from 雨の街から
広瀬翔之介
×××××
風色のチョコレート
この街には今日も終わりのない雨が降りつづけている。
空から落ちてくる水の粒が、絶え間なく人々の生活を潤していく。
雨の街なんだから、雨が降っているのは当然といえば当然なんだけど、私がかつて住んでいたはずの国では常に雨が降っていたということはなかったと思う。
この街に来る前の記憶がなくても、それだけはなんとなく自信がある。なんというか、体がこの雨に馴染まないのだ。
気まぐれに雲の隙間から僅かな光がさしこむこともあるけれど、一日中雲に覆われていることに変わりはない。ここはそういう街だ。
自室の窓を開け、二階から外の景色に目を向けてみる。
この街の象徴である石造りの家がどこまでも立ち並び、人々は石畳の道を楽しそうに歩いている。彼らの傘の色は曇った風景を豊かに彩り、彼らの靴音は雨の伴奏にのせて水と石の音楽を奏でている。
そんな街並みをぼんやりと眺めていたけど、いつもと変わらないことが分かると窓を閉めた。
その窓ガラスに私の姿が反射して映る。
短めの黒い髪、十五歳の少女。
窓に映る顔に雨の雫が重なると、私が涙を流しているようにも見える。悲しいことなんて何もないのだけれど。
自室を出て階段を下り、一階のダイニングに顔を出した。
「おじさん、ちょっと文房具屋に履歴書を買いに行ってくるね」
「おう、行ってこい」
おじさんは台所で今日の晩ご飯の下ごしらえをしていた。
時計の針は午後四時をさしている。
私はテーブルの上にあった苔チップスを一枚食べ、玄関で革靴を履き、愛用の赤い傘を手に取る。
扉を開けて外へ出ると、その傘をゆっくりと広げた。
私とおじさんの家は静かな住宅街の真ん中にあり、文房具屋のある商店街までは歩いて十分ほどかかる。
この時間帯は商店街へ向かう人より買い物から帰ってくる主婦の方が多く、人混みの中には苔取り屋さんの姿も見られた。
商店街の入口には円形の広場があり、その中心に樹の形をした巨大な石像がそびえたっている。私は木材として加工された樹しか見たことがないけれど、どうやら本来はこういう形をしているらしい。
この石像が街の景観と調和しているかどうかは分からないが、大昔から設置されているものだとおじさんは言っていた。
そんな石像の周りを住民たちがあちこちへ歩き回っている。みんな、夜になる前に買い物を済ませようとしているのだ。
文房具屋につくと、商品棚から履歴書を五枚取り出した。
それを、店の奥で暇そうにしながら椅子にもたれかかっているおばさんに手渡したら、呆れた顔をされた。
「ヒカリちゃん、また仕事に就かせてもらえなかったの?」
「だって、人手足りてるって言うんだもん」
「この街の出身じゃないからって、こんな良い子を雇わないなんてどうかしてるわ」
「じゃあ、おばさんの店で働かせてよ」
「うちは見ての通り、やることないよ」
「ほらね、みんなそう言う」
文房具屋の店内には私とおばさんしかいなかった。この店で自分以外のお客さんを見かけることは滅多にない。
石の壁や天井に囲まれた店内は、空気にも重みがあるように思える。ランプの灯りに照らされた文房具たちは、膝を抱えたままじっと息を潜めているように見えた。
「ま、せいぜいめげずに頑張りな」
おばさんはか細い手で私の背中を力強く叩いた。
私はおばさんにお代を支払い、お礼を言った。
文房具屋の次には、街の外からも商品を仕入れている食料品店を訪れた。
雨の街では野菜を育てることができないので、野菜は隣国である「風の色」から輸入される。
その代わり、風の色では雨が降らず、川もないので、雨の街から浄水を輸入している。
私はお菓子コーナーの棚から苔チップスの小さい紙袋を一つ取り出した。隣に並んでいるチョコレートのビニールパッケージには、風の色製であることを示すシールが貼られている。
悩んだ末に風の色のチョコレートも棚から取り出した。そして、苔チップスとチョコレートのお代を店番のお兄さんに渡し、店を出た。
どうやらこの店も働き手は足りているようだ。
商店街の入口まで戻り、広場の中央に向かって歩いた。
樹の形をした石像に近づくと、その枝の部分に一匹のコウモリがぶら下がっているのが見えた。何が入っているのか分からないけれど、お腹に小さな鞄のようなものが括りつけられている。
その周りでは、小さな女の子たちがチョコレートを食べながらもの珍しそうにコウモリを見ていた。
私は自分の鞄から苔チップスを取り出し、コウモリの口に押しつけてみたが、食べてはくれなかった。
このコウモリは時々この石像にぶら下がっていて、その度に風産の蜜とか、そのへんの虫とかを食べさせようと試みたけど、私のさしだすものは一切口にしなかった。
