第47話 息せき切って
そこにいるのは確かに僕だ。見間違えようもない。本人が言ってるんだから間違いない。なのにこの違和感は何だ? 髪振り乱し、走り続けたせいか息が上がり、乾いた汗で土埃が額に張り付いている。上着はしわくちゃになり、ジーンズのすそは何かに切り刻まれたように見える。顔色も青い。じっくり見ているうちにだんだんそれは僕ではないような気もしてくる。
不意に追っ手が現れる。ただしそれは人ではない。獣でもない。よくわからない何かだ。僕の背後からざわざわうねうねと近づいてくる。何か形のあるものと言うよりむしろ気配のようなものだ。ただしその気配は目で見て取ることができる。一見それは巨大な泡の群れを思わせる。無数の大きな泡をぶくぶく沸き立たせながら流れてくる、ねっとりした液体のように見える。でも次の瞬間それは気体にも、あるいは煙の塊のようにも見える。
たちまち追いつかれ、僕はその逆巻く雲塊にからめ取られ手足の動きを封じられる。走っている最中にそのまま氷付けにされたようないびつな姿勢でゆっくり身体が傾き、むくむく動く泡の中に全身が飲み込まれていく。あんなものの中でどうやって息ができるのだ? 衣類が張り付きますます身動きが取れなくなる。あえいでいるのか叫ぼうとするのか大きく開けた口。訴えるような目。顔に張り付く長い髪。
不意に疑問が湧いてくる。それは本当に僕だろうか? よく見ると違うのではないか? あんな服を見たことがあるか? 髪も長過ぎるのではないか? 全体に華奢過ぎはしないか? 年齢だってかけ離れて見えてくる。だいたいあれは男ですらないのではないか? か弱い女のようにも見える。力任せに押し倒され襲われている女の姿に見えはしないか。何かよくわからないぬめぬめとしたものに服をむしり取られ、全身をなめ回され、陰部も口も鼻も耳も全身の毛穴もすべての開口部から押し入られようとしている女なのではないか?
でもそれは僕だ。ぐしゃぐしゃの上着を脱ぎ捨て、身をよじるように雲の中から抜け出すのは僕に間違いない。傍らの地面にばたりと倒れ、はいずりながら逃げ出すのは確かに僕だ。恐怖に顔を引きつらせ涙さえも流し、それでもぼくは立ち上がり走り出す。逃げているのか? 何もかも呑み込もうとするこの恐ろしい何者かから逃げているのか? それともどこかに急いでいるのか? メロスのように約束を守ろうとしているのか。でもその表情からは決意らしきものはうかがえない。
よろよろと、ふらふらと、でも確かに速度を上げて僕は走り出す。体力の限界をとうに超え、汗さえ乾ききり、もはや涙を流すこともできず、血を流し、痣だらけで、恐怖にのまれ、屈辱にまみれ、声もなく、失いに失いに失い続け、それでも走り続ける。どこへ行こうというのか。
僕はなぜ急ぐのかだれか知らないか?
僕はなぜ急ぐのかだれか知らないか?
(「僕はなぜ急ぐのかだれか知らないか?」ordered by helloboy-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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