第93話 あだ名

「やっぱり、やめとこうよ」


 コーコが言う、少し震える声で。それを聞いてぼくらはやめるわけにはいかなくなる。コーコが怖がるところを見るチャンスなんて! 今を逃すとこの先50年経ってもないに違いない。コーコは典型的な“委員長”タイプで、委員と名の付くものなら片っ端からやっていたようなイメージがある。でもさっき飲みながら聞いたらコーコは図書委員しかやったことがないと判明して、同窓会の席は変な盛り上がり方をした。


「ありえねー! 図書委員だけなんてありえねー!」

 期待通りナガセがそう叫んだ。「ありえねー!」は高校時代からのナガセの口癖だった。ぼくだけでなく、クラスのほとんどが、「委員といえばコーコ」と思いこんでいたのだ。


 コーコは躾のいい家の育ちで、ルックスもまあまあいい方で、もちろん成績もいい。高嶺の花とまでは言わないにしても当時はちょっと手を出せない感じだった。けれども15年も経つと、こっちも面の皮が厚くなった分、こうして「夜の校舎に侵入」なんてイベントに誘ったりできるようになったわけだ。


 コーコなんて変な名前で呼ばれているが、それにしたってぼくらの屈折した心理が生んだ呼び名だった。本当は凉子というのを誰かが(告白するとぼくが)「量子」と書いて、「だったらクォークだ」なんて話になって、気がついたらコーコになっていた。要するにちょっとかっこ悪いあだ名を付けたかったんだ。でもかっこ悪くもしきれず、クォークなんか持ち出して、かといってかっこよくするわけもなく、こんなあだ名になった。本人が気に入っていたかどうか、当時は聞こうともしなかった。


 昼間見れば違うかも知れないが、夜の暗がりの中で見る校舎は在校時とあまり変わっていなかった。新しく増えた建物はなく、取り壊された建物もない。プールはいまなおプールだし、テニスコートもそのまわりの金網もそのまんま。ぼくらの在校中に派手な改修工事をやったせいか、新たに手を加えるところがなかったのか、15年分、ただ古びている。新しいような古いような中途半端な感じ。そこでぼくらは部室をめざす。ぼくらと言っても、ミツオとぼくとコーコの3人だけだ。今日、何だか話が弾んだ勢いでやってきた。3人ともまだ結婚していなくて、まだ帰りたくはない気分だった。


「ねえ、やめよう?」

 コーコが震える声をひそめて言う。それを聞くとぞくぞくしてくる。ぼくは振り向いて怯えるコーコの顔を見ようとするが、逆光で顔がよく見えない。ぼくはちょっと笑ってみせて足を速める。ミツオもコーコの少し後ろで、うん、とうなずく。


 部室を集めた学生会館と呼ばれる建物の半地下に、懐かしいその部屋はある。もっとも、これも今日聞いたところでは、その部室はミツオとぼくにとってはなじみの場所だが、コーコにとっては近寄りがたい場所だったらしい。そりゃそうだろう。みんなが嫌がる半地下の部屋をわざわざ選んで、総合芸術研究部というあやしいサークルをでっちあげ、「比較文化の資料」と称してプレイボーイやペントハウスを手始めに、肌の露出の高いアートな写真集・ビデオを積み上げていたのだ。女子の間では「あの部屋に入ったら何をされるかわからない」と噂されていたことは、ついさっき同窓会で確認した。


 建物の外階段を降りていくと、いきなり部室の外扉の前に出る。さすがに真っ暗で何も見えない。階段の途中でコーコが「やめとこうよ」と囁く。息が詰まったような苦しげな声で、本当にこわがっていることがわかる。実を言うとこわいのはぼくも同じだ。恐らくミツオも。でも同時におびえるコーコの声に興奮しているのも事実だ。もっとそんなコーコの様子を見ていたいという気分になっている。


 ミツオは、といっても本当は千田ナントカという別な名前なのだが、苗字が「せんだ」というだけの理由でミツオと呼ばれていた。呼ばれていたというか、告白するとこれもぼくのしわざだ。そのミツオはぼくの前でドアをがちゃがちゃやっていたが、やがて「開いた」と言ってドアを薄く開けた。奥の闇があふれ出してきたような感じがする。ほこりっぽいにおいがして、思わずくしゃみが出る。


「しいっ!」ミツオが言う。

「使ってないのかな」ぼくの肩口でコーコが囁く。

「確かに」ぼくは答える。「こんなカタコンベ使うようなのはもういないのかもな」

「カタコンベ?」コーコがなぜかきっとした調子で聞き返す。

「ハヤトがつけた名前だよ」ミツオが説明する。「この部室、地下墓地みたいだって」

「やだ……」


 ミツオは振り向くとぼくに言う。

「ハヤト、先に入れよ」

「なんだこわいのかよ」

「そっちこそ」ミツオが含み笑いをする。「さっきから全部おれにばっかり前に行かせて」

「はいはい」ぼくは先に進み、ドアを開き、中に入る。本当に真っ暗で自分の手さえ見えない。「ほら、これで」


 その瞬間ドアが閉まる。完全な暗闇の中にとじ込められる。冗談かと思って外から笑い声が起こるのを待つ。けれどしんと静まり返って何の気配もない。

「冗談やめろよ」ぼくはドアノブに手を伸ばすが見つからない。ドアノブがない。「おい。おい! 冗談やめろよ!」

「ハヤト」ドア越しにミツオの落ち着いた声がする。「ノリコのこと覚えてるか」

「誰?」ぼくは答える。誰だノリコって。「それより開けろよ」

「ノリオだよ」

「ああ。ノリオ」

 思い出した。ミツオの彼女だ。彼女だった。ノリオというのもぼくがつけたあだ名だ。

「その部屋で死んだんだ」

「おいふざけんなよ」ぼくは怒鳴った。背後から闇がぼくにまとわりついてくる。声が裏返った。「何のまねだよミツオ」

「おれはミツオじゃない」

「え!」

「あだ名ってさ、ヤな奴にはほんとヤなんだよ」ミツオが言う。「おれの名前を言ってみろよ」

「あけてくれ」ドアを叩く。どうしてドアノブがないんだ?「あけてくれ!」

 二人の名前を呼びたいのに思い出せない。

「自殺があってから閉鎖されてもう誰も近寄らないらしい」

「やめろよ」泣き声になってきたけれどもうどうすることもできない。「やめてくれよ」

「だからやめようって言ったのに」コーコの声がする。違う。コーコじゃない。ええと。「ここまですることないのに」

「いや、お似合いだよ。聞こえるかハヤト」ミツオの、ミツオではない男の声がする。「覚えてるだろ自分でここに何て名前をつけたか」


(「カタコンベ」ordered by はかせ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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