コウモリは血を吸うという話をどこかで聞いたときには、私の人差し指をコウモリの口に突っこんでみたが、やはりダメだった。
私とコウモリはしばらくの間、見つめあった。
「そんな顔してもアタシは食べないわよ」
コウモリが不機嫌な顔をして言う。
「コウモリさん、風産の商品はたまに変な物が入っていることもあるけど、街産にはそんなことないから安心だよ」
私は苔チップスを食べてみせる。コウモリがなかなか食べないから濡れてしまい、雨の味がした。
「アンタは味覚が崩壊してるのよ。なぜ風の色が街からは水しか輸入しないのかよく考えてみなさい」
「風産のものあげても食べないくせに」
「この街でアタシに恐れをなさないのはアンタだけよ。ガキンチョのころからアタシの恐ろしさを叩きこんでおけばよかったわ」
「ただ飛んでるだけじゃん」
反論しつつ、二枚目の苔チップスに手を伸ばす。
「それがアタシの仕事なの。アンタも早く自分の仕事を見つけなさいよ」
まさかコウモリにまで仕事しろと言われる日が来るとは。
コウモリは人間以外で唯一、人間と話すことができる存在だ。
あのコウモリの他に別のコウモリがいるのかは知らないけど、どうやら雨の街と風の色を行き来しているらしい。
私はコウモリと話をするのが面白いので、話の種として色々な食べ物を持っていくんだけど、コウモリは食べてくれないし、普段何を食べているのかも教えてくれない。
ふと、コウモリは何かに気づいたように視線を私の背後にずらした。
「そんなことより、そこにいる子供の様子がおかしいわよ」
「えっ?」
先ほどから樹の石像の周りでチョコレートを食べていた女の子のうちの一人がうずくまっていた。傘を地面に置き、口元を手でおさえている。一緒にいるもう一人の女の子が、うずくまっている子が濡れないように傘をさしてあげていた。
私はまさかと思い、その子の前でしゃがんで声をかけた。
「大丈夫? なんか変なもの入ってた?」
女の子は首を上下に動かし、頷いてみせた。
「吐き出せる?」
そう問いかけると、女の子は口元をおさえていた手を離した。
「飲んじゃったぁ……」
そこでやっと、女の子は思い出したように泣き叫んだ。もう一人の女の子もつられて泣き出した。
その悲鳴のような泣き声を聞き、広場にいた大人たちが集まってきた。
「この子、何か異物を飲み込んでしまったみたいなんです!」
私がそう叫ぶと、背の高い男の人が女の子を抱え、住宅街の方へ歩き出した。別の男の人が、彼と女の子を傘で庇いながら一緒に歩く。おそらく診療所に連れていくのだろう。
もう一人の女の子もとまどっていたけれど、泣きながら彼らのあとについていった。
残された人々は彼らを見送ったあと、心配と恐怖の言葉を交わしながら散っていった。私は樹の石像の前で呆然と立ちつくしていた。
風の色の食べ物に異物が混ざっていたのはこれが初めてではない。どうも最近になってその数が増えているらしい。
でも、このときはまだ異物の混入をそこまで深刻に受けとめてはいなかった。
だけど私は知らなかったんだ。
これはただの異物混入事故なんかではなく、さらに残酷な運命が待ち受けているということを――。
その日の夜、家の外から騒々しい音が聞こえ、目が覚めた。窓から外を見てみると、空から川が降ってくるような勢いで雨が降っていた。私の知るかぎり、街に降る雨の量はいつも同じくらいで、これほど激しい雨は今までに見たことがなかった。
不安になり一階に降りてみたが、室内は暗いままだ。おじさんは眠っているらしい。まったく、この騒音の中でよく眠れるもんだと、おじさんの神経の図太さに感心した。
少し迷ったけど、外に出て様子を見てみることにした。こんなの滅多に見れるもんじゃないし、もしかしたら私の他にも誰かが起きているかもしれない。
赤い傘を持って家の外に出ると、耳をつんざく雨音がいっそう強くなった。まるで、百人の子供たちで結成された音楽隊が手当たり次第に楽器を鳴らしているみたいだ。
私はひとまず商店街の方へ歩いてみることにした。
大雨の中をしばらく歩いていたが、街の住人と出会うことはなかった。案外、この状況に気がついても外の様子を見ようとは思わないのかもしれない。自分は奇特な人間なのだろうか。
激しく打ちつける雨に視界が霞み、耳の感覚が麻痺してきた。それでも辛抱強く足を動かしていると、いつのまに商店街前の広場についていた。
私はそこで奇妙な光景を目撃した。
広場の中央にある樹の形をした石像の下で、小さな女の子が傘も差さずに佇んでいた。どことなく目が虚ろなようにも見える。
その子は、今日この広場でチョコレートに混入した
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