第88話 谷間の老人(なぞなぞ2)

 谷間にその人は住んでいて、行けばいつでも受け入れてくれる。ただしいつもその谷間にたどり着けるとは限らない。同じ場所にあるはずなのに、どうしても見つからないことがある。だから時として糸電話に頼ることになる。糸電話はその人とぼくを結ぶ生命線だ。これなくしてはぼくは何も書き進められない。ここのところどうしても谷間に近寄ることができず、だからぼくは糸電話をはじいた。


「何を持っている?」

 糸電話越しにもこちらが見えているようなことを言う。

「いただいた手紙です」

「知らんな」

「詩のようなものが書き記されています」

「そこにはなんと書いてある?」

「『いにしえより知られた名器』。どういうことでしょう」

「想像してごらん」

「想像を。

 怒りでもなく悲しみでもなく、

 とらえどころなくつのるやるせない想いを封じ込め、

 その想いを宝石に変えてしまうという言い伝えで、

 古くから知られた器」

「何でできている?」

「恐らくガラス製」


 糸電話の向こうでふうっと息をつくのが聞こえる。

「悪くない。次には何と書いてある?」

「『潔く心固め、粋』」

「想像を」

「ともするとちりぢりばらばらになりそうな想いを

 一見何の変哲もないガラス器の内にとじ込め、

 深く哀しく光を放つ石に、あるいは意志に、

 固めてしまう潔さをよしとしようというところ?」

「それをもって粋と呼ぶのだな、その続きは」

「『まだ見もせぬ君のため生き』とは、

 会ったことはない運命の人のために生きる、

 ということでしょうか。

 想いを固めた意志の宝石を胸に、

 いつか会うと定められた人のために」


 悪くない、悪くないと呟く声が聞こえる。

「まだあるのか。ならば聞かせてくれ」

「『されば誓いのかた明記』」

「どういうことだ。想像してみろ」

「その誓いを、運命の人との出会いを胸に

 これから生きるのだという誓いを書きつける。

 いわば運命に向けての誓約書をつくり、

 いよいよ覚悟を固めるわけです」

「それから」

「『我知らず重ねるため息』。

 ああ。でもどうしてもやるせない想いにため息がもれる。

 そのため息をこの器に集めるんですね。

 古代戦士の妻が涙を溜めたという涙壺のように。

 するとそこに宝石が生まれる。

 ついたため息の数だけきらきらと光る意志となる」


 ふたたび糸電話越しにふうっとため息をつくのが聞こえた気がする。

「なかなか悪くなかった。しかしそれはなぞなぞだよ」

「なんですって?」

「最後の1行が答だ」

「どういうことでしょう」

「もう一度、声に出して読んでみろ。

  いにしえより知られた名器

  潔く心固め、粋

  まだ見もせぬ君のため生き

  されば誓いのかた明記

 どうだ。知らず知らず“ためいき”を重ねているだろう? それで

  我知らず重ねるため息

 と来るわけだ。どうだ楽しかったか」

「いったいどういうおつもりです」

「書きあぐねたのであろう。いまお前が想像したその話を書けばいい」


 というわけで、この作品は谷間の老人の導きで書かれた。しゃくなのでこのいきさつを全部まとめることにする。ふうっ。


(「ため息」ordered by えりちゃん-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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