第92話 薬店(くすりだな)

 引き戸を引いて店に入ったときから様子は変だった。由緒ありげな日本家屋のほの暗い空間に踏み入れると、しかしそこには商品も何もなく、ただがらんとした中に勘定場というのだろうか、ちょっとした座卓があって、上品そうな和服の女性が座っている。年の頃は60前後くらいで、柔和な微笑みを浮かべて丁寧に頭を下げる。


「ようおこしやす」

「あ。どうも」

「お客さんどちらから」

 どちらから?

「あ。東京から、です、けど。はい」

 東京にいるのに東京からという返事も妙なものだ。

「どこかお悪いところでもありはるんですか」

「はあ。あの」これは京都弁なのだろうか。少し妙な気もする。「わたしではなく、母が」

「あらまあお母はんが、そりゃまあえろう心配どっしゃろなあ」

 芸者言葉か? 何なんだこの店は。

「あの、漢方のいい薬があると聞いて」

「わたしどものでよろしければ、そりゃあもうお手伝いさせてもらいますけど」

「目なんですけどね。かすむって言うんですよ。でも医者に行っても特に問題ないって言われるし」

「あら。かすみ目やったら、お客さん、ちょうどええのがありますわいな」

 ありますわいな? ここは東京だよな。

「効くんですか」

「はいほんに、みなさん喜んでお求めにならはります」

「それはいいですねえ」他の客も喜んで買うというならものは確かだろう。「そのお薬の名前は何て言うんでしょうか」

「『安本丹』言いますんえ」

 アンポンタンと聞こえた。

「アンポンタン、ですか」

「はあ。『安本丹』どす」

「それは何というか」

「はあ、やさしゅうて、はんなりした響きの言葉どっしゃろ?」

「え? あ。ああ。まあ。そんな感じもあるにはある、というか」

「かすみ目にも坐骨神経痛にも凍傷にも耳鳴りにも鬱病にもEDにも」


「あっかんあかん!」突然奥から柄の悪い中年男が飛び出してきた。「そんなんやったらあかんで。あかんねんて。せやからアンポンタン!っちゅうんや!」

 ひるんで立ちつくすわたしにぎらぎらした目を向け、低くよく響く声で男は言う。

「えらいすんまへんなあ、お客さん」

 短く刈り込んだ髪。開襟シャツ。そしてわたしの目に間違いがなければこれは1970年代末期に咲いた時代のあだ花、省エネルックのスーツ姿。夏場でも驚いただろうが、ましてやいまは厳寒の季節だ。店の中だってさして暖房が効いているわけではない。言わせてもらえば外より寒いくらいだ。いったいどうなっているのだ。

「とんだ不手際ですんまへんなあ」

「いえ。別に。何も」

「婆さんには店番を頼んでるだけやのにほんま勝手にお客さんの相手さらしよってからにこの糞ばばあが。何や失礼なこったら言わしまへんでっしゃろか。あれお客さんどちらから?」

 どちらからはお前らだろうが。

「東京ですが」

「はあそらもう大変なところから」男は心ここにあらずという風に呟くと続けた。「ほんで、どこがお悪いんでっしゃろな」

「いえわたしではなく母が」

 老婦人が口を開いた。

「かすみ目にも坐骨神経痛にも凍傷にも……」

「だまりくさらんかいこのアンポンタンのぼけ茄子唐変木が! おめこから腕突っ込んで指人形にしてポルシカポーレ踊らせたろかワレ!」

 どうやってこの店を出るか、それだけに集中しよう。

「あの、今日はもう」

「あ。お客さん、茶ァも出さんと、すんまへんなあ」これが猫なで声というものだ、と解説を付けたくなるような声で男が言う。「そうでっかそうでっかご家族が。そりゃ心配でっしゃろなあ」

「いえもうあの」後ずさりしながら出口に近づく。「本当に今日はもう」


 その途端がらがらと引き戸が開いて、かくしゃくとした老人が現れ大音声で呼ばわる。

「何を騒いでおるか!」鼓膜が破れそうだ。「おおこれはこれは客人がおられるというのに、いたずらな大声を出してしまった。堪忍してつかあさい」

 つかあさい? つかあさいと言ったのか、この老人は。

「うん。その人には『安本丹』がよい。間違いない。お客さんにも効くな。いい加減なことを言っとるんじゃない。お客さん、いびきがひどいじゃろう」

 当たっている。確かにいびきに悩んでいる。ということはこの老人はちゃんと見立てられるのだろうか。

「睡眠時無呼吸症候群!」老人が吼える。「『安本丹』は首から上の神経症状にことのほかよくききますわい」

 わかった。とにかく少し買おう。そうすれば店から出られる。


「あいや待たれい! しばらく! しばらく!」

 奥の方から、飛び六方を踏みながらざんばら髪を振り乱した赤面(あかづら)の大男が飛び出してくる。


     *     *     *


「マスター、お客さん、起きませんね」

「ネーミングがよくなかったかな」

「っていうか、よくわからないのに漢方薬なんか入れるから」

「封印だな、このカクテルは」


(「安本丹」ordered by izumi-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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