第1章 バラックの雨

 雨が降っている――長い廊下は蛍光灯の光に照らされ青白く薄明が映り込み、壁に取り付けられた窓ガラスにはいくつもの雨筋が絶え間なく流れ、真冬の雨で底冷えする廊下は厳しい冷気に満たされている。僕は今その凜然りんぜんとした世界を淡々と歩いている。


 「ここが今日から露木つゆきくんがみんなと勉強をする五年一組の教室よ。」


 長い廊下を一緒に歩いてきた担任の女性の先生が歩を止め、軽く笑みを浮かべながら口を開く。そして扉を開ける前に僕に心の準備の是非を問うが、何度も転校を繰り返してきた僕には特に臆することなどまったくない。大丈夫ですと一言返すと、先生は良し!と一言放つとガラガラと教室のドアを開けた。

 僕が教室へ足を踏み入れると、たくさんの視線が刺さり、一瞬の間の後にギャーギャーとした喧騒に空気が変わる。そして先生が生徒達をなだめ僕を教室の中央へと招く。僕がひとしきり自己紹介をすると、先生から教室の窓側中央の空席へ着席するように促された。当然のようにその間に、どこから来たの?など転校生への在り来たりな質問が教室中を飛び交うが、僕はいつものように簡素に答えて自分の席へ着席した。転校初日でまだ教科書が揃っていなかった僕は、先生から隣の子に教科書を見せてもらうように言われた。そして隣に座っている女子が僕に自分の机をつけて、


 「私、雨宮瑞季あめみやみずきっていうの。よろしくね」


 転校初日、今までと何変わることなく一連の流れに僕はそつなく対応する……はずだったのだが、ここからがいつもの流れと違っていた。


 「実は私も転校してきたばかりなの。初めての転校だから慣れないことばかりだけど、一緒に慣れていけるといいね」


 そういうと、隣席の雨宮という子は少し頬を染め、恥ずかしそうな表情で僕に笑顔を見せた。転校先の初日の隣の席に別の転校生がいるなんていうパターンは初めてで、僕はいつもにはない感覚を覚え、少しどもりながら……僕の方こそよろしく……と言葉を返した。そして朝のホームルームが終わりを告げ、一時間目の始業のチャイムが教室に鳴り響き、僕の新しい学校生活が始まったのだった。


 僕は一月という半端な時期に転校して来たこともあって、五年生のクラスはあっという間に過ぎ去り、僕は友達という友達がなかなか出来ないまま六年生に進級した。かと言って、友達がなかなか出来ない理由はそれだけじゃなくて、理由はいつもと同じで僕の淡々とした性格が原因だ。でも、僕は淡々としているが別に感情的でないというわけではない。転々とする生活を送ってきたせいか人との対応の仕方が冷たく感じられるのかもしれない。ただ、転校初日に挨拶を交わした雨宮とは不思議と仲良くなり、今では、学校でもそれ以外の時間でも雨宮と一緒にいることが多くなった。そして自然とお互いを名字から名前で呼び合うようになっていった。


 海沿いに咲く薄紅色の花びらが、ひらりひらりと舞い落ちる。やがてそれらは春の潮風に乗って群れとなって僕らを包んだ。淡い世界と碧い海とのコントラストが、坂を上る僕らの歩みを軽くしていく。

新学期が始まった月曜日の午後、僕と瑞季は真っ直ぐ家に帰らず、この町で一番綺麗な景色が見える和布刈めかり公園へと向かっていた。


 「いつもは嫌になる坂だけど、今日はとても気持ちがいいね」


 息急きとしながらも、瑞季の声はとても心地よい気持ちに感じられ、言葉ひとつひとつが跳ねたように話しかけてくる。


 「僕らはこの町ことを冬しか知らないから、頂上の公園までのこの坂道はしんどいだけだったけど、春のこの道のりがこんなにも爽快だったなんて……」


 今僕らが向かっている和布刈公園は、小高い山にあるこの町一番の絶景地で、九州と本州を割くように流れる関門海峡かんもんかいきょうを一望できる。遠くには北九州の工場群まで望むことができ、反対側には周防灘すおうなだも一望出来るし本当に爽快な場所なのだ。ただ、この公園まで歩いて行く道のりが地味にきつく、頂上まで行くバスも出ているが僕らは歩いて公園まで行くのが常日頃だった。


 今年は冬から初春にかけて気温が低かったせいか、この町では桜の開花が遅れたらしく、例年ならほとんど花が散っている新学期が始まるこの時期も、この和布刈公園がある一帯はまだ花吹雪が舞っていた。


 坂を上り初めて二十分、ようやく和布刈公園展望台まで辿り着いた僕らは、吹き上がって来る海峡の潮風に押されるように芝生に座り込んだ。春の陽気に少し汗ばんだ身体に吹き付ける潮風がとても心地よく、僕らはしばらく何も会話もなく眼下に広がる海の町を眺めていた。


 碧い海峡に行き交うタンカーや貨物船、僕らが暮らす門司もじの町並み、海峡の遠くには工場群の煙突からもくもくと煙りが立ち上がっている。少し春霞はるがずみがかかっているけれど、とても穏やかな世界に包まれた初めて見る海峡の春景色に、時間という存在を忘れた僕たちは、ただただ目の前の雄大な世界に魅入っていた。


