第75話 ピアノフォルテ

 お日様がいっぱいに降り注ぐ。もうすぐお昼どき。いつも思い出すのは休みの日の朝の情景。おとうさんはゴルフに出かけて、おかあさんはお買い物。勉強してなさいと言われてわたしたち姉妹は机に向かう。でもわたしには学校の宿題もそんなにないのですぐにやることがなくなってしまう。「勉強の邪魔しちゃダメ!」姉の邪魔をすると母にひどく怒られるので、しばらく学校の図書室で借りてきた本を読む。


 5歳年の離れた姉は受験が近いこともあり、わたしとは遊ぶことも少なくなっていた。けれどそんな休日の朝、わたしが本も読み終えすることがなくなり、落書き用紙と色鉛筆を前にぼんやりしていると、「ピアノ弾こうか」と声をかけてくれた。ピアノの練習をしている分には母も「勉強の邪魔をしちゃダメ!」と怒らない。だからそうしてくれたのだということは後に気がつく。でも当時のわたしにはわからなかった。


 お日様がいっぱい差し込む居間で、わたしたちは並んでピアノを弾く。わたしたちが弾く音楽が浮き浮きと庭先まではねまわり、お日様の中できらきらの粒になって光る。姉は口元に笑みを浮かべわたしを見、わたしが懸命に追いかけるのに合わせてくれる。ひとりで練習する時はさっさと切り上げてしまうのに、ふたりで弾くピアノはいつまでだって続けていたかった。


 70年も昔のある休みの朝をどうしてこんなにくっきりと覚えていられるのだろう? 昨日誰に会ったか思い出すのに苦労し、さっき朝ごはんを食べたかすら自信がないのに。何があったわけでないその朝の情景をわたしはくっきりと覚えている。いまここにいる姉は年とともにすっかり頑固で疑り深く意地悪くなり、まるで別人のようだ。いつもわたしが何かを盗んだのではないかと目を光らせているので息が詰まる。


 ホームのサロンにピアノが入ったというので、姉の車椅子を押してサロンに向かう。趣味でピアノを弾き続けたわたしと違ってプロのピアニストをめざした姉は、方々のコンクールでたくさんの賞を獲得したものの、結局それだけで食べていくことはできなかった。そしてある時期から一切ピアノに触ることがなくなってしまった。交通事故を起こして車椅子の生活になったのはその直後だった。


 その後は、わたしが時折ピアノを弾いているのを見ると激しく音を立ててドアを閉めたり、急に用事を思いついてわたしに言いつけたりした。ピアノを憎み、無邪気にピアノを弾き続けるわたしを憎悪しているかのようだった。そのようにして、わたしたちの生活からピアノがなくなって長い年月が過ぎた。だから本当は、その朝ピアノの前に連れていくべきかどうかも迷った。


 けれどピアノを目にすると姉の顔つきが変わり、目に光が宿った。

「弾いてみますか?」

 わたしが尋ねると、姉はうんうんとうなずいた。ピアノの椅子をどけ、車椅子をいい位置に調節してとめる。姉がピアノを鳴らす。こんなにも長い歳月触れていなかったのに、まるでついさっきまで練習していたように滑らかに音楽が流れ始める。思いがけない力強さで姉はピアノを弾きこなす。サロンの人たちが何人かまわりに集まってくる。


 ひとしきり弾くと、姉は振り向き、あっけにとられているわたしに言う。

「ピアノ弾こうか」

 うん、と言ってわたしは椅子を引き寄せ2人で連弾する。サロンの人たちはみんな興奮気味に集まってきて音楽に身を委ねる。時に激しく時に優しく、ピアノの音がサロンを満たし、庭先にこぼれだし日の光の中ではじけて踊る。


「お姉ちゃん」とわたしが言う。

「なあに?」と姉が答える。口元にはあのころのままの笑みが浮かんでいる。


(「お姉ちゃん」ordered by inzaghi-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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