第72話 Wブッキング

 例えば新幹線の指定席に座っていても、飛行機の座席にかけていても、誰かが「そこ、私の席です」と言ってくるのではないかと思うと不安でならない。座席指定のあるような会場の、コンサートや舞台の観客席でも同様だ。終演までどうにも気が休まらない。実際にそんな目にあったことがあるわけではない。いつも最初から最後まで誰に邪魔されるわけでもなく席にとどまれている。にもかかわらず不安から逃れることが出来ない。


 先日なじみの店でマスターと雑談になって、そんな話をしているとマスターがにやにや笑いながら「ああ。ぴったりなカクテルがあるんだけどなあ。でも趣味悪いかもなあ」と言った。こっちも酒が入っているのでついつい強気になって「なになに? 思わせぶりなこと言ってないで出してちょうだいよ」とせっついた。「そうですか?」と言いながらマスターが勧めてくれた酒を飲んだ。なるほどそれはいささか刺激が強すぎる酒だった。


     *     *     *


 わたしの仕事は座席ともチケットとも予約とも関係ない。電機メーカーの研究所に勤める研究員だ。朝は早くから席について仕事のことを考える。この仕事は自分に合っていると思う。前日まで進めた考えを、翌朝席に着くなり復活させてあれこれ考えることが楽しくて仕方ない。


「おはよう。今日も早いね」

 声をかけられて振り向くが、知らない男だ。用心して返事する。

「おはようございます」

「論文読んだよ」男は丸めた雑誌で左の掌を打った。「これで博士号は間違いなしだな」

「どうでしょう」論文まで読むと言うことはかなり専門的な知識の持ち主だ。でも社内の人間には見えない。この建物に部外者ははいれないはずなのに。どうやって入ってきたのだろう。しかもこんな時間に。「まだ提出したばかりで何も予定は立っていません」

「そりゃそうでしょうとも」男は細かく何度もうなずきながら同意し、一枚の紙を取りだし差し出してくる。「ではこれをご予定に書き加えてくださいな。いいお返事お待ちしていますよ」


 紙に目を落とすと、そこには面接の日時が書かれていた。最初何が書いてあるのかわけがわからなかった。知らない会社の名前と、提供するポストの権限や年俸が記されている。これはヘッドハンティングだ! ようやくそう気づいて、なぜそんな男がこんなところに? と顔を上げるともう男の姿はなかった。


 こんな紙は部員が出社してくる前に片づけねばならない。慌ててフォルダーにはさんでカバンにしまいつつ、日時と場所だけ記憶しておいてシステムノートを開く。そして手が止まる。同じ日時に、昇級をかけた社内の面談があることに気づいたのだ。そこへ部長が機嫌良さそうに登場する。


「おはよう。今日も早いね。論文読んだよ。これで博士号は間違いなしだな」

 かろうじて笑みを浮かべるだけで何も返事できずにいると、部長はどんどん近づいてきて不意に目の前でしゃがみ込む。

「おや。なんだこの紙は。君が落としたのか? どうした。大丈夫かね、顔色が悪いぞ」


     *     *     *


「大丈夫ですか? 顔色が悪いですが」マスターの声に我に返る。「すみません。やっぱり趣味が悪かったですね」

「たまらないな。やめてほしいな、こういうのは」大きくあえいで息を整える。「わかるよ。このカクテルの名前は『Wブッキング』だろう?」

「いえいえ」マスターが言う。「これは『ダブル・ラビット』です」


(「Wブッキング」ordered by ariestom-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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