 「蒼汰そうたくん……また来年も見に来られるかな……」


 そう言った瑞季の瞳は、この淡い海峡の春景色のもっと向こうの世界を見ていて、その瑞季の横顔はちょっと大人びた表情をしていた。


 「見に来られるよ……きっとまた」


 海峡を飛ぶウミネコが、汽笛きてきを鳴らす貨物船に呼応するように鳴いていた。大丈夫、きっと僕らは来年もまたこの淡く雄大な世界の中で、潮風を感じながらふたりでまた、きっと……






 春から新録の季節が過ぎ、空に鈍色の雲が広がる風景へと季節は移ろいでいた。じめじめとした空気が鼻を抜け、梅雨の匂いが色濃く立ち籠め、空には今にも雨が降り出しそうな分厚い雲広がっている。もうすぐ、もうすぐだ。僕は雨を待っている――。


 「蒼汰くん、今日も和布刈公園行くの?」


 下駄箱で靴を履き替えようとしている僕に、息急きと瑞季が僕に声をかけてきた。


 「いや、今日は公園には行かないんだ。ちょっと用事があって……」


 瑞季は視線を僕に向けたままちょっと顎を引き、少し寂しそうに言葉を返す。


 「蒼汰くん、時々いつも帰る道と反対の道を歩いて何処かに行ってるよね」


 雨の日、雨が降りそうな日は、僕には行かなければいけない秘密の場所がある。誰それよりも大切とかそいういう問題ではなくて、そこは僕にとっての心の拠り所になっていて、この町で僕が生きていく中でもはや生活の一部として成り立っているのだ。特に雨の降る日は特別な場所として僕を支えている。

瑞季はそんな僕のちょっとした行動をよく見ていた……普通に考えれば気付くことかもしれない。学校にいる時、それ以外の時もいつも一緒にいたし、時折突然独りになるのを不思議に思い勘ぐられてもおかしくはない。でも僕は……


 「ごめん、今日はちょっと用事があるから……」


 すると彼女は小さくうつむき、ちょっと寂しそうな笑顔を見せ、


 「そっか……わかった、それじゃまた明日ね。」


 そう言って鈍色の空の下で、独り下校して行く瑞季の後ろ姿がとても切なく、やっと出来た大切な友達なのに、あんなにもいつも一緒にいたのにどうして一緒に行こうと誘えなかったのか、秘密の場所を共有しようとしなかったのか……きっと傷つけてしまった瑞季の心を、僕は自分の心の小ささに子供ながらに情けなく感じ、心が締め付けられるように苦しかった。でも、それぐらいあの場所が僕にとってとても特別な居場所になっていたのかもしれない。それに今日はいつも以上にあの場所へ独りで行くことが特別な日だったのだ。


 静けさが立ちこめる下駄箱に、湿った露の匂いが流れてきた。その匂いのする方へ引き寄せられるように下駄箱を後にした僕は、心の苦しさを洗い流すかのように、ポツポツと降り始めた雨に身を委ね歩き始めた――雨で冷たくなった僕の手が傘を開くことはなかった。


 道中、雨に打たれながら僕は昨夜の家での出来事を思い返していた。珍しく早く帰宅した父さんが手料理を振る舞い、久しぶりに親子揃っての夕飯時を過ごしていた。画家を生業としている父さんは、仕事柄日本中を転々としているため、一つの場所に腰をえてという生活を送ることはない。いや、正確には腰を据えなくなってしまったと言うべきかもしれない。

 僕は小学校に上がった頃までは東京でずっと生活をしていた。でも、母さんが病気で若くして亡くなってしまってから、明るくお茶目だった父さんは人が変わったように家では無口になり、僕を連れて東京から離れ各地を転々とする生活が始まった。そんな父さんが手料理を振る舞いながら今夜は嘘のようによく喋っている。

 母さんが亡くなったことはとてもショックだっだけれど、僕は父さんと各地を転々とする生活はそんなに嫌いじゃなかったし、一緒に過ごす時間は短いけれど、そんな父さんを嫌いにはならなかった。

 でも今夜の父さんは何だか様子がおかしい。こんなにもよく喋り笑っている父さんを見るのは、母さんが亡くなる前以来のことだ。僕が穴が開くほど自分を見つめているのに気付いた父さんは、手にした缶ビールをテーブルに置いて僕に話を切り出した。


 「どうした蒼汰?父さんの料理は美味しくないか?」


 僕は見慣れない父さんの様子について聞いていいのか迷っていた。すると父さんはきりりとした表情に一転し再び口を開いた。


 「蒼汰……父さんはもう転々とした暮らしをもうやめるよ」


 父さんの唐突に切り出した話に僕は一瞬言葉を失う。


 「知り合いの誘いを受けて、九月から東京の大学で教壇に立つ事にした。画家は止めないが今後は大学の先生として腰を据えることにしたよ」


 僕は頭の中が真っ白になった。何がどうなっているのか状況がまったく掴めなかった。僕は動揺を隠せないまま、吃りながら父さんに理由をたずねる。


 「ど、どうしてそんな急に!?今まであれだけ絵だけに夢中になっていたのに、どうして急に大学の先生に?」


 僕は立て続けに父さんに言葉を投げかける。


 「転々とした生活は慣れていたけど、この町で僕だってようやく友達が出来たのに、またもう転校するなんて嫌だよ!」


 熱り立つ僕に父さんが申し訳なさそうな表情に変わったと思うと、その瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。


