第52話 遠い記憶
その建物は小学校へと続く急な坂の途中にあって、我々はそれをお化け屋敷と呼んでいた。急坂をしばらく登ると屋敷につながる私道の入り口があったが、鬱蒼と繁る木立のトンネルに阻まれて、そこからは建物の姿は全く見えなかった。逆にもっと離れて、急坂の麓から見上げる山の中腹に、建物は街の他のいかなる建物とも違う奇妙なフォルムで異彩を放っていた。
洋風建築、と大人たちはその建物のことを言っていたが、そんな言葉でくくられるような代物ではなかった。それは巨大な積み木細工であり、雨風に浸食されたはげ山の岩場であった。建物や建築といった概念からかけ離れた何かだった。いずれにせよそれは、人が当たり前に住まうために用意されたもののようにはとても見えなかった。特殊な意図を持った人が(人々が)特殊な目的を遂行するために用意した施設のようだった。
ある夏の放課後、数人の友人と誘い合ってお化け屋敷を探検することにした。というと、その建物が放置された無人の廃墟のように聞こえるが、実はお化け屋敷が無人なのかどうか知らなかった。もし誰か普通に人が住んでいるのならば、他人の住居に忍び込むことになるわけだから、もちろんそれは探検などではなく不法侵入である。泥棒と変わらない。頭の片隅で、少しはそのことに気づいていたはずなのだが、「お化け屋敷を探検する」というアイデアに興奮していたのだろう。わたしたちは用心しながらも、ためらうことなく蝉時雨の降る中、先へ先へと進んだ。「誰が一番奥まで入れるか競争だ」と一人が言った。あまりにも困難な挑戦にみな言葉もなかったが、異論もなかった。
弓なりにカーブした私道が終わる頃、建物は姿を現した。途端、一人が細い泣き出しそうな声で「やめよう?」と言った。わたしも一瞬心が揺らいだが、ここでやめるわけにはいかないとも思っていた。そこで彼に向かって「ここで待ってな。すぐ戻るから」と威勢よく言った。でも同時に、あることを感じ取ってもいた。思っていたよりも整然とした建物まわり。塵一つなく、窓にも汚れなく拭き磨かれ、外壁も古びたなりに清潔感がある。誰かがきちんと手入れしているのだ。三段のステップを上がり、ポーチに立ち、扉を前にして「建物に入るのはまずいんじゃない?」と言ってみた。でも競争を提案した少年ともう一人は口を引き結び、ノブに手を掛け扉を開いた。
誰かが細い叫び声を上げた。扉のきしむ音がそんな風に聞こえた。わたしはポーチに立ったまま開いた扉から建物の中をのぞきこんだ。そこはホールのようになっていて、玄関はなくそのまま板敷きの床が広がっている。後の二人はそっと建物に入り、はいってすぐ右手の二階へ上がる階段を昇っていく。木の階段がぎしぎしという音がしばらく続く。振り向くとわたしの後ろには「やめよう」と言った子が、蝉の合唱の中たたずんでいる。だんだん目が慣れてくると暗い建物の中には正面に大きな立ち鏡があり、開けはなった戸口に立つわたしのシルエットを映し出している。
次の瞬間、階段の上の方から叫び声がして、二人が駆け下りてきた。「逃げろ!」一人が言った。わたしはあわてて逃げだそうとした。その瞬間。鏡を見てぞっとした。わたし以外の誰かが鏡の中からわたしを見ていたからだ。全身が痺れたようになり、その場を離れられず、鏡から目を離すこともできなくなった。鏡の中の誰かは大人のように見えた。その人影がゆらりと動く。わたしはまだ身動きできなかった。そこへ飛び出してきた二人に突き飛ばされ、ようやくすくみ上がっていた足が動きだした。わたしたち四人はその場を駆け去った。もう一度振り返った時、そこにはただ開きっぱなしの扉が見えるだけで、中の様子はもうわからなかった。
* * *
大きくなってその建物は世界的に有名な建築家が、ある金持ちの依頼で建てた個人宅だったことがわかった。調べてみると、いまは一般に開放されていて、そこで会食することもできるらしい。一般開放! 会食! お化け屋敷で会食だって? 小学校の建物が取り壊されると知って同窓会を開いたとき、わたしはあの時の仲間を誘って、その建物に集まることにした。
外国人の視点でつくられた和洋折衷の奇妙な建物は、時代による落ち着きと、時代を経てもなお挑戦的なたたずまいを持つ、やはり風変わりな建築だった。我々は「会食」しながらあの時のことを話し合った。四半世紀を経て記憶はあいまいになり、それぞれの証言が食い違った。とりわけ鏡と扉の位置についての認識がみなばらばらだったのだ。
中に入った一人は鏡なんて見なかったと言い、もう一人は鏡はもっと別な場所にあったと言うのだ。そこで四人は食事を中断し、連れ立って階段を降り、玄関ホールへと向かった。鏡はなかった。玄関からのぞきこんだ位置に大きな鏡などなく、そこはただの壁だった。呆然とするわたしを残して、あとの三人は一階の他の部屋を探検すると言って廊下の奥に消えた。わたしは玄関の扉に近づき、それを開け放ち、あの時と同じ場所で同じように振り返った。
正面に、開け放った扉とそこにたたずむ人影が映った。やはり鏡はあったじゃないか! そう思った瞬間、向かって左手の階段の上で叫び声がして、子どもが二人駆け下りてきた。左手の階段だって? 違う。階段は右手にあったはずだ。階段を駆け下りた少年たちは正面に見える鏡の中の戸口に向かって突進して行く。鏡の奥に向かって? そしてわたしは気がつく。あそこで立ちすくんでいる人影が小さ過ぎることに。あれはわたしの鏡像ではない。あれもやはり子どもだ。二人の少年に突き飛ばされ、我に返ったようにその子どもも走り出し、さらにその先にいた少年と合流し、四人ははるか先の蝉時雨の中へと、遠い夏の日へと走り去っていく。
(「鏡と扉」ordered by miho-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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