風の魔法

 特徴的な紺色の制服と帽子。

 それはこの街の警察が身に着けているものだということは既に知っている。悪事を働いた者を捕まえることが彼らの仕事だ。


 そう、悪事……。

 まさか私が異物を混入させたことを知っているのだろうか。いや、そんなはずはない。もし知られているのなら、もっと早く捕まっているはずだ。


「ちょっと、そこの君!」


 警察の一人が声を掛けてきた。

 頭では大丈夫だと理解していても、私の本能が「逃げろ」と全力で訴えてくる。理屈は分からないが絶対に何か良くないことがあると、細胞の一つ一つが告げている。冷や汗が頬に垂れる。


 私と警察の間にはまだ数メートルの距離がある。今なら逃げ切れるかもしれない。

 そう思った瞬間、私は駆け出していた。


「おい、待て!」


 警察が怒鳴って追いかけてくる。


 やっぱりあの反応は尋常ではない。私を捕まえようとしていたんだ。


 ビルの合間の狭い路地を全力で走る。


 だけど、警察がどんどん背後から近づいてくるのが感じられた。


 やっぱり子供の私が走って大人から逃げるなんて無理なのか。


 もう捕まる!


 そう思った時だった。


 頭上から何かが落ちてくる気配がした。


 あれは何?

 布?

 いや、袋?


 目で捉える前に、それは私と警察の間に落下……いや、

 私が振り返ると、それはこちらに背を向けて二本の足で立っていた。


 人だ……。


 だが、その人物は茶色いローブを着てフードを頭に被っていたので、こちらからは顔が見えない。背は低めで、たぶん私と同じくらいだろう。


 警察は一瞬たじろいだが、すぐにこちらに迫ってきた。そして、ローブの人が素早く右手を警察に向けてかざした。


 次の瞬間、その手のひらから風が吹き出し、轟音と共に警察を吹っ飛ばしてしまった。

 彼らは数メートル先に落下し、のた打ち回った。


「あ、力入れ過ぎちった」


 ローブの人はそう呟き、こちらへ振り返った。


 その人物は白いカエルの仮面を被っていた。髪は黒色のミディアムヘアで、少しくせ毛っぽい。ローブの下からブルージーンズの裾が見え、黒い運動靴を履いている。そして、肩に赤いスポーツバッグを掛けていた。声の感じからすると、きっと男の子だろう。


 彼の格好は、およそ風の色には似つかわしくない異様な服装だった。どちらかと言えば、雨の街の住人の服装に近い。


「早く逃げよう」


 彼はそう言って私の手を掴み、走り出した。


「えっ、ちょっと!」


 私は一連の出来事に驚きっぱなしだったけど、この場はとりあえず逃げるしかないと思い、一緒に走った。


 しばらく路地をジグザグに走ったところで彼は立ち止まった。


「もうすぐ大通りに出る」


 そう言って白いカエルの仮面を外し、ローブも脱いで、それらをスポーツバッグに仕舞った。

 彼は瞳が青く、男の子のわりにはなんだか可愛らしいお顔だなと思った。


 彼はバッグから方位磁針のようなものを取り出し、それを見ながら唸った。


「あの……」


 私はどうしていいか分からず、おずおずと声を発した。


「この先のファミレスに僕のバイクが停めてある。とりあえず、それで僕の家まで逃げよう」

「はあ」


 さっきから自分の身に何が起きているのか全然理解できていないので、とりあえず頷くしかなかった。


「僕は名前はカナデ。君は?」

「私は結原ヒカリ……」

「良い名前だね。行こう、ヒカリ」


 カナデの言う通り、路地から大通りに出て少し歩くと、十字路の角にファミリーレストランがあった。カナデはそこの駐車場に停めてあった黒いバイクを見つけ、括り付けられているヘルメットを外し、頭に被った。


「君は後ろに乗って。ヘルメットはないけど、すぐに着くから大丈夫」


 そう言ってバイクに跨った。


 私はタクシーと小森さんの車以外の乗り物に乗ったことがないので気が進まなかった。二人乗りのバイクが街中を走っているのは見たことあるけど、すごく危なそうだ。


 だけど状況が状況だけに、このバイクに乗らざるを得ない。

 おそるおそる後ろ側のシートに跨り、カナデに摑まった。


「お願いします……!」

「ん。行くよ」


 バイクはゆっくりと走り出し、駐車場から道路に出たところでスピードを上げた。


「きゃああっ」


 道路が空いているためか、バイクはかなりのスピードを出していた。

 私はこの風になるような感覚をどこかで体験した覚えがあったが、すぐに思い出した。

 雨の街から出た直後、コウモリに摑まって霧の中に突っ込んだ時だ。あの時は霧で何も見えないという恐怖があったが、今は景色が目まぐるしいほどの速さで流れている。

 それは、最初は恐かったけど少しずつ快感に変わっていった。本当の意味で自由になり、何もかもを追い越していけるような感覚があった。



 楽しい時間も束の間、僅か五分ほどで目的地に到着した。


 そこは私と小森さんが住んでいるところと同じようなマンションで、カナデの家は五階にあった。

 部屋の中も私たちの家と同じような間取りで、使っている家具や電化製品もそれほど変わらないと思う。リビングにはテレビとテーブルとソファーがあって、キッチンには冷蔵庫と電子レンジがある。