 「すまん……蒼汰、すまない……」


 一筋の涙は次第にぼろぼろと大粒の涙に代わり、父さんは僕にひたすら謝り続けた。熱り立ち椅子から立ち上がってた僕は、力が抜けて椅子にガタリと座り込んだ。

 涙で頬をぬらし謝る父さんの今の顔は、母さんが亡くなった時とまったく同じ表情だったからだ。そして溢れ出す涙を抑えきれない父さんは、なすがままの感情とともに僕の目を憚らず嗚咽した。


 少しの間だったのか、長い間だったのか、よく分からない間の中で少し気持ちを落ち着けた僕は、父さんにいつもの口調で尋ねた。


 「父さん、一体何があったの?」


 嗚咽おえつするほど涙を流して少し落ち着きを取り戻した父さんは、腕で涙を拭って僕にゆっくりと語り出した。


 「もう十五年ほど前になるか、この町は母さんとふたりで旅した最後の町なんだ。」


 そう話を切り出した父さんは、ゆっくりと穏やかな表情に変わった。


 「蒼汰もよく遊びに行っているだろうが、和布刈と呼ばれている海沿いの地域があるだろう?照れくさい話だが父さんはあの海辺で母さんにプロポーズしたのだが、婚約指輪を差し出した時に突然猫に飛びつかれてしまって、猫が指輪を咥えて持ち去って行ってしまったんだよ」


 昔話を懐かしむ父さんの表情が、ちょっと照れた笑顔で何処か寂しげで、でもそんな父さんの表情を見られて僕は何だか嬉しい気持ちになった。

この町がそんな想い出のある町なんて話は知らなかったし、ずっと母さんのことで苦しんでたあの父さんが、まさか母さんとの大切な想い出の地に移り住むだなんて考えもつかなかった。


 「その後一生懸命に猫を探したのだが何処にも見当たらなくてな、落ち込む父さんを見て母さんは何て言ったと思う?」


 僕は父さんの生き生きとした口調に耳を傾ける。


 「『この町で一緒に暮らそっか?そのうち指輪を咥えた猫にもまた会えるよ』――なんて言われてな、何か母さんのノリに呆気にとられながら婚約が決まったんだ。プロポーズしたつもりが、逆にプロポーズされたみたいになってな」


 父さんは頭をきながら和やかに笑った。でもそれ同時に、僕も昔この町に住んでいたのかもしれないと思い、ちょっと興奮気味に父さんに尋ねると、


 「そうだよ、蒼汰はこの町で産まれ、しばらくこの町で育っていったんだよ。でも、母さんが病に倒れてしまって対応出来る病院がこの町には無かったから、蒼汰が物心つく前に東京へ移り住んだんだ。その後のことはお前も大体分かるだろ……」


 父さんと母さんと僕の三人でこの町に……そうか、僕はこの町で産まれたんだ。そう思うと急にこの町のことが感慨深く感じられてきた。


 「そうだ! その指輪を咥えた逃げていった猫はその後どうなったの?」


 父さんはまた少し寂しげな笑顔になりながらも、僕の疑問に答えてくれた。


 「うん……結局その猫は見つからず終いだったよ」


 そして父さんが再びきりりとした表情になると、本題に話を移した。


 「父さんがこの町へまた移り住んで来た理由は、母さんの死とちゃんと向き合うために来たんだ。蒼汰も来年はもう中学生だ。父さんがいつまでもこんなんじゃ、天国から母さんに叱られるからな。蒼汰には苦労ばかりかけてきて本当に申し訳ないと思っている。」


 父さんの真っ直ぐな瞳が、いつになく僕を見つめている。


 「さっき言った知り合いというのは、父さんと母さんの大学時代の恩師の教授ことなんだが、ここ数年間の父さんのことでキツく叱られてな……母さんが教授だけにもしもの時の遺言を残してたことを知らされたんだ」


 母さんの遺言……お別れの日の病室での言葉が母さんの最後の言葉だと思っていたけれど、母さんが残したもう一つの遺言があっただなんて……


 「母さんな、教授に『もしあの人が蒼汰に寂しい思いをさせるようなことをしたら、思いっ切り叱ってやってください。あの人は優しすぎるから、きっとこの先思い悩むと思うんです。だから私にきちんとサヨナラが言えるように叱ってあげてください。サヨナラは別れの挨拶だけじゃない、新しい自分への始まりの挨拶でもあるんだよって』そう母さんは教授に伝えていたそうだ」


 父さんの瞳にまた涙がにじみ、ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。僕も母さんの残したもう一つの言葉が心の深くまで染み込んで来て、瞳にぽろぽろと涙の波が押し寄せる。


