この世のものとは思えない大雨の夜に

 私は慌てて女の子のもとへ駆け寄った。


「そこで何してるの?」


 女の子は私の呼びかけに反応しなかったが、ずぶ濡れになっているのでとりあえず私の傘の中に入れてあげた。


「お姉ちゃん……」


 昼間に会ったことを覚えていたのか、私の方を見てそう呟いた。

 けど、その目には光がないように見えた。明らかに様子がおかしい。


「もう夜だから、おうちに帰ろう?」


 手を差し伸べ、家まで送ってあげようとしたけど、女の子は動こうとしない。


「お姉ちゃん……」

「今日変なもの食べちゃったのは大丈夫だった? お父さんとお母さんが心配するから行こう?」

「異物混入事件を解決して」

「えっ?」


 今この子は何て言ったの? 異物混入事件?


 雨の音がうるさかったけど、その言葉ははっきりと聞こえた。

 こんな小さな子供には似つかわしくない、異物混入事件という言葉が。


「それが、お姉ちゃんの失くした記憶と関係しているから」

「何を言って……」


 女の子はまるで何かに取り憑かれたかのようにそう言った。


 私が雨の街に来る前の記憶が、異物混入事件と関係している……?


 私は激しく混乱し、言葉を失ってしまった。


 この子はどうしてしまったのだろうか。

 こうなったのは昼間、異物を食べてしまったことが関係しているのだろうか。


 ……?


「じゃあ、わたしもう帰るね」


 女の子は素早く傘の下から抜け出し、路地の方へ駆け出した。

 呆然としていた私は反応するのが遅れてしまった。


「ちょっと!」


 急いで追いかけると、女の子が十字路で右に曲がるところが見えた。


 私も同じ方向に曲がったが、曲がった先に女の子はいなかった。

 周囲を見回しても、どこにも見当たらない。早くも見失ってしまった。


 それから私はしばらく女の子を捜したけど、見つけることはできなかった。

 やがて、いつもより激しい雨に気力と体力を奪われ、今日会うのは諦めることにした。私の服もびしょびしょに濡れてしまっている。


 女の子が「もう帰るね」と言っていたのを信じるしかないだろう。

 私の方も、もしかしたらおじさんが心配しているかもしれない。

 早く帰らなきゃ。



 玄関の扉を開けると、家の中は相変わらず暗かった。やはり、おじさんは眠ったままだ。私はなぜか、おじさんに無視されたような気分になってしまい、すぐに自室へ戻って濡れた服を着替えた。


 あの女の子は一体何だったんだ?


 突然の出来事にひどく困惑していたけど、今日はもう考えるのは止めることにした。なんだか頭がとても重たい。

 私は彼女の幻影から逃げるようにして眠りに落ちた。街にはこの世のものとは思えない大雨が、醒めない悪夢のように降りつづけていた。



 翌朝目が覚めると、騒々しい雨の音はやんでいた。ベッドから起き上がり窓の外を覗くと、そこにはいつもの雨が静かに街を濡らしていた。


 私は一階に下りて顔を洗い、おじさんの作った朝ご飯を口にした。


 今日の朝ご飯はカエルのトースト。雨の街の定番メニューだ。私はトーストをはむはむとかじりながら、おじさんに聞いた。


「ねぇ、昨日の夜、すごく激しい雨が降っていたんだけど、気がつかなかった?」

「は? 雨に激しいも激しくないもないだろ」

「昨日はすごかったんだって。雨音もうるさかったのにおじさん起きないから、外まで見に行ったんだよ」

「何時ごろだ?」


 おじさんにそう問われ、ハッとした。そういえば私はあのとき、時計を見ていなかった。


「わかんない」


 仕方がないので、正直に答えた。


「他に起きてた奴は見たのか?」


 真っ先にあの女の子を思い浮かべた。私はおじさんに彼女のことを話すか少し迷った。しかし、今はやめておくことにした。あの出来事はまだ他の誰にも話してはいけないような気がした。


「私の他には誰も起きてなかったけど」


 そう言ってごまかすと、おじさんは「ほらみろ」と言わんばかりの顔をした。


「まだ寝ぼけてるんだよ」


 おじさんは私のおでこをコツンと叩いた。信じてくれそうにないので、この話をするのはとりあえずやめることにした。私はトーストを食べ終え、食器をささっと洗い、自室に戻った。そして、椅子に腰かけ、あの子の言葉を思い出した。


 異物混入事件を解決して、それがお姉ちゃんの失くした記憶と関係しているから、か――。


 私とおじさんに血の繋がりはない。

 おじさんは六年前、三十二歳のとき、街の片隅に捨てられていた私を引き取ってくれた。


 しかし、それは義理人情からではない。たまに風の色の子供が街に捨てられていることがあり、彼らを引き取って育てることがおじさんの仕事なのだ。


 私は記憶をなくしていたけど、言葉が通じることから、雨の街と同じ言語を使う風の色の出身だろうと判断された。

 私自身も自分がこの街の出身ではないだろうと考えている。私はこの街の人とは何か違うものを持っている気がしてならないのだ。


 そういうわけで、私は自分の正確な年齢も分からないし、本当の親が誰なのかも知らない。

 とりあえずおじさんが私を拾ってくれた日付を仮の誕生日とし、今は推定十五歳ということになっている。結原ゆいはらヒカリという名前もおじさんがつけてくれた。


 実の親については、別に恨んでもいないし、会いたいとも思っていなかった。

 私にとっての親はおじさんだけだったし、私はおじさんとあの家を気に入っている。


 そう思っている、そう思っていた。けど――。


 今起こっている異物混入が、私の過去と関係しているだって?

