第78話 Paradise Lost

「嬉しい!」

というのが彼女の口癖だった。


 空が良く晴れていても「嬉しい!」。休講で時間があいても「嬉しい!」。誰かがカフェテラスで水を運んできてくれても「嬉しい!」。そのあたりは、まあわかる。


 ちょっとそこは違うんじゃないかというところにも「嬉しい!」と彼女は言う。たとえば駅から大学までの短い道のりでばったり出会う。そして「嬉しい!」とか言う。「おはよう」より先に「嬉しい!」と言うのだ。弁解するわけじゃないがそんなことを言われたら誤解するなという方が無理ってものだ。いままでの人生で、ただ道ばたで会っただけで嬉しがってくれる人なんていなかったわけだから。


 おれが彼女のことをどんどん気になるようになっていったのは、つまり、だから、自然な成り行きだったわけだ。でも彼女は何もおれひとりに「嬉しい!」と言っていたわけではない。なにしろそれは彼女の口癖だったのだから。というわけでクラスでもサークルでも彼女のまわりにいたもてない男たちがみんな一斉に彼女に夢中になったのは、何というか、蟻の巣の近くに砂糖の山をつくったようなもので、これはもう「そうなるしかないっしょう!」という流れだった。


 おれはその有象無象と一緒になりたくないので、距離をおくことにしていた。別にカッコつけるわけじゃないが、小さいころから群れるのはキライなのだ。そのおかげでみんなが楽しい思いをしているような場面でひとり参加しそこねてずいぶん損をしてきたが、まあそれが性格だから仕方がない。何でもだいたいブームが過ぎてからようやく手を出している。旬に乗り遅れる男なのだ。


 でもそうやって群れから距離を置こうとすると、彼女が全然違うやつに向かって放つ「嬉しい!」を離れたところから聞いてしまうことになる。で、「おれの『嬉しい!』をあんなやつに!」とか思うわけだ。「『嬉しい!』をそんな風に安売りしちゃイカン!」とかね。まあ本当は、別におれの「嬉しい!」じゃないんだけど、もうそういうことはわからなくなっているんだな。


 誰かが部室に差し入れを持ってくる。彼女が「嬉しい!」と言う。偶然誕生日が同じやつがいる。彼女が「嬉しい!」と言う。たまたま田舎が彼女と同じ山口県組が3人もいる。彼女が「嬉しい! 嬉しい! 嬉しい!」と言う。そこにはおれの出番はない。おれは彼女の「嬉しい!」の外にいる。指を食わえてただ見ている状態だ。みっともないことこのうえない。自己嫌悪に陥る。そういうのがイヤで、おれはだんだんつき合いが悪い奴になっていった。


 ところがある時、気づいてしまうんだな。この男の子受けのいい「嬉しい!」は、同性である女性陣からは白い目で見られているということに。おれが少し距離をおいているのをどう誤解したのか、サークルの女子たちがおれのところに「あの子、勘違いしてるよねー」と相談しに来たので発覚したのだ。いわく「可愛い子ぶってる」。いわく「媚びてる」。いわく「計算してる」。そういう視点で見れば確かにまあそう見えなくはない。特に人気を独占されてつまらない思いをしている女子たちからすれば。


 つくづくあの時、彼女に余計なことを言わないでよかったと思う。あのできごとがなかったら、おれは彼女に向かって善意の忠告のフリをして「その『嬉しい!』っていうの、ちょっと控えた方がいいと思うよ」とか、いやったらしいアドバイスなんかをしちゃったりしていたと思うのだ。それはもう紙一重だったと思うのだ。でも実際にはものごとはもっと奇妙な方向に動いた。彼女の信奉者である男たち自身が彼女を沈黙させてしまったのだ。


 ことの成り行きはこんな感じだった。まず彼らは「あの『嬉しい!』っていうのがいいんだよね」と遅まきながら話題にし始めた。いまごろになって気づいたのか。愚か者どもめ。おれなんか会ってすぐに日記に書いたっていうのに。なんて鈍い奴らだ! おれは内心バカにした。やがて取り巻き連中の間に「ああいう風に感じよく話せるといいよな」という合意が形成され、突如ワンフレーズ・コミュニケーションのブームが訪れたのだ。


 「嬉しい!」をそのままマネするのはさすがに気が引けたらしく、めいめいがいろんな工夫をして一言フレーズを開発した。「サンキュッ!」というやつがいるかと思えば、「なるほどなるほど」というやつがいる。「すごいね」というやつもいれば「ありがたい!」なんてやつもいる。「喜んで!」と居酒屋の店員みたいなことを口走るやつまで出て来る。それが彼女を取り巻く集団からぽんぽん飛び出すようになったのだ。これはドタバタ劇的情景である。


 彼女自身がそれをどう感じていたのか、「嬉しい!」と思っていたのか、不快に思っていたのか、そのあたりの事情はわからない。でも結論から言うと、この状況が彼女の口癖を封じこめる働きをした。だってその状況は客観的に見て、パロディでネタ元を愚弄している以外の何物でもなかったから。やがて彼女の口から「嬉しい!」と聞くことはだんだん減ってやがてすっかり身をひそめてしまい、それと同時に憑き物が落ちたように、群れていた男たちは離れていった。


 もう駅から大学までの道のりでばったり会っても彼女が「嬉しい!」と言うことはない。ちょっと微笑んで、そういうときに何を言ったらいいのかわからず口ごもる。とても内気で自信のない女の子になってしまった。あんなに嫌っていた女子軍団は彼女を受け入れて仲良さそうに見える。ものごとは収まるべきところに収まった。そう、言えなくもない。でもおれは不満なんだな。おれとしてはもう一度「嬉しい!」を聞きたいんだな。だから「嬉しい!」というしかない本当に嬉しいことを彼女にしてやりたいと思うんだ。なにしろおれは旬に乗り遅れる男なのだから。


(「嬉しい!」ordered by 花おり-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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