 「父さん、もう母さんの死としっかり向き合ったから……しっかりサヨナラの挨拶が出来たから……蒼汰、父さんのわがままをもう一つだけ聞いてくれ」


 僕らふたり、もう目の前はかすんで、心の中の母さんの笑顔しか見えない。


 「蒼汰、父さんと東京へ帰ろう」


 「うん……」


 昨夜のことを思い返し終えた頃、僕は秘密の場所へと辿り着いた。雨は変わらず降り続いている。昨夜の流した涙のように、雨は大粒の雫へと姿を変えていく。






 バラックの屋根に雨音が響く――此処に来るたびにその音は違って聴こえる。彼は今日もきっとここに来るだろう。なにひとつない根拠だけれど、雨が降る日に彼が此処に居なかった日はない。何度か晴れ日や曇りの日にも来てみたけれど、彼は一度も来ることはなかった。彼は雨の降る日にしか現れない。


 このバラックの廃墟は海沿いの国道脇に建っている。少し先に行ったところには、観光地にもなっているちょっとした景勝地として遊歩道もあり、晴れの日の週末にはそこそこ人通りもある。しかし、皆そこから先には何もないことを知ってか、このバラックの廃墟まで足を伸ばすことはないのだ。そして、今日のように雨の降る平日なんかは、地元民でさえほとんど近寄ることのないひっそりとした場所になっている。


 僕は最初、この廃墟は何の変哲もないただの廃墟だと思っていたが、二度目に訪れた時にふと廃屋の裏手に回ってみると、朽ち果てた古い駅のホームや錆び付いた線路や信号機の残骸を見つけ、初めて此処が昔は駅だったことに気付いた。この廃線跡が気になり図書館で調べてみた僕は、此処は昔、田野浦公共臨港鉄道たのうらこうきょうりんこうてつどうという貨物用の路線が走っていたことを知った。そしてこの朽ち果てた駅が雨ヶ窪あめがくぼ駅という名の駅舎だったことも分かった。十数年前までは運行されていたそうだけど、その後は廃線となりそのままの状態で朽ち果てていったようだ。この廃屋と化した建物も駅舎の一部として使用されていたのかもしれないが、それを知るための資料は図書館に残されていなかった。今はただただ、この町の歴史の流れ中で朽ち果てていきながら、人知れず風化していく遺構として、この人気の無い場所に在るだけ……それだけの存在だった。


 刻々と雨は強くなっている――通りに面した側には彼はまだ姿を現していなかった。僕は廃屋の裏手に回り彼の姿を探したが、何処にも彼の姿は見当たらなかった。いつも突然姿を現す気ままな彼のことだと、僕はバラックの屋根の下に積み上げられている木製のパレットに腰を下ろし、雨宿りをしながら彼が現れるのを気長にひたすら待つことにした。


 携帯電話の時計の数字が淡々と時を重ね、0と9の合間を雨音が奏でる自然音に合わせるように何度も何度もリフレインしていく。雨雲の色も色濃くなり、時計を確認する必要もなく、もう黄昏時を迎え夜の足音が近づいているのが分かった。今日は彼は来ないのだろうか……こんなにも彼を待ち遠しく感じるのは初めてだ。

 僕の足下には次第に水溜まりが広がり、雨垂れがぴちゃぴちゃと水溜まりに波紋を広げていく。黄昏時を過ぎ辺りは暗くなりはじめ、道路脇に悽然と佇み立つ常夜灯が静かに点る。そして鈍色だった雨雲はいつしか夜の世界で黒い雨雲へと姿を変えた。


 僕は彼にどうしても聞きたいことがあった。雨が降っているから此処に来たとか、彼に会いたくなったからとか、今日はそういう単純な理由だけで来たわけではないんだ。今日僕はこの場所で、彼にどうしても聞きたいことがあった。そして別れの挨拶をするためにまた此処に来たんだ。

次第に強くなっていく梅雨の夜の雨風が、僕の身体を濡らし体温を徐々に奪っていく。僕は俯き身をすくめていた。何故今日は彼は姿を現さないのだろう……寂しさと不安感で溢れかえりそうなその時だった。ぴちゃぴちゃと水溜まりに鳴っていた雨音が、突然ボツボツとした鈍い雨音に変わった。僕はうつむいていた顔をゆっくりと上げると、そこには傘を持って僕の頭上に差し出している瑞季が立っていた。


 「風邪……ひいちゃうよ」


 そう一言いうと、瑞季はやさしく微笑んでいた。


 「瑞季……どうして此処に……」


 申し訳なさそう顔をしながらも、瑞季は微笑んだまま、


 「ゴメンね……でも放課後の蒼汰くんの寂しそうな顔を見ていたら気になっちゃって、あの後引き返してたら蒼汰くんが傘も差さずに歩いていたから、つい後をつけて来ちゃった。本当にゴメンね」


 僕は正直、少し安堵した……瑞季の差し出した傘の下で、ほのかな温もりを感じていた。


 「これ飲んで……あたたかいものがこれしかなかったのだけど……」


 そう言って瑞季が手渡してくれたものは、この時期には珍しいあたたかい缶コーヒーだった。


 「ありがとう、瑞季。」


 僕は雨で濡れた指先でプルタブを開けると、ゆっくりと飲み口へ口を運んだ。


 「あたたかいよ……とても、あたたかい」


 瑞季は、よかったとひとこと言うと、もう一缶あった缶コーヒーを開け自分の口へ運んだ。


 「本当だね、とってもあたたかい」


 梅雨の雨風に吹かれながら、僕たちが初めて口にした缶コーヒーは、甘くてちょっとほろ苦い大人の味がした。そして瑞季は僕の隣へ腰を下ろし、何を話すでもなく夜の雨空を見上げながら、ふたりで缶コーヒーを飲み干した。


