第31話 (言葉の)レッスン

 あさはかだと言われるなら反論のしようはない。あさましい功名心だと言われるかもしれない。甘んじて受けるがこれだけは言っておきたい。謝らなければならないのは彼らであって私たちではない。あくまでも個人的な研究だったものを彼らが取り上げ、バランスを欠いた形で肥大化させてしまったのだ。悪夢はそのようにして始まり、いま終わろうとしているのだ。あどけない目をした私のペットはいまや世界中を恐怖に陥れてしまい抹殺されるのを待つばかりだ。合わせる顔がない。あまりにも無惨であまりにも理不尽で、そして自分があまりにも無力だったことが、ただくやまれる。


 一年前のある日、彼らは私の元を訪れた。いきなりの訪問を謝りながら、政府からやってきたと名乗る彼らの目的は私の飼う大型犬を引き取りたいというものだった。言うまでもなく家族同然のコロを手放す気はないと抵抗する私に彼らは言った。「違法な研究をされていることはおわかりでしょうね。遺伝子操作、動物虐待、そして動物に高度な知性を植え込もうとすることには、倫理面も含め問題はたくさんあります。いまのままではあなたを逮捕せねばならなくなりますが、ただし」慇懃な口調で彼らは言葉を続けた。「いい方法があります。今すぐこの犬と研究のデータをそっくり引き渡してもらえれば、逮捕だなんて無粋な真似はしません」


 有無を言わせず私からペットを引き離し研究室の全てのデータを奪い彼らは去った。裏から手を回し、どうにかしてコロを取り戻そうと試みたが、日本政府のどこにも彼らのような組織はないと言われて話は先に進まなくなった。嘘をついているのは誰なのか、彼らなのか、日本政府なのか。うやむやにされてはたまらないと八方手を尽くし、議員をしている友人にも掛け合ったが、もはやとりつく島もなかった。うろうろと少しでも関係のありそうなところを訪ね歩くだけで無為に時間が過ぎていった。胡散臭い連中からアプローチがあったのはそんなある日のことだった。


 笑顔で登場した女はかつて私の研究室で働いていた研究員だった。「閲覧権がありますから、わたしならデータにいつでもアクセスできますし、もちろんコロちゃんの所在もわかっていますよ。栄養もたっぷり与えられて元気に賢く、いささか賢すぎいるほど賢く育っています」エジプトの古代の壁画から抜け出したような顔つきの女は続けた。「円なら1500万円、ドルなら10万ドルで連れ出してあげましょう」営業用の笑みの奥で笑わない目が私を見つめる。「越権行為かも知れませんがね、あなたのポケットマネーも調べがついています。エサ代には困らないくらい残りますよね?」


 愚かだったことに気づいたのはそのすぐ後だった。女は軍事用にトレーニングを受けたコロの本当の恐ろしさを知らず、奪還作戦中に喉笛を食い破られ死んだという。およそ人類が経験したことのない怪物と化したコロは脱走した千葉県から徐々に東京へと向かい、その道筋に人間も家畜も含め多くの死体を積み重ねていった。追いつめられた愛犬の映像を見て私が事態を悟ったのは、コロが脱走して3日もたってからで、すでにコロは研究所からわずか数キロまで接近してきていた。大あわてで現場にたどり着いたときには、殺戮は終わろうとしていた。大勢の人間があるいは命を落としあるいは重傷を負い、その中程でコロはずたずたの毛皮の塊となって地面にへばりついていた。大声でわめきながら、周囲の制止を振り切り私はコロのそばに駆け寄った。尾がぱたりと動き、コロのつぶれていない方の目が私を見つめ、そして前足を動かして地面に書きつけ始めた。


   あいうえおあいうえおあ


 3回目の「あ」を書いている途中で前足の動きが止まり、コロは死んだ。「あいうえお」は、遥か昔、トレーニングを始めたばかりの頃、私がいちばん最初にコロに教えようと試みた言葉だった。


(「あいうえお」ordered by みやた-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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