第68話 ゾウガメの飼育
若い飼育員は日々世話をしてやりながらも、どこかで自分なんかよりゾウガメの方が遥かに存在感があることを薄々感じている。格の違いを感じるのだ。たたずまいに。目つきに。落ち着き払ったその風格に。そう、風格、と若い飼育員は思ったものだった。すべての飼育員がそう感じるわけではない。鈍感な(と若い飼育員は思うのだが)中年の飼育員は、ゾウガメのことを特にどうとも思わないようだ。ただエサを与えて、時々甲羅をみがいてやる、大きくてのろまな生き物としか思っていない。
自分は違う。と若い飼育員は考える。自分はこのゾウガメの持つ偉大さを感じることができる、と。その風格をくっきり感じ取ることができる、と。
朝、世話をするため小屋に入ると、小屋の片隅でじっとしていたゾウガメはゆっくりと首をもたげ、静かな落ち着いた目で若者を見る。何者にも乱されることのない目つき。何もかも見通したような洞察に満ちた視線。場数を踏んでいるからだろうか、と若者は思う。100年分のいろいろな場面をたくさん見て知っているから、細かいことにいちいち動じなくなっているのだろうか。年の功ってやつだな。そこまで考えて若者は胸の内で笑ってしまう。亀の甲だし年の功ってわけだ。そして亀の甲羅をみがいてやる。
ゾウガメがまったく食事をしなくなったのは秋の終わり頃だった。ある朝、若い飼育員はエサ箱の中身が前日のまま減っていないことに気づき早速獣医に連絡した。獣医はすぐに駆けつけてきたものの、ゾウガメを隅から隅までチェックして、特にどこか病気というわけではなさそうだ、と言った。老衰だろう、と。念のために採血もして帰っていったがやはり後日届いた結果も「異常なし」だった。そう知って若者はできるだけ世話をしてやろうと決意する。残り火が燃えている限り、おれが空気を送りこみ火をおこしてやろう。
食べなくなってからもゾウガメは特に変わった様子もなく、いつものように首をもたげ、静かな目で若者を見て、時に数メートル移動した。見ていると太陽の光がさすときは日なたを選んで甲羅干しをしているようだった。何も食べなくなってから半月ほどたっても、見たところゾウガメには何の変化もないように思われた。さすがに若い飼育員は奇妙に感じ始めた。特に弱るわけでもない。動きも変わらないし、目もしっかりしているし、肌の様子も変わらない。甲羅のつやも変わらない。
どうなっているんだろう? 何も食べずに半月もたっているのに、さすがにこれはおかしいのではなかろうか。ひょっとすると。若者は考えを巡らす。ひょっとすると、誰かがこっそり夜にエサを与えているのかも知れない。そう思いついて、その晩、当直だった若者は、夜間の小屋に入ることにした。
ゾウガメが若者に話しかけたのはその夜のことだった。
若い飼育員は巡回の時間まで当直室でお気に入りの本を眺めていた。それは世界のいろいろな風景の写真に、その国の言葉で風の名前を記した本だった。心地よい微風、間断なく吹き体温を奪う風、すべてを乾燥させ野火を起こす熱波、作物をダメにする邪悪な風、世界にはいろいろな風が吹き、それぞれが名前を持っている。かつて若者は、そのすべての風を訪ね歩くのが夢だった。いまではもうそれが雲をつかむような夢のような話だということがよくわかっている。だからお気に入りの本で写真を眺めるに留めている。
巡回の時間が来て、本を閉じ、懐中電灯を持って若者は当直室を出る。ゾウガメの宿舎に訪れるのが最後になるように順路を考えて、順番に見回る。夜行性の動物たちが活発に活動する様子や、眠りを破られ音と光に驚く動物たちの姿を眺めた。冬の夜空がきれいでたくさんの星が見えた。風はなかった。気温が低いので動物たちのほとんどはじっと身をひそめていた。いつもの通り静かな夜だった。つつがなく巡回を終え、あとはいくらでものんびりできる状態にして、最後にゾウガメの小屋に入っていった。
ゾウガメが最後の火を燃やし尽くしたのはその夜のことだった。翌朝、目元を赤くした若い飼育員は退職の決意を告げる。親切な園長から理由を尋ねられても首を横に振るばかりで何も話そうとしなかったが、ふと「……をゾウガメに譲られたから」ともらし、さすがの園長も黙り込んでしまう。「とにかくゆっくり休んで、うちで契約しているカウンセラーを訪ねてごらん」と園長に送り出され、若者は動物園を出る。そのまま若者は家族にも何も言わずに旅に出てしまう。風を訪ねる旅に。
(「残り火」inspired by futo-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます