相対主義は、実質絶対主義なのか?

中学12年生

第1話

 相対主義とは実は絶対主義なのではないか、という主張が世間では度々散見される。その論理構成を辿ってみると、以下のような理屈が観察される。曰く、相対主義を主張しているからには、その相対主義を否定する絶対主義をも肯定せねばならず、しかしその行動は自身の相対主義を自身で否定することになり、矛盾が生じるので、それができない。しかしかと言って、相対主義を否定する絶対主義を否定してしまえば、それは紛れもなく絶対主義なのではないか、という意見である。


 この論法に対してもいくつか批判はあって、例えば「それは卑怯だ」とか「その論法の根拠である相対主義を否定する絶対主義は誰かどうやって提唱するのか」とかいった主張も確かに存在する。


 結論から言ってしまえば、「相対主義とは実質絶対主義なのでは」といった理屈は、いつでも言葉遊びに堕落する危険性を持っている。なぜかといえば、そもそも問題になっている相対主義とは現に存在する価値観及び考え方を等しく尊重するものであって、その中身を捨象した上で論理だけを抜粋し形而上学的世界で好きに操れるものではないからである。


 そして、上記の相対主義は絶対主義なのでは、という主張自体も実は間違っている、というか生産性を全く持っていない。それを明らかにするために、今どういった論理がどのような順番で働いているのかを順を追って見ていこう。


 まず第1段階。相対主義が実質絶対主義だというために、彼ら絶対主義論者は、相対主義の中身を無視し、絶対主義と対立するものとして構想している。


 そして、第2段階。どこからか、その相対主義を否定できる絶対主義を持ち出し、それを受け入れるのか拒否するのかという選択を相対主義論者に突きつける。


 さらに、第3段階。矛盾を回避するため、絶対主義を否定した相対主義を絶対主義と断じる。


 大雑把にこのような理屈が展開されている。さて、物は試しということで、同じ論法を絶対主義の方にも当てはめてみよう。


 まず、第1段階。絶対主義の中身を無視し、相対主義と対立するものとして構想してみよう。するとその肝心の骨子であるなんらかの絶対的基準を捨象された絶対主義は、それでも相対主義を否定しなければならないから、自身と対立するはずの他の絶対主義と同次元にまで堕落させられる。つまり、相対主義を否定できる何らかの絶対的基準を持っているはずだと言えれば、それでいいのである。すると、今我々の目の前には、空虚で不安定な絶対主義が幾つも転がっているという情景が広がっている。


 そして、第2段階。どこからか、それらの絶対主義を否定する相対主義を持ち出してみよう。そして、それを受け入れるのか否かを絶対主義論者に突きつけてみよう。すると、いくつもの空虚な絶対主義を守らなければならない絶対主義論者は、当然その相対主義を否定したい。しかし、ここで問題が起きる。中身のない絶対主義をいくつも、あるいは無限に持っている絶対主義論者が今主張できるのは、簡単に言えば、なんらかの絶対的基準を持っていればなんでも良いということのみなので、相対主義という絶対的基準を持っている相対主義を否定することができない。つまり、彼らはその相対主義をも受け入れざるをえないのである。それに、いくつもの絶対主義を同時に主張しているその状態こそ、実質相対主義に他ならない。


 さらに、第3段階。矛盾を回避するために相対主義を受け入れざるをえない絶対主義論者を相対主義を受け入れた相対主義者として断じてみよう。すると、絶対主義論者は、少なくとも形而上学的世界においては、何も反論できないことになる。


 つまり、相対主義が実質絶対主義なのでは、と述べる論法をそのまま絶対主義に当てはめると、それは実質相対主義なのでは、という結論が出てきてしまうのだ。ゆえに、その論法には生産性が全くなく、したがって価値もない。だから、それはいつでもただの言葉遊びに転落する可能性を孕んでいる。


 さて、ではどうしてこんなことが起きてしまったのだろうか。それは相対主義の扱える範囲に由来する。実は、相対主義(や多様性)というのは「なんでもあり」と同義ではないのだ。上で述べたように、相対主義とは「現に存在する価値観や考え方」を等しく尊重するものであり、したがって、当然その傘下に入ることができるかどうかというジャッジには厳しいチェックが入らざるを得ない。だから、相対主義というものを、その中身を捨象して、そのまま絶対主義と対立するものとして扱うことに根本的な無理が生じているのである。


 そして、それを引き起こす原因は2つほど考えられる。まず第1に、相対主義に対する知識不足。相対主義をなんでもあり(これは認識的相対主義とも言われ、相対主義者も否定しているところである)と同義だと考えてしまうのだ。ただ、これはもう仕方がない。知識不足は人間にとって常に持ち歩かなければならない荷物であるし、単純に疑問を持つことはどんな立場の人にとっても尊い知的活動である。


 そして第2に、絶対主義論者の雑な引用である。彼らは、相対主義を受け入れたくないために、加えて自身の絶対主義を通すために、相対主義を「なんでもあり」なのだと考えたい。そして、その「なんでもあり」の矛盾を突いて相対主義を棄却した気になりたいのである。そして、我々も普通絶対主義をその肝心の論拠である絶対的基準を無視して考えることはしない。そんな絶対主義の残骸を扱うことに抵抗を感じるからだ。にも関わらず、相対主義に対しては同じことを許してしまうのである。そのため、冒頭のような主張が繰り返され、事実は捻じ曲げられ、論理は飛躍させられる。


 そこには、絶対主義者の心理的欺瞞においても、我々の絶対主義に対する認識においても、ひとえに「客観的事実より主観的あるいは間主観的価値を重視する」という行動が観察できる。ゆえに、このような誤解を繰り返さないためには、主観的、間主観的価値では測れないものがあり、それが客観的事実なのだと誰かが言わなければならない。


 価値にはなりえないものが、事実として存在することを我々は認めなければならないのだ。ここで、私はこの論考を終えようと思う。少しでもこれに目を通した人には、価値重視の世界に疑問を投げかけてみて欲しいと切に願っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

相対主義は、実質絶対主義なのか? 中学12年生 @juuninennsei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る