第83話 非現実的生活者

 まだ何とかなる、まだ何とかなると自分に言い聞かせながら、泥沼に踏み込み続け、まだ何とかなると思うから、何とかなりさえすれば大丈夫だからと自分に言い聞かせ、借金を重ね、友人の好意にすがり、そのうち明らかな不正行為にも手を染め始め、気がついたら言い逃れようのない背信行為に踏み込んでしまっていた。そしてもうどうにもならないことがわかった時には何もかも失っていた。会社も家族も友人も何もかも。ゼロからのスタート? そんなものではない。ゼロならまだいい。マイナスだ。取り返しのつかないマイナスだ。そこにはおれの人生が遺した大きな負の資産がそびえたっていた。いったん傷つけ失ってしまった信頼関係はたやすく取り返せるものではない。もう誰も自分を信用してくれなくなっていた。何とかしようと思ってもそれを支える人がいなければどうにもならない。誰も自分を信用してくれない。それがとどめだった。


 羽振りのいい時期に、「近年、自殺者の数が増えている」という話を聞いたときには「命を粗末にする文化だからだ」と社会をあざ笑い、子どもには「ゲームでは何度死んでもいくらでも生き返らせることができるが、本当の世界では一度死んだらもう生き返らないんだぞ。現実の世界にリセットなんてないんだ。現実とゲームは違うんだ」と言い聞かせたものだ。でもいまはわかる。おれがいま生き続けているのはただ意気地がないからだ。死んだ方がましだと思っているのに、死ぬなんて怖くてできない。生き延びているのは、ただ死にたくないからだ。サラ金の男たちにつかまり殺されかけたときに味わった恐怖はそれほどにも大きなものだった。意識がなくなるまで殴られ、肋骨を順番に折られ、縛り上げられ、橋から川に叩き込まれ、エスカレートする一方の暴力におれは耐えきれず

悲鳴を上げ続け、幾たびも意識を失った。痛みから逃れるためなら死んだ方がましだと何度も思ったが、その都度死ぬことの方がもっと怖かった。それはもう説明できないほどの恐ろしさだった。


 いまは気候もいいし、屋外で寝起きしても不自由はない。このあたりは川の水もきれいだし、きれいどころか飲めばうまいし、畑の脇に無人の野菜の即売所があるので、飢えて死ぬ恐れはない。清潔にさえしていれば図書館に出入りして山菜やきのこなど山の中で食べられるものを研究することだってできる。当初コンビニエンスストアの賞味期限切れの弁当をあてにしていたのだが、意外にもこれはなかなか手に入れるチャンスがないことがわかった。思ったよりもきちんと管理されていて、こっそり持ち去る機会がなかったのだ。そして実際に1つ手に入れて食べたときには、こんなに味の濃いものだったかと仰天した。それほど味のないものばかり食べ続けていたということだ。味つけしていない野菜や、小さな生き物の肉や、木の実や山菜などを食べ続けた結果、おれの舌はずいぶん繊細になったらしい。いまなら豆腐や水を食べ比べたり飲み比べたりして、味の違いを当ててみせる自信がある。


 最初のうちは煙草を吸えなくなったのが非常につらかった。自販機は頑丈だし、店からくすねるわけにもいかない。シケモクを探しても見当たらない。煙草を吸う人が減ったのか、やたら掃除好きな町なのか。いったん煙草が吸いたくなるともう、吸いたくて吸いたくて気がおかしくなりそうだった。しまいには手足が痺れてきて吐き気がしてきた。煙草が体に悪いのではなく、煙草をやめることの方が体に悪いんじゃないかとさえ思った。それがおかしなもので一ヶ月を過ぎるあたりから急に気にならなくなり始め、逆に体調も良くなってきた。その頃から生き延びることについて考えるのが少しずつ面白くなってきた。ホームレスをやるのは、都市でならそんなに難しくなさそうだったが、おれは極力人と顔を合わせたくなかったので都市を離れ、里に近い山の中に拠点を求めた。でも、いつまでも里から泥棒を続けていてはいずれ狩り出されつかまってしまうだろうから、嘘でもいいから共存する道を探し始めた。


 もっとも金はないので、代金は払えない。そこで野菜の即売所には都会で集めたポケットティッシュや無料配布のボールペンなどを置いた。もちろんそんなもので納得して貰えるとも思えないが、何か置いていきたいという姿勢だけは示したかったのだ。何度も通ううちに即売所の看板と野菜のディスプレイを変えた方がいいことに気づき、手直しした。都市部から来たドライバーが足を止めやすく買いやすくしてみたのだ。目を引くように看板の向きを調整し(それまでは即売所の正面に立つ人にしか見えない向きになっていた)、車を止めてから品定めして購入するまでの流れを直感的にわかりやすくしてみたのだ。ここでの売上がよくなり持ち込む農家が増えれば、それだけおれにもいいものが回ってくる。手前勝手は承知だが、これもひとつの共存の方法だ。


 即売所だけではない。山の中をさまようとハイキング客が残したゴミをいろいろ見つけることになる。缶類はある程度まとめて量を集めてから、役所が試験的に設置した回収ポストにいれると小銭になることがわかった。それからふと思いついて、ハイキングコースの奥の方に、私設のゴミ回収所を設けた。野菜の即売所のノリで、ゴミ回収所の看板をつくり、心ある人は100円入れてくださいと書いて、募金箱も置いた。週末ごとに数百円程度だが回収できるようになった。もちろん勝手にやっていることなのでいずれ見つかれば取り壊されるだろうが、少しでも長い時間お目こぼしして貰うため、子どもたちがやっているかのような稚拙さを演出してみた。また、集まったゴミはキチンと分別してゴミ回収車のルートに置くようにした。要するにゴミ回収所がこの土地にとって必要とされるように工夫したのだ。


 もうすぐ山にも桜が咲く。季節はこれからどんどん良くなって行く。食べものだって山の中で調達できるものがどんどん増える。夏と秋は何とかなるだろう。その先のことは考えられない。とにかく死なないこと。殺されないこと。生き延びる工夫に専念すること。それだけを考えて毎日を過ごしている。失った家族や友人のことを思い悲しみに暮れる日もあるが、昔の生活に戻りたいかと言われると正直よくわからない。会社を経営して、うまいレストランをしらみつぶしにして、金目当てにたかる女たちと遊び歩いていた日々は、まるで毒々しい幻想、どこか別世界の架空のできごとだったような気さえする。


 もしいつか子どもに何かを伝える機会があるとすれば、生きたままでもリセットはできる、だからつらくても死ぬなと教えてやりたい。


(「リセット」ordered by ピコピコ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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