 私はダイニングへ案内されて木製の椅子に座った。

 カナデはキッチンから二つのカップを持ってきて、木製のテーブルの上に置いた。


「お茶でもどうぞ」

「ありがとうございます」


 私はカップを持って、そのお茶を啜った。温かい緑茶だ。今日は警察と会ってからずっと気が動転していたけど、少しだけ心が安らいだ。

 カナデはテーブルを挟んで私の向かい側に座った。


「気分は落ち着いた?」

「どうして私を助けてくれたんですか?」


 私はカナデの質問には答えず、質問し返した。

 恩があるとはいえ、知らない男の人の家でいつまでもゆっくりお茶を飲んでいるほど能天気ではない。


「うーん」


 カナデは椅子にもたれ掛かって唸った。


「それは説明しなきゃいけないことなんだけど、話すと長くなるんだよなぁ。どういう順序で話したものか……」


 私はじっとカナデの話を待った。


「じゃあさ、僕が君を助けたとき、警察を風で吹き飛ばしたじゃん? あれはどうやって風を起こしたと思う?」


 そうだった。カナデはあのとき、何もないのに手品みたいに風を起こしていた。もう一ヶ月以上風の色に住んでいるけど、あんなものは初めて見た。一体どんな技術なんだろう。


「さあ。私には全然分かりません」

「あれさー、実は魔法なんだよねー」

「ああ、ですよねー。じゃないと、あんなの無理ですよねー」

「そりゃそうでしょー」

「うふふふ」

「アハハハ」

「って、魔法って何ですか!?」


 私は前のめりになって叫んだ。


「え? ああ、やっぱり知らないよね。ビックリしたぁ」

「…………」

「そんな怖い顔しないでよ。今見せてあげるから」


 カナデはそう言って、私に向かって手をかざした。私は思わず身構える。

 しかし、カナデの手から吹いてきたのはそよ風のような弱い風だった。私の髪が僅かになびく。


「ね? 魔法でしょ?」


 カナデはニッコリと笑う。

 にわかには信じられないけど、改めて間近で見せられれば、その存在を信じるしかないという風に思える。


「魔法なんて、おとぎ話だけにしか存在しないと思っていました」

「そうだよね。まあそれはともかく、僕はこの魔法について研究している人間なんだよ」

「あなたはどうして魔法が使えるんですか?」

「それは僕が魔法の道具を身に着けているから。今はちょっと見せられないけどね」

「ふうん……」


 よく観察してみると、カナデはペンダントらしきものを服の中に隠していた。首から何かを掛けているのだけが見える。これが魔法の道具とやらなのだろうか。


「まあ、とりあえず分かりました。で、魔法の存在が私を助けたこととどう関係しているんですか?」

「その前に待った。そういえば君っていくつなの?」

「……年齢なら十五歳ですけど」


 拾われた子供だから推定だけど。


「僕も十五歳だ。だから別に敬語で話さなくていいよ。堅苦しいのは苦手なんだ」


 カナデも十五歳だったんだ。まあ、同じくらいだとは思っていたけど。


 タメ口で話すのは、なんだか心を許したような感じがして抵抗があったけど、カナデに従うことにした。


「……それで、なんで助けてくれたの?」

「うん。それじゃあ、次はこれを見てほしい」


 カナデはそう言ってポケットから方位磁針を出し、テーブルの上に置いた。彼が私を助けてくれたときにも見ていたものだ。

 針の片側が赤色になっているところは普通の方位磁針と同じだけど、円盤の部分に方角が書かれていない。随分不便な方位磁針だなと思った。


「これは魔法の力に反応して、赤い針がその方角を示すんだ。名前は魔法針まほうしん。ちなみに、風を起こしていた道具とは別のものだよ」

「へー、すごいねぇ」


 私は魔法針とやらをまじまじと見てみる。すると、おかしなことに気が付いた。


「でも、これ変じゃない? 赤い針が私の方に向いてる」


 カナデの話が本当なら、魔法針は魔法を使えるカナデを指し示すはずなのに、反対側にいる私に赤い針が向けられていた。


「この魔法針は近くに複数の魔力が存在する場合、その中で一番強い魔力に反応するんだ。つまり……」


 カナデは私の目を真っ直ぐに見た。


「君も魔法の力を持っているということになる。それも、僕より強い魔法を」

「えっ!?」


 私は思わず驚きの声を上げた。

 カナデは立ち上がって、魔法針を片手に持ちながら私の周りをぐるりと歩き、また椅子に座った。


「やっぱりどの方角で見ても、針は君のいる方向を指すんだよな。何か魔法の道具を持っているのかい?」

「まさか。そんなの今日初めて知ったし」


 第一、私はちょっと買い物に行くだけのはずだったから、財布しか持ってきていない。


「だよね。すると、残る可能性は一つしかない」

「……何?」

「それは、に魔法の力が宿っているということだ。本来ありえないことなんだけど」

「私自身に?」


 腕組みをして少し考えてみた。そして、試しにカナデに向かって手をかざし、風を出そうとしてみた。しかし、何も起こらない。


「出ないよ」

「だろうね。そもそも魔法の力ってのは、にしか宿らないんだ。人間や生物そのものに魔法の力が宿るということはありえない」

「うーん」


 私は唸った。

 それなら、なぜ魔法針は私のことを指すのか。


「まあ、そのことは今考えても分からないから一旦保留にするよ。とにかく、僕は街中でなにげなく魔法針を見てたら、自分以外の反応を見つけたんだ。追いかけたら君がいたんだけど、警察から逃げてたから助けたってわけ」

「あの時、カナデが上から落ちてきた気がするんだけど」

「あのローブと風の力があれば高くジャンプできるんだ。あのローブは特別製で、下から上へ吹く風を受け止めて推進力にすることができる」

「へぇー」


 私は感心した。風の色には私の知らないことがまだまだ沢山あるんだと実感した。


 もしかして、大雨の夜に会ったあの子も魔法で操られたりしていたのだろうか。小森さんは否定していたけど……。


「で、ヒカリはなんで警察から逃げてたのかな?」

「え」

「僕はもう散々話したから、今度は君が話す番だ」

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