてしまったけど、ここで初めて本物の樹を見たときは感動したものだ。振り返れば、すっかり明るくなった風の色の街並みが見える。
だけど、丘の先はあの日と同じように果てしない霧で満たされていた。不安になった私はカナデに問いかける。
「ここからどうするの?」
「うん。ちょっと待って」
カナデは手をかざして、霧に向かって風を吹かせた。空気の流れが目の前の霧を吹き飛ばしたが、それもほんの一部分だ。風を止めてしまえば、周囲の霧が立ち込めて元の状態に戻ってしまう。
「カナデ。これじゃあ、いくら風を吹かせてもキリがないよ」
「霧だけに?」
「もうっ!」
カナデはケラケラと笑った。
「ごめんごめん。でも、これならいけそうかな」
「えっ?」
「もう少し奥まで進もう。ヒカリ、僕から離れないで」
そう言ってカナデは霧の中へ歩いて入ってしまった。私は慌てて後を追う。
「そういえばさー」
カナデは前を向いて歩きながら、背後にいる私に向かって話しかけた。
「工場から雨の街へ、商品はどうやって運んでるの?」
そう訊かれて、私はしまったと思った。重要なことなのに確認していなかった。
「どうだろう。工場からはトラックで出荷されてるけど、雨の街に到着するときにはなぜか馬車で来てるし……」
「へぇ、どこか秘密の専用ルートで積み替えてるのかもね」
カナデはあまり興味がなさそうに答えた。世間話程度のことで、彼としてはそれほど重要だとは思っていないのかもしれない。
そんな風に話しながら進んでいくと霧はどんどん濃くなり、目の前にいるカナデが薄らとしか見えない状態になった。
「ちょっと、これ以上進む気!?」
「うーん、このへんでいいかな」
前を歩いていたカナデが立ち止まり、私は彼の背中にぶつかってしまう。
「急に止まらないでよ」
「ヒカリ、ぴったりとくっついて」
「きゃっ」
カナデがいきなり右腕で私を抱き締めた。
「なになになになに?」
軽くパニックになる。
そんな私をよそに、カナデは左手の人差し指を口に当てるジェスチャーをした。顔が近くてドギマギする。
「しーっ。今からちょっと本気出すから」
カナデは目の前の真っ白な霧を見据えた。
その次の瞬間だった。
私たちを中心とする竜巻が発生し、周囲の霧を外側へ吹き飛ばした。その風の流れはまるで円を描いているようだ。半径は二十メートルくらいだろうか。
視界が明るくなり、今まで見えなかった足元も見えるようになった。地面は草地ではなく、いつの間に赤茶色の土の上を歩いていたようだ。
「すごい、なにこれ……」
私は目を丸くした。
「歩けるかい?」
カナデは私を抱き締めていた右腕を離した。私は一呼吸して落ち着こうとする。
「行こう、ヒカリ」
「うん……」
カナデに摑まるようなことはしなかったものの、なるべく近くを歩くようにした。
周囲には風の音が渦巻いている。こんな強風に巻き込まれたら、たちまち吹き飛ばされてしまうだろう。
「竜巻みたいな風は、普通外側に向かって吹いたりはしないんだけどね。これはほら、魔法だからさ」
魔法か。そういえば、今日は一週間ぶりにカナデの魔法を見たことになるけど、やっぱり無茶苦茶な力だ。こんなことができるなんてインターネットにも載ってなかったし。
今まで訊かなかったけど、せっかくの機会だから、そろそろあのことを訊いておいた方がいいのかもしれない。
「ねぇ……」
「何?」
「カナデの仕事って何をしているの? 魔法の研究だって言ってたけど」
「ああ、そのことか」
カナデは遠くを見るような目をした。
「僕が働いているのは、ケストアークという研究所だ」
「ケストアーク?」
聞いたことのない名前だ。
「全てを話すことはできないけど、概念的なことなら大丈夫かな。……僕らはね、魔法で人の
「魂を取り扱う……?」
「人の魂はね、加工することができるんだ。練り込んだり、乾かしたり、固めたりすることができる。ちょうど君がいた工場で作っているパスタのように」
頭が痛くなった。
人の魂を加工するだって?
何を言っているのかさっぱり分からないけど、聞いちゃいけないことを聞いてしまったような気がして後悔した。
しかし、カナデは私のことを気にせずに話を続けた。
「今その中でも力を入れているのが、人間の魂を抜き取って別の人間の体に移す実験なんだ」
「……何を言っているの?」
「でも、それには重大な障害があるんだ。魂を移しても心や記憶までは完全に移すことができず、強い想いや記憶だけが元の体に残留してしまう……」
えっ!?