 「猫を、猫を待っているんだ」


 瑞季は真剣な眼差しで僕を見つめている。


 「そっか、その猫は蒼汰くんの大切な友達なんだね。でも、私にぐらい紹介しれくれても良かったんじゃない?」


 蒼汰の心情を伺うように、瑞季はわざと少しからかうように言葉を返した。その瑞季の表情は、真剣な眼差しから笑顔に変わっていた。


 「ごめん、何も言わなくて……ただ……」


 そう言うと、その先の言葉を制するように瑞季は言葉を返してきた。


 「冗談だよ、冗談……ちょっと意地悪言っただけ。 ゴメンね」


 瑞季はくすっと笑いながら、笑顔で言葉を続ける。


 「誰にだって話せない秘密のひとつやふたつはあるもの。きっと蒼汰くんとその猫くんの、ふたりだけの大事な世界があるんでしょ? それなら私はそこには入っちゃいけないと思うし、蒼汰くんにもその世界を大事にして欲しい」 


 瑞季は平然とした様子で話しているけど、言葉ひとつひとつに僕を気遣っている感情が伝わってきて、その笑顔の深くには何処か寂しさや切なさといった、瑞季の本心が僕の心には痛いほど伝わって感じてならなかった。

 僕は、瑞季との距離が少し遠くなったような気がすると同時に、瑞季自身も僕との間に距離を感じ始めているんじゃないかと、遠くを見つめる瑞季の眼差しを見た時にひしひしと伝わって来て、僕は瑞季にかける言葉を失ってしまった。


 沈黙が僕らの距離を徐々に遠ざけていく。居た堪れない空気になってきたその時だった。『ガシャン!』と大きな物音が廃屋の中から聞こえてきた。僕らは驚きと同時に顔を合わせ、廃屋の方へと振り返った。


 「蒼汰くん、今の物音……」


 瑞季の表情がみるみると強張っていく。そしてもう一度『ガシャン』と大きな物音がなった瞬間、瑞季は僕の左腕を掴み僕に寄り添って来た。体温を感じるほど寄り添った瑞季からは、不安感で早まっていく鼓動が伝わって来る。

 物音は廃屋の二階から聞こえてきたが、真っ暗に染まった二階の窓からは人の気配は感じられない。僕も少し不安な気持ちになっていたが、早まる鼓動をなんとか落ち着かせ、瑞季にそれが伝わらないように一度深く深呼吸をし、少しでも冷静さを取り戻そうと気を落ち着かせていた。


 チカチカと擦れる常夜燈が、廃屋のバラックの壁に流れる雨を仄かに照らす。なんとも言えないその不穏な空気が僕らを包み込み、緊張感が否応無し高まっていく。心の安らぎだったいつもの場所が、たった二度の物音で今日は真逆の世界へと存在を変えている。鼓動が再び早まり始めたその時だった。いつもは堅く閉ざされていた廃屋のドアが、ギーッという軋んだ音を立てながらゆっくりと開いていく。僕の左腕を掴む瑞季の手が如実に強まっていくのを感じながら、僕らの視線は半開きになったドアの先の暗闇を凝視していた。そしてその暗闇の向こうから、何かが蠢いているのが見えた。


 「ニャオーーーーン……」


 僕らは突如として耳に届いた聞き慣れた動物の鳴き声に、目を丸くして顔を合わせた。すると姿を現したのは、白黒のブチの一匹の猫だった。


 「レイン!なんだレインじゃないか」


 こっちの気も知らないで悠然と現れたレインは、今度はニャンと短い鳴き声で僕らに向かって鳴き声を上げた。黄昏時が降り続いて雨はいつの間にか小雨へと変わり、黒い雲に覆われた夜空に、僅かに開いた雲間から梅雨の月が姿を現し、その月光は僕らをやわらかに差し照らしていた。張り詰めていた緊張感から解放された僕らに安堵が戻る。


 再び顔を合わした僕らは、お互いの気の抜けた表情を確認すると涙混じりに大きく笑った。月もそんな僕たちを見て、雲間から顔を覗かせまま微笑んでいるようだった。月時雨となった梅雨の夜に、レインは僕と瑞季の足下で一緒にこの雨に打たれながら、ぼんやりと闇夜を照らす月をじっと見上げていた。






 雨脚は徐々に弱くなっている――闇夜の廃屋の不気味な音の正体が分かり、僕らはレインを間に挟んでまた雨空を眺めている。月はまた黒い雲に隠れてしまい月時雨ではなくなったが、あの瞬間僕らを照らした月光はとても綺麗で、重い沈黙や気まずさを月時雨つきしぐれとともに洗い流してくれた。今この瞬間の沈黙はとても心地が良くて、このままこの時間がずっと続けばいいのにと僕は願った。