 そんな話は到底信じられないし、どんな関係があるのかも全く予想できない。

 やっぱり、昨日見たものは夢だったんじゃないだろうか。



 その日の午後、私とおじさんは月に一度の街会議に来ていた。


 街の中心に役所があり、その隣にある円形の建物が街会議の行われる会議場だ。

 室内は半円の形をしていて、中心に町長さんの席、それをぐるっと取り囲むようにして聴衆の席が設置されている。


 街会議とは、役所の人たちが行う定例報告会のことだ。

 町長さんの他にも街の幹部役職に就いている人は参加を義務づけられているが、それ以外の人たちは参加自由で、一度も参加したことがない人も多い。席はおよそ百人分はあるが、半分埋まれば多い方かも。


 町長さんの席の隣には、コウモリがぶら下がるための木製スタンドがある。

 コウモリは雨の街と風の色が対等でいられるよう、街会議に立ち会っているのだ。


 風の色――。

 私はこれが一つの国家の名称としてふさわしいのだろうかと疑問に思っている。

 風というのは手や紙であおがないと起こらないはずだけど、隣国では何もしなくてもそこかしこで風が勝手に起こるらしい。私にはとても想像できない。きっと雨の街における雨のようなものなのだろう。

 風に色がないのは隣国でも同様らしく、風の色という国名になった理由を私は知らない。


 街会議ではどんなことが話されるのかというと、まず町長さんが街の近況や風の色との貿易収支を報告し、次に幹部の人たちが自分の担当の分野について詳細を報告する。幹部全員の報告が終わると最後に質疑応答をして終了となる。

 ちなみに、おじさんは「保護員」という役職で幹部となっているが、報告は大体「今月は保護対象の出入りなし」の五秒で終わる。


 私には街会議参加の義務はないけれど、暇つぶしのために毎月おじさんについていき、隣の席で話を聞くことにしている。


 毎月参加しているもんだから、よく街会議に参加する人というのも覚えてきた。

 今日の顔ぶれは、文房具屋のおばさんに食料品店のお兄さん、大工のおやっさんと苔取り屋さん、スナックのママが来ていて、滅多に来ない雨具屋のお爺さんお婆さんまでいた。そして、その他大勢。

 席は八割くらい埋まっていて大盛況と言ってもいい人数だった。


 なんとなく場内を見回していると、隅っこの席に見覚えのある人物がいて、私は目を見開いた。


 それは昨日会った、異物を飲み込んでしまった女の子だった。


 声を掛けようと思って近づくと、女の子も私に気付いてくれた。


「あっ、お昼に会ったお姉ちゃん!」

「えっ?」


 お姉ちゃん?


 私が一瞬戸惑っていると、隣にいたお母さんらしき人物が立ち上がった。


「まあ、あなたが昨日この子を助けてくれた方ですか?」

「え、えぇ。助けたというか、うずくまっているのを見つけただけですけど」


 しかも、見つけたのは私じゃなくてコウモリだけど。


「いいんです、もう本当にありがとうございます!」

「何か飲み込んじゃったみたいですけど、もう大丈夫なんですか?」

「はい。この子に詳しく聞いてみたら、小さなかけらだったみたいで。念のため今日もお医者様のところへ行ったんですけど、痛みや違和感がないならウンチと一緒に出ちゃっただろうって」


 それは良かった。けど、申し訳ないが私が一番気になっているのは、それとは別のことだ。


 昨日の夜、広場でこの子と会ったこと――。


「変なこと訊きますけど、昨日の夜、この子が外出したりしましたか?」

「いえ。昨日は安静にさせて、目を離さないようにしてましたわ。私ったら本当に心配で、ほとんど寝なかったの」

「…………」

 

 は?

 それじゃあ、私が会ったあの子は誰なんだ。


 私の無反応が意外だったのか、お母さんが心配そうに尋ねた。


「あのぅ、それが何か……?」

「いえ、すいません。この子に似た子を見かけたもので」

「まあ、奇妙なこともあるものですね」

「えぇ。それじゃあ、私はこれで」


 私はそそくさと去ろうとした。


「この度は本当にありがとうございました」

「お姉ちゃん、ばいばーい」


 親子がにこやかに手を振ってくれたので、私も笑って手を振り返した。けど、もしかしたら笑顔が引きつっていたかもしれない。


 自分の席に向かいながら、昨日の出来事を思い出した。


「異物混入事件を解決して」

 

 やっぱり、悪い夢でも見ていたのだろうか。


「それが、お姉ちゃんの失くした記憶と関係しているから」


 あの言葉は、何だったのだろう。

 私は一体何者だというのだろう。

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