第87話 不明な意図

 森の中を抜けて家路を急いだ。もうそろそろ日が沈むし、そうすると森の道は真っ暗になってしまう。うっかり道を間違えると遭難する可能性だってある。何年か前、町で酔っぱらって、真夜中ふらふらとひとりで森に入り込み、あろうことか3日3晩出て来られなかったこともある。あんな目に会うのはごめんだ。


 しかも、早くかみさんに伝えてやりたいこともある。500万円は固いだろうというのが知り合いの弁護士の見立てだった。「それというのもね、わたしが紹介したドクターがよく心得ているからなんですよ」弁護士はやや恩着せがましくそういった。「どんなにたくさん言葉を費やしていても、必要なことが書かれていなければ一銭にもならない。でも極めて簡潔に書かれていても、ありありと状況が想起せられ、しかもその拠ってきたる責任の所在が明々白々浮かび上がるように書かれていればあなた、勝ったも同然なのです。わたしが紹介したドクターはそのあたり、よーく心得ているんです」


 事故に合ってから仕事にもケチが付くし、治療費やなんやで物いりだし、時間も割かれるし、文字通り首が回らないし、先週くらいまでは歩き回ることさえできなかった。身体を使う仕事だから、この時期、働けないのは深刻な話だったのだ。でもこれさえあれば、弁護士のお抱えらしいあのドクターに書いてもらったこの1枚の紙切れさえあれば。


 その瞬間、突風が吹いて、その紙切れを吹き飛ばした。


 まるで手元からもぎ取られたような感じだ。あっと言う間もなく木立の中をすさまじい勢いで飛び去っていく。「待て!」風にさらわれたのだ。声をかけても仕方がないのはわかっている。わかってはいるが、とっさに口をついて出る。「待て! 待てまて待て!」あわてて後を追う。もう少し、もう少し、と思っているところで不意に湖に突き当たる。思わずひるんだその瞬間、紙片は水面に落ち、みるみる波間に飲まれてしまった。


「ああ!」自分でもビックリするような大声を出してしまった。「ああ、なんてことだ!」


 それを待っていたかのようなタイミングで、紙が消えたあたりの湖面が激しく波立ち始め、やがてぐわっと盛り上がったかと思うと、体格のいい人が姿を現した。女性のようにも見えるがそうではないようにも見える。長い髪のようなものがべったりと顔に張り付いていてよくわからないのだ。着ているものもずぶぬれで身体に張り付いていて、どういう服かよくわからないし、おまけにぴったり服が張り付いたボディラインが、ずんぐりとしていてどちらかというとごついおっさん風にも見えるのだ。


 その人物が──人物なのかどうかすら定かでないが──口を開く。この季節だ。びしょ濡れで風に吹かれて寒いらしく、歯ががちがち当たっていて、しゃべっている内容がよく聞き取れない。

「えっ、何ですか?」聞き返すこと2回でようやく聞き取ることができた。

「おまえの落とした診断書は1000万円取れる診断書か? 10万円取れる診断書か?」


 む。これは金の斧と銀の斧の話だ。でも、あれ?1000万と10万というのはおかしくないか?


「すみません。金の診断書と銀の診断書とかで聞いて貰えませんかね」

「ばかもの。そんな、みんながオチを知っている質問じゃ意味がないだろう」

「あっ、そうですか」湖の精も創意工夫をしているのか。「じゃあせめて2000万円取れる診断書と1000万円取れる診断書とか言ってもらえると」

「おおばかもの。ノータリン。腐れペニス」湖の精にしては口が悪い。「それでは金の斧と銀の斧と同じパターンになってしまうだろうが」


 しばらく考えていたら急に思いついた。やっぱり金の斧と銀の斧方式でいける。


「どちらでもありません。わたしが落としたのは500万円取れる診断書です」

 欲をぶっこかなくてよかった。さあこれで返してくれるだろう。

「すかたん、ひょうろくだま。尻の穴いじり」尻の穴いじり? なんだそれは。「1000万円と10万円のどちらかと聞いているではないか。どちらでもないと言うなら」


 湖の精のまわりがごぼごぼ泡立ち始めて、湖の精が沈み始めた。


「待って待ってそれがないと本当に困るんだ」こんな変なやつに頭を下げるのは癪だが、背に腹は代えられない。「頼む。頼みます。おれが落とした奴を返してもらいさえすればそれでいいんだ」

 太股のあたりまで沈んだ状態で動きが止まり、湖の精が言った。

「では再び聞く。お前の落としたのは1000万円取れる診断書か、10万円取れる診断書か」

「ええと。10万円じゃどうにもならんから1000万円!」


 その途端、あたりがまばゆいばかりの光に包まれて、なんだか感動的な音楽が流れ始めた。湖の精は水面の少し上を滑るように進んできた。正直、にせもんじゃないか、あの弁護士がコスプレをやっているんじゃなかろうかと疑い始めていたところだったので、この音と光と湖の精の動きにはすごくびっくりした。


「正解だ。500万円ではない。1000万円しっかと取るのだぞ」と言って診断書を渡してくれた。「患者がいなくてもその症状が手に取るようによくわかる。よく書けている。いい診断書だぞ、これは。二度となくすな」


 あわあわしながらお礼を言おうとしたが、診断書を受け取って目を上げるともう何も見えなくなっていて、そこにはただ静かな湖面が広がっているばかりだった。何だったんだ? なんで湖の精が診断書の診断をするんだ? ちょっと湿って重くなった(500万円分重くなった)診断書をもって家路を急いだ。


(「診断書」ordered by 元祖いまじん-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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