 「この猫くんが……レインが蒼汰くんの待ち焦がれていた友達なのね」


 頭を撫でられているレインは戯れ付くじゃれつくわけでもなく、鳴くこともなく木製パレットの上でじっと座っている。


 「レイン、あなたは何処と無く蒼汰くんに似ているね。」


 初めてレインに出逢ったあの日、僕がレインにかけた言葉と同じ言葉を、瑞季はリフレインするように話しかけていた。撫でながらレインの雰囲気に僕を重ねる瑞季は、どんな気持ちでレインに言葉を投げ掛けているのだろう。そんなことを考えながら、雨で少し髪を濡らした瑞季の微笑む横顔は何だか少し大人っぽくて、僕はそんな瑞季に少し胸が締め付けられた。レインと瑞季と僕と、それぞれの掴みきれない心が今、少し冷たい梅雨の雨の降るこのバラックの廃屋の屋根の下で、それぞれの想いが交錯している。それはきっとなんとも言えない情景で、上手く言葉では言い表せなかったけど、僕は子供ながらその情景や空気感がとても心地よかった。


 僕らがそんな夜を過ごしていたそんな時だった。遠くから近づく一台の車が廃屋の少し手前で停車し、ヘッドライトが僕らを照らしその場で停車していた。その瞬間、瑞季が勢いよく立ち上がる。


 「お父さん……」


 そう言葉を漏らした瑞季の表情は、怒られるのを恐れている子犬の様な表情に変わっていた。車のドアが開き、中からスーツ姿の瑞季のお父さんが車から降りて、コツコツと鳴る靴音がさっきまでの心地よかった世界を裂き、僕らのもとへ近づいて来る。その表情はとても険しいものだった。当たり前と言えば当たり前だ。小学生が夜にこんな人気の無い廃屋にいるんだ。ましてや瑞季は女の子なんだ。責任を感じた僕はすぐに瑞季の前に立ち、瑞季のお父さんに謝ろうとしたが……


 「君は下がっていなさい」


 そのたった一言に籠められた大人の重い言葉に、僕は何一つ言葉が出なくて、ただそこに立ち尽くしてしまった。そして次の瞬間、瑞季のお父さんの右手が挙がり、乾いた音が瑞季の左頬に響いた。


 「瑞季、何故お父さんが叩いたか分かるな。とうに日の落ちたこんな遅くに、こんな場所で一体何をしているんだ。どれだけお父さんとお母さんが心配したか」


 赤くなった左頬に手を当て、ごめんなさいと涙を浮かべながら何度も謝る瑞季を見た時、僕はただただ自分が情けなくて、女の子ひとりもまだ守れない未熟な子供なんだと強く思い知らされた。


 「言いたいことはたくさんあるが、もうこんな時間だ。二人とも早く車に乗りなさい。君のお父さんにも先ほど電話して伝えてある」


 僕は瑞季のお父さんに促されながら、黙って車に乗った。車のエンジン音が鳴り車窓が流れ始め、僕がバラックの廃屋に視線を送ると、そこにはもうレインの姿はなかった。


 家路に着く間、車窓に流れる町の灯りを眺めながら、風雨の中やっとレインに会えたというのに、瑞季を巻き込み辛い目まで遭わせ、みんなを心配させ……レインには何も聞けず、サヨナラを伝えられないままに終わり、いったい僕は今日何のためにあの場所にいたのだろうかと、ずっと自分を強く責め続けた。


 やがて車が見慣れたマンションに近付いて来ると、遠くで傘も差さずにマンションの前で立ち尽くしている父さんの姿が見えた。そして車はマンションの前に停車した。僕らが車から降りると父さんは真っ先に瑞季のお父さんの前に立ち、深々と何度も何度も頭を下げ続け、謝り続けた。そして瑞季のお父さんが口を開く、


 「とりあえず、今回は何事もなく無事に娘を保護出来たのは幸いでしたが、一歩間違えればどうなっていたことか……露木さん、言いたいことは多くありますがもうこんな時間です。今夜はここで終わりしますが、もう息子さんを私の娘に会わせないで下さい。では失礼します」


 何度も何度も頭を下げ続ける父さんに、僕は申し訳なさと心苦しさで、大人の世界を何も知らない子供であることにイラつき、そんな自分に腹が立って仕方が無かった。早く大人にならなければと、僕はその時強く思った。瑞季を乗せた車が僕の視界から見えなくなると、父さんは僕の手を握り何も言わず家に連れ戻した。自分の部屋に戻った時、時計の針は午後十時ちょうどを指していた。


 しばらくして僕が自室の引き戸を静かに開けると、父さんが仏前に置かれた母さんの写真の前で、ひとり泣いていた。僕はまた何も、何も言えずに、開いた戸をゆっくりと閉めた。

僕はベッドの上で膝を抱えてうずくまり、自分をまた責めながら早く、早く大人にならなくちゃいけないと、涙を流しながら何度も何度も呟いていた。僕はそのまま眠りこけてしまい、気が付くとカーテンの隙間からうっすらと明かりが射していた。


