第74話 ●●●(伏せ字)
いい本を手に入れたと興奮した調子で記された手紙が届いた。雪でも降りそうな、雲の低い底冷えのする日だった。足を踏みかえながら玄関で呼ばわっていると、奥の方から喜色満面でキミタケが出てきた。家の中だというのにコートを着ている。この屋敷はやたらめっぽう広くて、暖房がまったく利かないのだ。
「おお来たかタツヒコ。お前はこういうの、見逃さないもんな」
「馬鹿め。あんなに興奮で字の踊った手紙が届いたからお前の身が心配で見に来たんだ」
「冗談抜かせ」
キミタケの書斎に案内されると、火鉢が出ていてその傍らに古い版画本がある。
「あれか」
「まあ座れ」
「何だ、いい本って」
「春画だ」
「そんなにいいのか」
「まだ何も言っていない」
「あの手紙を読んだらわかるさ。早く見せろ」
「まあ、そう急ぐな」
キミタケの説明によると、ものは江戸時代中期、四国の素封家の趣味でつくられた一冊らしい。絵師が誰かは明記されていないが、恐らくこのあたりというくらいの見当はつくらしい。名前を聞いたがおれは聞いたことがなかった。素封家の屋敷が取り壊されることになって蔵を整理していたら出てきたのだそうだ。神戸のイナガキの旦那が手に入れてすぐさまキミタケに連絡してきたらしい。イナガキの旦那がそんな風に動くとなるとこれは相当なものなのだろう。そこまで概略を説明するとようやく手渡してくれた。
「『るはるくもも』? 何だ、るはるくももって」
「逆だ。右から左に書いてあるんだ」
「失敬。ははあ『ももくるはる』か」おれは2、3回うなずいたが、やはりわからない。「何だ? ももくるはるって」
「ももくるっていうのは中国四国地方あたりの方言らしい。聞いたことは?」
「いや。ない」
「おれも知らなかった。手で探る、とか、いじる、とか、もてあそぶ、とか、まあそんな意味らしい」
「ははあ」
「ははあ、とは何だ」
「ははあ、は、ははあさ。で、はるの方は?」
「はるは、季節の春。つまり春画だということだな。まあ開いてみろ」
なるほど粋人たちが夢中になるのも無理はない、それは大層な傑作だった。横長の版型で左右がだいたい一尺くらい、天地は八寸というところか。男女のむつみ合っている様を、大胆に省略した線と、非常に細かい観察で描き出している。武家娘の着物のすそを割って太股に手を滑らせる町人風の男。大年増の後ろから襟元に手を差し入れる年老いた坊主。手の動きや、力の入れ具合まで見て取れる。一枚、また一枚とめくるが、どれも紙面から押し殺した声やあえぎが漏れ出てきそうな臨場感がある。
「わかるか」
キミタケが笑いを含んだ声で問いかけてくる。まだ何かあるのだ。普通の春本とは違う何かが。
「待て待て。言うなよ」おれはさらに一枚、また一枚とめくる。「着衣がほとんどだ。そういえば男の性器がほとんど出てこない。珍しいな。それにこれは、ああ、そうか。だからか。前戯しかないんだな」
「その通り。どうだ珍品だろう」
「うむう」
その本の中の男女はひたすら相手の身体をまさぐり、さすり、もみしだくばかりなのだ。それも一枚、一枚、身体のあらゆるところを丹念に責め、添えられた文字はその絵で“ももくる”対象を端的に記す。「ちくひ」、「ほと」といった露骨なものはむしろ少なく、「えりあし」があり、「みみたふ」があり、「さこつ」があり、「あはら」があり、「くるふし」があり、「こしほね」があり、それらを慈しむようにつまみ、ころがし、つつみこむ。そして決して性器を合わせることがない。
「驚いたな。これを江戸時代の中期に」
「依頼主の趣味なんだろうが、この絵の巧みさを見ると」
「絵師も相当に好きだったんだろうな」
そう言いながら最後の一枚にたどりつく。他の絵で文字が添えられていたあたりに、墨塗りで「●●●」と伏せ字になっているのがいきなり目に飛び込む。しかしよく見るとこれは最初からそのように刷られたもので、後に塗りつぶされたわけではない。
なるほど、歓喜に身を震わせている絵の中の男女が互いに手を伸ばし触れているのは、普通なら思いつきもしない意想外な部分だ。そこに描かれた独創的な仕業に言葉を失っているとキミタケがささやく。
「どうだ斬新だろう。試してみたくなるだろう?」
「ああ」不覚にも返事の声もかすれてしまう。「いますぐにでもな」
外は寒いのに額が汗ばむのがわかる。
(「ももくる春」ordered by 巻巻-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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