第22話 金曜夜・研究室

「天国と地獄が同時に同じ場所に存在するとは神学的な大事件だな」

 友近がグラスのシングルモルトウィスキーをなめながら言う。風間は自分のグラスにウィスキーを注ぎながら同意する。

「本当に。最初はそんなつもりはなかったんだが」


 二人の見ている先には小さな嵐が巻き起こっている。青みがかった灰色の風が疾走し、その後を漆黒の風が追う。両者が絡まり合ってごろごろと転がり、研究室の机の脚に激しく衝突して二つに別れる。さすがは風だけあって机の脚に激突したことなどまるっきり気にもかけず、もう次の疾走に移っている。


「でも風間。これじゃあやってられんだろう。学生に文句言われないのか?」

「学生の方が喜んでるんだってば、おれが連れてきたのは天国の方だけだし」

「じゃあ地獄は」

「さあ。学生の誰かだと思うが、そこまではわからん。ある日気がついたら増えていた」

「天国が地獄を招いたのかもよ」

「ああ。それでも不思議はない。こいつらちょっと変わってんだ」

「天国と地獄が同時に同じ場所に存在するとは神学的な大事件だな」

「お前、それ、さっきも言ったぞ」

「そうか?」


 友近はずいぶん弱くなった。以前は少々のアルコールを嗜(たしな)んだくらいでは何の変化もなかったが、最近では早々と眠そうな顔つきになるし、話もぐるぐる回り始める。でももう長らく続いた習慣で、金曜の夜にこうして研究室でだべりながら飲むのをやめることができない。特に妻を亡くしてからの友近は、家に帰りたくないだろうと思うから余計にやめられない。何をしてやれるわけじゃない。言ってやれるわけじゃない。でも笑顔を浮かべることすらまれになった旧友をほったらかしにすることもできない。まあ、それを言い訳に二人とも好きな酒を飲んでいるだけかも知れないが。


「週末なんかはどうしているんだ? どうやって面倒を見る」

「誰かしら出てくるから相手はしてやれる」

「長い休みは?」

「前の夏休みはうちに連れて帰った。でも途中で地獄がいなくなって大騒ぎだった」

「どうしたんだ?」

「それがさ。研究室に戻ってきたらちゃんといてさ」

「猫は家につくっていうからな」


 友近がそう言った途端、天国が壁際の棚を一気に駆け上がり天井近くからとんぼ返りを打って風間の膝の上に落ちてきた。続いて地獄が同じことをしようとしたので、風間は思わず立ち上がって「こらっ!」と一喝した。その途端2匹はしおらしくなって、しかし風間ではなく友近の足元に寄っていき頭をすりつけ始めた。


「おれのところには来ないんだ。叱ったからな」

「頭がいいんだよう、なあ?」

 友近が猫たちの頭をなでながら、妙に高い声で言うので風間はおかしくなる。

「で、どっちが天国でどっちが地獄だ?」

「真っ黒なのが地獄。灰色に薄い白い点が5つあるのが天国だ。というか、最初はテンゴだったんだけどな」

「ああ?」

「点々が5つあるからテンゴって呼んでたんだが、そのうちテンゴ君がつまって天国になっちまった」

「テンゴクンか? ははは。で、地獄の方は?」

「天国がいたから地獄さ」

 言った途端に地獄は目を細めて友近に甘えた声で鳴いてみせる。

「おおーそうかあ。地獄がお前みたいなら、死ぬのもそんなに悪くないかもな」

「そうでもないぜ」すっかり地獄ファンになってしまった友近を見ていてからかいたくなり、風間は鈴のついたボールを投げる。「ほらっ」


 天国がまずボールを追い、その後を地獄が追う。ボールを押さえた天国に地獄が飛びかかり、そのまま一つの大きな毛玉となって鈴の音を鳴らしながら転がっていく。またしても2色の風となった猫たちは研究室の中を所狭しと駆けめぐる。


「天国と地獄が同時に同じ場所に存在するとは神学的な大事件だな」

 また同じことを言っている。その途端、風間の膝の上を天国と地獄が次々に駆け抜けていく。

「まったくだ」風間は同意する。「盆と正月が一度に来たようだとは言うが、これは天国と地獄が一度に来たようだ」

「悪くないじゃないか。全然悪くない」

 2匹の引き起こす大混乱を眺めながら満足そうに目を細めて友近が言う。まったくだ。その様子を見て風間は心の中で同意する。悪くない。全然悪くない。


(「天国と地獄」ordered by helloboy-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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