「ちょっと待って!」
私は思わず叫んでしまった。
「今、記憶って言ったよね?」
「言ったよ」
「……私は六年前に雨の街で、記憶を失くした状態で拾われたってことは話したよね?」
「聞いたよ」
「もしかして、今の話と関係しているんじゃ……」
「…………」
カナデは少し黙ったあと、不敵な笑みを浮かべた。
「つまりヒカリはこう言いたいのか? 君は六年前、魂……つまり記憶や人格を抜かれたあと雨の街に捨てられた、と」
「うっ……」
ショッキングだけど、言葉にしてしまえばそういうことになる。
「さっきも言ったけど、僕らの研究では、魂を抜いても強い想いが体の方に残留してしまうというデータがある」
「うん……」
「君の強い想いとは何だい?」
私の強い想い……。
「風の色……」
雨の街だって大切な場所だけど、無意識のうちに風の色にも憧れを抱いていたのかもしれない。
その想いが今回の事件をきっかけに、心の奥底から溢れ出したのではないだろうか。
「ふーん」
カナデはどこか能天気な調子で答えた。
「ま、いずれにせよ、僕は六年前、研究所にはいなかったから、当時のことは分からないんだけどね」
考えてみれば当然のことだ。
カナデはまだ十五歳。今年学校を卒業したばかりだろう。六年前から働いているわけがない。
「今度研究所に行ったとき、六年前に何かなかったか調べられないかな?」
「うん、いいよ」
カナデは快く承諾してくれた。
これでついに、自分の記憶に関する手掛かりを得ることができる。
しかし、もう一つカナデに聞いておかなければならないことがあった。
「結局、この風はどうやって起こしているの? そろそろ魔法の道具とやらを見せてよ」
これも前から気になっていたことだ。
「うーん、まあいいか。雨の街へ行く目的にも関係していることだし」
カナデは服の襟口に手を入れ、その中からペンダントを取り出した。おそらく私と出会った日にも身に着けていたものだろう。その金属製のペンダントには、透明で丸みのある石が付けられている。
カナデはそれを私の目の前に掲げた。
「綺麗……」
「これが魔法の道具であるつぶて。名前は魔礫というんだ」
「まれき……?」
「そう。これに触れながら念じると、魔礫の種類に応じた魔法が使えるっていうわけ。これは風の魔礫だから、イメージした通りに風を起こすことができる。どう? 簡単でしょ?」
どうと言われても、私は言葉を発することができなかった。
あまりにも簡単すぎる。そう思った。
イメージするだけで竜巻まで起こすことができるなんて、そんな危険な代物があっていいのだろうか。
しかし、私がいくら心配したところで、それは既に存在してしまっている。
「それで、雨の街へ行く目的に関係しているというのは?」
そう訊きながらも、薄々と気付いてはいた。
たしか、雨の街に雨が降り続けるのは魔法の影響だと、以前にカナデは言っていた。答えはもう明白だ。
「うん、雨の街には雨の魔礫があるはずなんだ。ちょっとそれを探したい」
「……わかった」
とりあえず、それ以上質問するのはやめることにした。頭の中がいっぱいいっぱいになると一旦思考を止めてしまうのが私の良いところであり、悪いところなのかもしれない。
それからしばらくの間、私たちは黙って歩き続けた。カナデは歩きながら時折、手に持っている何かを見ていた。
「それ、魔法針?」
「いや、普通の方位磁針だよ。方角を確認しないと戻れなくなるからね。とりあえず北の方向に進み続けている」
「ふーん」
方角のことはカナデに任せるか、と思ったけど、今のところ私は何も役に立っていないということに気が付いた。私がいれば雨の街を見つけられるかもしれないとカナデは言ったけど、一体どうすればいいのか。
周囲に見えるのは赤茶色の土と石、たまに人の背丈と同じくらいの岩が転がっているだけだ。私が雨の街を出た直後に見た景色と同じ……ということは、もしかしたら雨の街は意外と近くにあるのではないだろうか。たしかコウモリもそんなこと言っていたし。
そんな希望を抱きながら、雨の街の建物が見えてこないかと目を凝らしながら歩き続ける。しかし、それがいかに希望的観測であったかということを思い知ることになった。
いくら歩いても、それらしきものが見えてこない。赤茶色の荒野がどこまでも続き、目的地へ向かっているという実感も湧かない。
私たちは休憩を挟みながらも、なんと五時間近く歩き続けた。
「ねぇ、これやっぱり無理なんじゃないの?」
私はとうとう音を上げた。
「たしかに、今日はもう戻った方がいいかもしれない……」
「そうでしょう?」
そう言って、へなへなとへたり込んでしまう。
歩き続けたせいで疲労も限界に達していた。少しの間、目を閉じて何も考えずに休みたい。風の音も耳障りだ。
「悪いけど、ちょっと風を止めてくれない?」
「……わかった」
カナデは風を消し去り、荒野に静けさが戻った。
私は膝を抱え、その場でじっとする。外側へ吹き飛ばされていた霧が、徐々に私たちの周りにまで立ち込めてくる。カナデも私の隣に座った。
視界が完全に白い霧に覆われ、隣にいるカナデ以外には何も見えなくなる。世界には私とカナデの二人きりしかいないような錯覚に陥る。そういうのも悪くないかもしれない。
私は目を閉じた。このまま何もかも忘れ、白い霧の中に溶けてしまいたい。この無色無音の世界で――
無音。
そう思っていたけど、この空間に微かな、本当に微かなノイズが混じっているような気がした。注意深く耳を澄ませないと感じ取れないような、ポツポツとした音。
ポツポツポツポツ――
その音が何なのか理解したとき、私は叫んだ。
「雨の音だ!」
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