第20話 坂の上の公園

 久しぶりに姉が帰宅してきたので家族は歓待する。年が明けるとすぐまた病院に戻らなければならないので、家での時間をせめて少しでも楽しく過ごさせてあげようと心を砕く。でも両親は少し気を使いすぎだ、と君は思う。もっと楽に接すればいいのに、あれではまるで家族じゃなくて、お客さんを招いたみたいじゃないか。父親は出張した先の南米のどこかで手に入れた珍しいアクセサリーを渡しながらあれこれしゃべって墓穴を掘る。普通に「先月ペルーに行ったおみやげだ」とか渡せばすむことなのに、別に姉だけに気を使ったわけではないということと、先月買ったのにいま渡すのには他意がないということまで説明しようとするものだから、どんどん何を言っているのかわからなくなっていく。両親と姉の頬に凍り付いた笑いがはり付いたままになっているのを見るに見かねて君は割り込む。「そういうの、エクアドルの選手もしていたよね」とか何とか。姉さんだってそういうぎこちなさはあまり居心地良くないに違いないと思うからだ。でも姉は微笑みを浮かべたまま不思議そうに君の顔を見つめ「エクアドル?」と首を傾げる。


 昼食の後、家の中に充満したぎこちなさに耐えられず君は姉を散歩に誘う。姉が嬉しそうにうなずくと、両親があからさまに肩の荷が下りたような顔つきをするものだから君は少しかっとなる。そういうの、やめろよな。

 姉とはぶらぶらと高台の方に歩いて行く。小さな頃、君より遙かに活発だった姉に引きずり回された懐かしい山の方だ。当時はまだまだ自然が残っていたが、いまではすっかり造成されて高級住宅エリアに化けてしまった。それでも往時の面影はところどころ残している。


「ここはカラスアゲハをつかまえたところだね」だしぬけに姉が言う。

「そうそう」君は面食らっている。今回家に戻ってきてから初めて発したまともな言葉だからだ。「良く覚えてるね。姉さんがあのめちゃくちゃ長い虫取り網でカラスアゲハをつかまえたところだよ」

「ふふん」と自信ありげに姉は笑い、それはまるで活発な少女時代に戻ったように見える。「あれにはコツがあるんだ。蝶をつかまえるんじゃなくて蝶の周りの空気ごとすくいとるんだ」

「へえー。あの頃教えてくれれば良かったのに」

「大丈夫。また来るから、その頃が」


 君は聞き返すことをせず、あいまいにうなずく。また来る? それは何かの比喩なのか、障害のひとつなのか。そんなことはおかまいなしに姉は眼をキラキラさせ君をじっと見つめて言う。

「エクアドルって何?」

「えっ?」それからさっきの会話を思い出す。「ああ。ワールドカップに出るんだよ。エクアドル」

「ワールドカップって何?」

「ええっ?」子どものころサッカーが上手だったのはむしろ姉だった。一世代昔のジョージ・ベストに夢中になって、あれこれと海外の選手の話をしてくれたのも姉だった。「サッカーの、4年に1回、サッカーの世界一を決める……」

「あああれか」素っ気なく姉は言う。「私は出られない」

 冗談を言ったのかと一瞬君は思うが、そうではない。姉がサッカーに夢中だった少女時代、まだ女子にはサッカー選手としての未来がなかった。そのことを言っているのだ。そのことを憤っているのだ。もしそういうことがなかったら姉はワールドカップに出ることを目標にしただろう。それは大いなる目標であり、 夢の世界であり、憧れの対象となっただろう。でも現実にはそういう道はなかった。少なくとも当時は。


 会話が途切れる。君たちは高台の見晴らしのいい公園を目指してやや急な坂を上る。坂の途中で姉はぱたりと歩きやめ、立ち尽くし、泣き始める。いじめられたか弱い少女のように身を震わせ泣きじゃくる。君は途方に暮れる。いい年をした大人の女性が昼日中、道の真ん中で泣いているのだ。どうしたらいいのかわからない。でも同時に不思議な感動を覚える。子どものころ姉はいつだって自分を守ってくれる強い強い存在だったから、そんなか弱い少女のような表情は見たこともなかった。そしていまは自分が姉を守る側なんだと感じ、そっと肩に手を回す。姉は素直に身を寄せてきて、二人で並んで歩き出す。

 公園について、ベンチに座る。下界の街を遙か見渡せるベンチだ。冷たい風が吹き渡るが視界はくっきりとさえ渡っている。遠くを走る電車や高速道路の音がはっきり聞き取れる。足元に見える母校のグラウンドでサッカーをしている。


「ワールドカップだ」彼女がつぶやく。君は姉の顔を見る。真剣な顔で眼下のグラウンドを食い入るように見ている。そして君の方を振り向き、確認するように繰り返す。「ワールドカップだ」

「うん。あれがワールドカップだ」

 むろん、それはワールドカップなどではない。でも他になんて言える? 幸福そうに彼女は笑う。君は少し幸せな気がする。


(「ワールドカップ」ordered by カウチ犬-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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