 「朝だ――」


 カーテンを開らくと、いつもと変わらない町並みが、昇り始めた朝日に薄く照らされていた。僕が生まれた育った町は、昨夜の出来事が何も無かったように、いつもと変わらぬ姿で静かに今日も蠢き始めた。


 僕は来週この町を離れる。今年のこの町は空梅雨状態が続いていた。テレビから流れる天気予報では、まともに雨も降ってないのにこの先一週間梅雨の晴れ間が続くと、無情な情報を僕に伝えていた。昨夜はレインに会える唯一のチャンスだったんだと、差し込む朝日にあらためて知らされる。


 キッチンからは軽快に野菜を切る音が聞こえてくる。味噌汁の匂いがリビングにも漂って来ると、父さんが朝食を運びながら僕に朝の挨拶をする。その顔は和やかな表情だった。


 「おはよう、蒼汰。今朝は母さんの得意だった玉ねぎの味噌汁だぞ」


 父さんは本当に母さんとの心の整理がついたようだった。急激に変わったわけではないけど、今の父さんの言葉には感情が籠められているような、会話に表情が出て来ているように感じた。ただ、父さんは昨夜のことについて何も触れない。そんな父さんに僕は……


 「昨日のこと……何も叱らないんだね、父さん」


 父さんは手にした味噌汁茶碗をテーブルに置くと、僕の瞳を真っ直ぐに見つめた。


 「昨夜のことを叱ったら、蒼汰の心の中の靄は晴れるのか? あんなに雨が降る中、ずぶ濡れになってまでずっとあの場所にいたんだ。蒼汰にとってとても大切な理由があったからあの場所へ行ったんじゃないのか? 父さんはそのことだけは蒼汰は間違ったことをしてないと思ってるよ」


 父さんの言葉は、僕の心をそっと諭すように優しく触れ話を続ける。


 「瑞季ちゃんのことや、彼女のご両親のことを考えると、もっと早く家に帰るように行動をおこすべきだったかもしれない。 でも父さんは蒼汰の父親だ。父さんなりのやり方で蒼汰を叱っていくし、蒼汰の気持ちを尊重したい。 それに蒼汰の今の顔を見れば分かるよ……もう叱らなくても蒼汰は自分自身でちゃんと分かってるはずだ」


 そう言うと父さんは、せっかくの朝食が冷えてしまうからと、手料理の並べられたテーブルに早くつくようにと、手で仰ぎ笑顔で促した。そんな父さんの手には真新しい絆創膏が貼られていた。


 朝食を済ませ僕が学校へ向かおうとした時、


 「蒼汰、今日は最後の授業なんだから、しっかり勉強して、しっかりみんなにお別れの挨拶をしてきなさい。 あと、父さんのわがままを聞いてくれてありがとな」


 僕が父さんに返す言葉はもうこの一言しかなかった。


 「サヨナラは別れの挨拶だけじゃない、新しい自分への始まりの挨拶……でしょ?」


 僕は笑顔で返すと、父さんは満面の笑みを浮かべ、


 「よし!行ってこい! 引っ越しの作業もあるしな」


 『なにそれ』と僕らは親子は互いに大きく笑いながら、父さんも僕もこの町で残した最後の仕事を片すために、それぞれの真新しい朝を駆けだした。



 教室の時計の針は午前八時四十五分を指していた――僕は今、先生に呼ばれ教室の黒板を背に、クラスのみんなの前に立っている。


 「今日はみんなに大切な話があります。 一月からみんなと一緒にたくさんのことを学んできた露木くんですが、今日を最後に転校することになりました。最後に露木くんからお別れの挨拶があるので、みんなちゃんと聞いて下さい」


 先生から簡単な挨拶があったあと、僕は軽く一礼したあと最後の転校の別れの挨拶を話し始めた。


 「今日を最後にこの学校を転校することになりました。この学校で卒業式を迎えられなかったのは残念だけど、この学校でたくさんのことを学べたことは良かったです。この学校に転校して来て本当に良かったです。短い間だったけど、ありがとうございました。」


 僕はいつも転校する時に言う文言を言い終わる。そしていつもの光景がそこにはまた広がっていた。特に大々的に気にする様子も無く、周囲の目を引くためだけにやたらとはしゃぐ男子生徒がいて、こちらを横目にこそこそと話す生徒もいて、そこにはいつもの転校する時とまったく変わらない光景が広がっていた。ただ、教室の窓際の一番後ろの席にいる瑞季は、僕の急な転校の挨拶に驚き、目を潤ませ涙を必死に堪えてる様子が見て取れた。少しざわつき騒ぎ始めた生徒達を、先生が落ち着かせようと『みんな、みんなちゃんと聞いて!』と落ち着かせようとする。

 僕は半年間この学校にいたが、周りから浮いていたし、瑞季以外の友達と呼べる友達は出来なかった。こんな雰囲気になるのは分かっていたし、毎度変わらずの光景だ。いつもならこの雰囲気のままここで僕の別れの挨拶は終わりだが……今回は違う。

 母さんが最後に残した言葉を胸に、僕は今頭に思いつく全ての文言をそのまま伝えてようと、少しざわつき始めた教室の空気を割って入るように、口を大きく開き大きな声で最後の別れの挨拶を続けた。


