第82話 第一夜
寝言を言い始めたようだと聞いて病院に駆けつけた。
それが土曜日の朝だった。涼太はいつもと変わらずベッドですやすやと眠っている。先生に話を聞こうとするがなかなか病室に姿を現わさない。かといって寝言を聞き逃したくないのでベッドのそばから離れることもできない。仕方がないのでナースコールのボタンを押した。
ひどく慌てた様子でいつもよりずっと早くナースが駆けつけてきた。
「涼太君? 涼太君なの?」
ナースの慌てぶりを聞いて、ナースコールを押したのが涼太本人だと思って飛んできたことがわかった。病院のスタッフもまた、そろそろ涼太が目覚めるのではないかと思っているということだ。若いナースはわたしの姿を見て一瞬「なんだ」と、がっかりした顔つきをして、それからあわてて「お父さんでしたか。わたしてっきり」と言った。
聞けばまさにそのナースが最初に寝言を聞いた本人だという。
「寝言というのは? どんな感じなんですか?」
「そうですね。誰かと話をしているような感じで」
「誰かと話をしている?」わたしは聞き返した。「言葉になっているんですか?」
「え?」それがどうかしたのかという調子でナースは答える。新人風でいちいち思っていることが顔に出る人だ。「はい。はっきり。何を話しているのか聞き取れるほどに」
「まさか」信じられない話だ。「何と言っていたか覚えていますか?」
「ええ?」厭なことでも聞かされたように眉根に縦じわをつくりナースが言う。「いや、そこまでは」
このナースは事情がわかっていない。
涼太はいま15歳で、こんなに健康そうだし、寝顔はすっきりしているし、呼吸もすやすやと落ち着いているので、初めて見た人は彼が起きることができないと言うのをなかなか信用してくれない。病院のスタッフが髪の毛も爪もきちんと整えてくれるし、小さな頃から妻とわたしで全身を丁寧に清拭してきたし、パジャマも常に新しく清潔なものをそろえているので、少しやせすぎなことを除けばとても病人には見えないのだ。
でも現実には涼太は言葉を覚える年齢以前に昏睡状態に陥り、いまに至っている。だから涼太がはっきりとした言葉をしゃべるなんて信じがたい話なのだ。もし仮に何かを話したのだとすると、その言葉は何があっても覚えていなくてはならない。記録する必要があるのだ。そういうことをこのナースはわかっていない。わたしの様子に何かを感じ取ったらしくナースが言った。
「あの。何かまずかったでしょうか?」
何かまずかったでしょうか、だって? 口のききかたも知らないのか、このナースは。わけのわからない怒りを覚えつつ、この何も知らない女の子に当たり散らしても仕方がない、と、わたしは口をつぐむ。その様子を見て、若いナースは尻込みするように「用事がなければわたしは」と言うのでうなずいた。そばにいられるだけでどんどん腹立たしさがつのるところだったのでちょうどよかった。
* * *
無理を言ってその晩はベッドの脇で付き添わせて貰うことにした。規則上は面会者は遅くとも夜の10時には帰らなくてはならないのだが、その日は「寝言を聞きたい」とねばったのだ。さすがに入院当時から涼太を知っているスタッフはことの異常さに驚き、当直医などは「もし喋ったらすぐにわたしにも声をかけてください」とまで言ってくれた。
「あの人は悪い人じゃないよ」
澄んだ声でさとされ、わたしは目を覚ました。読んでいた文庫本が足元に落ちていた。
「あの人? 誰のことですか?」
あわてて文庫本を拾いながら、よだれとか流していないか口元をなでてわたしは聞き返す。
「美奈子さん、ほら昼間ナースコールで来た人」
「ああ。別に悪い人だなんて思ってませんよ」
「でも怒っていたじゃない」
「どうして」そんなことを知っているのだ、と続けようとして初めて気がついた。涼太がしゃべっているのだ。「涼太か」
「はい、おとうさん」目の前の涼太は相変わらずすやすやと眠っているように見えるが、眼球がいつもより意思を持った感じで動き、そして口を開いてしっかりしゃべるのだ。「ぼく涼太、です」
敬語をつけたのがおかしかったのか、涼太の口から笑いが飛び出す。
「涼太」
「はい」
涼太がしゃべっている。寝言なんかじゃない。わたしはいま涼太と話しているのだ。もっとしゃべろうと思ったが、自分でも訳がわからなくなって何も喋れなくなってしまった。
「おとうさん」涼太が言う。「泣かないで。おとうさん」
そしてその次の晩、涼太は驚くような話を聞かせてくれ、話はまったく違った方向に進むのだが、それでも涼太と初めて話した夜のことをわたしは忘れることはない。もしもこの世に奇跡というものがあるとすれば、それはあの夜だ。そう、わたしは思う。
(「寝言」ordered by inzaghi-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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