第29話 手紙

 手紙を見つけたのは、そこに住み始めて半年ほども過ぎてからのことだった。前に住んでいたところがオーナーの事情で急に住めなくなって、あわてて見つけた家だったので、最初は色々と不満も多かったが、住めば都とはよく言ったもので暮してみれば不思議となじんで、ひと月もたたないうちにもう何年も住んでいるような気持ちになる、少なくともぼくにとってはそんな家だった。古い一軒家で家賃は驚くほど安く、しかもいろいろな家具は据え付けで、二階の寝室などここが日本とは思えないような大きなウォークインクローゼットがついていた。そう。以前は外国人専用に貸し出していた建物だったらしい。築年数はもう少しで半世紀に届こうかというところで、当然のことながらあちこちにガタが来ていて立て付けも悪くなっているし、気候が涼しくなってくると隙間風の多さを痛感させられることになる。ここのオーナーは必要があれば修理費も出すし、自由にいじって構わないと言ってくれたので最初はもちろんそのつもりだったのだが、手つかずのままだ。住み始めるとこのままでもいいかなと思わされる、そんな完成された世界がここにはあるのだ。すきま風だらけの家で「完成」も何もないようなものだが、やはり迂闊に手を出せない確固とした世界観のようなものがこの家にはあり、これを受け入れた人はそのまま住むし、受け入れられなかったひとは出ていく。そんなシステムができあがっているようだった。


 実際、最初の頃に部屋をシェアしていた同居人は住み始めて間もなく「悪いけれどおれは出ていく」と言って半月もたたないうちに出ていってしまった。ほとんど何の説明もなしに出し抜けにそう宣言したので、ぼくは自分に問題があったのかと思って正直に言ってくれと頼んだが、どうやらそういうことではないらしかった。うまく説明できないと言い渋るのをなだめすかし、かろうじて聞き出せたのは「この家はおれには合わない」ということだけだった。霊感があって何か見えるのかと聞いたが笑ってそういうことではないと言う。オーナーに修理費は出してもらえるみたいだから自分の居住スペースだけでも気に入るようにいじってみればどうかと提案したが、しばらく考えてから、無理だ、と言った。無理なことはお前にもわかるはずだ、と。そう言われてみればなるほど、「気に入るようにいじる」なんてできないことはぼくにもわかっていた。


 一人で暮らすようになってからというもの、さすがに広すぎるし家賃の負担もバカにならないので、ルームシェアの相手は常時募集しているつもりなのだが、なかなか相手が決まらない。友人たちに言わせると本気で探しているように見えないらしい。むしろ一人でいたいようにすら見えるとまで言われた。そんなつもりはないのだが、気がつくと確かにその家で過ごす一人の時間をぼくは結構気に入っていた。そんなある日、日差しがまぶしい秋の朝、急に思い立って部屋の大掃除を始め、お昼近くになって手紙を見つけた。ライティングテーブルの引き出しをひとつひとつ取り出して拭いていたら、その奥にひっそりと、それはあった。取り出して読むとそれは英語で書かれた手紙で、辞書を引っぱり出して何とか読みとった限りでは、誰かに宛てて書かれたものの出されずに終わった手紙らしかった。確証はないけれど、恐らくそれは女性の手になるもので、恐らく思いを寄せる異性に向けて書かれたもので、恐らくそれは片思いで、付け加えるなら恐らくこの家に住んでいた人だ。なぜなら手紙には「今日、2階の窓枠を明るいブルーに塗り直しました」と書いてあり、それはついさっきぼくが丹念に汚れを拭きながら「これは元々淡いブルー に塗られていたに違いない」と思った窓枠と一致するからだ。手紙の主はその他にも自分の住まいのあちこちを描写していて、それらは歳月の分いくらか古びてはいるものの、驚くほど手紙に描かれたままの状態で保存されてきたことがわかって、ぼくは少し興奮した。その女性の控え目で知的で思いやりに満ちた人柄が手紙からも建物からも伝わってくるようだった。


 夜になって手紙を読み返しながらぼくは考えた。ジャック・フィニィの小説の登場人物なら、この手紙に返事を書いて、引き出しの同じ場所にしまうだろう。するとその手紙は彼女のところに届き、彼女からの返事がまた現れる……。ほとんどぼくはそれを実行しようかすらと思ったが、それはやめにして、代わりにこの手紙を記念してレコードを買い集めることにした。手紙が書かれた40年近く前のレコードを買い集め、この家で鳴らし、その響きを聞くことにしたのだ。その頃に好んで読まれたであろう本を買い求めて読み(当然それはその時代以前に遡る)、その当時もあった古くからある銘柄の酒を手に入れて飲んでみた。ある時代を思い起こさせる写真や小物を買い込んでは部屋に飾り、まめに掃除をするようになり、ルームシェアの募集をことさらに言わなくなった。いまもぼくは一枚のアルバムを聴きながらこれを書いている。以前なら聴こうと思わなかった種類のその音楽が、いまはとてもしっくりと耳に、身体になじむ。彼女はこの曲をこの部屋で聴いただろうか。レコードで、 あるいはラジオで。そんな風にあれこれ考えながら、頭の片隅でこの気持ちは一体なんだろうとぼくは考える。生きていたらもういい年齢のおばあさんであろう彼女のことをこうしていろいろ考えるこの気持ちは。音楽の中でシンガーが歌う。ある朝目を覚ますとわたしは恋に落ちていた。そう。その通り。ある朝目をさますとぼくは恋に落ちていたんだ。


(「恋」ordered by aisha-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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