 「僕は! 僕は…」


 いつもは学校で出さない僕の大きな声に教室の空気が変わり、みんなの視線が一気に僕に集まる


 「僕は……あまりみんなと話をする機会がなかったけど、この学校があるこの町がとても好きなりました。碧い海峡の潮騒しおさいの音や匂いや、古い町並みに響く船の汽笛、海風に舞う桜の花びらや、この海の町を彩るたくさんの風景がとても好きになりました!」


 そして本当に最後の言葉となる言葉を最後に言い放つ。


 「ずっと住んでるみんなには当たり前の風景かもしれないけど、でも当たり前にある風景には大切なことがたくさん籠められていて、たくさんの人達の大切な想いが籠められているんだ。だから……この町の良いところを、もっともっとたくさん知って欲しい! 半年間、本当にありがとうございました!」


 僕は伝えたいことの全てを言い終わると、教室の隅で涙を流している瑞季が立ち上がり、大きな拍手を鳴らし始めた。そして先生が続けて拍手を鳴らし、クラスのみんなは次に続けと次々と拍手を鳴らし始め、さっきまでざわついていた教室は一転して、拍手の海へと変わった。


 『母さん、これで良かったかな……天国から見ていてくれたかな』と、拍手の海の中で僕は母さんの姿を思い浮かべ、僕は自分の生まれたこの町での別れの挨拶を終えた。


 放課後――教室に独り残っていた僕のもとに瑞季がやって来た。そして僕は父さんの仕事の事情で転校することや、母さんのことや、これまでのいろんな事情を瑞季に話した。


 「そっか、いろいろ……いろいろなことがあったんだね。 そっかぁ……」


 そう言うと瑞季はクスっと小さな声を出し、僕に笑顔を見せた。


 「蒼汰くんがあの場所でレインに逢ってた理由も、蒼汰くんとレインが似てる理由もなんだか分かったような気がする」


 僕もクスっと小さな声を出し、瑞季に笑顔を返す。


 「レインと僕は似てるけど、瑞季はまだ気付いていないことがきっとあるよ」


 瑞季は『なに?なにー?』と僕に問いただそうとするが、僕は笑って誤魔化して教室の外へ駆けだし、瑞季も僕のあとを追って教室から駆けだした。誰も居なくなった放課後の教室には西日が差し始めていた。


 僕はまだ、すべてを瑞季に伝えきれずにいた。



 あれから一週間が経ち、僕が東京へ向かう今日この町に梅雨明け宣言がされ、梅雨の晴れ間が続くと言っていたあの天気予報は、そのまま夏を迎えた。

 最後にもう一度あのバラックの廃屋に行こうと思っていたが、この一週間は引っ越し作業に追われてそれどころではなく、結局この街を立つ日があっという間にやって来て、あの場所に行くことはなかった。そしてレインにも、もう逢うことはなかった。


 『新幹線をご利用下さいまして、ありがとうございます。まもなく、12番線に12時27分発、東京行き のぞみ28号が到着致します。危険ですので白線の内側におさがり下さい』


 構内アナウンスが駅のホームに流れ、到着を知らせるベルがけたたましく鳴り響き、ホームに東京行きの新幹線が走り込んできた。車両のドアが一斉に開き、この町で過ごした半年間の出来事が頭の中に流れ込んで来るように駆け巡る。足を一歩前へ進めるたびに、この町の情景や町を潤す季節の匂いや雨の音、瑞季と見た世界が僕の頭の中を駆け巡る。

 再びホームにベルが鳴り響き僕の歩みを急かし、僕の足が最後の一歩を車両内に踏み入れた時だった、遠くから聞き慣れた声が僕の名前を叫ぶ声が聞こえた。


 「蒼汰く――ん!蒼汰くん!」


 瑞季! 瑞季だ! とそう気付いた時、僕と瑞季の世界を分断するように、無情にも車両のドアが閉まっていく。そして最後の最後で瑞季は僕が立っているドアの前に辿り着く。ゆっくりと走り出す車両を追いかけながら、瑞季は涙を流しながら叫んでいる。


 「蒼汰くん!ありがとう!私もレインもこの町も、この町にまた蒼汰くんが来るのをずっと待っているよ! ありがとう!」


 車両はぐんぐんスピードを上げ、僕と瑞季を遠ざけていく。瑞季、瑞季……僕は、まだ君に伝えていなかったことあったんだ。まだ君とあの町で、見て触れて感じたいことがたくさんあるんだ。どんどん離れていく瑞季の姿を見ながら、僕は瑞季の心に届くように何度も何度も、心の中でまた会えることを願った……


 見慣れたいつもの町並みが流れていく、僕を乗せた車両がふたりの距離を遠く遠くへと遠ざけていく。僕はもう聞こえるはずのなに瑞季の声を、何度も何度も心に刻んで行った。そして、車窓の景色が突然真っ暗になり、長い長いトンネルの闇の中で僕は涙を流し続けた。


 生まれた町へ移り住んで来て、また生まれた町から旅立っていく。自分の力ではどうにもならない現実に、僕はまだ何も出来ない子供なんだと、深く深く感じていた。長いトンネルを抜けた頃、空には白日の月が昇っていた。

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雨二ウタヱバ アラキレンズ @lens_araki

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