第17話 ある芸術家の悲劇
共感覚というものがあって、色を見ると特定の音が聞こえたり、あるいは数字を思い浮かべると同時に色や風景が浮かんでくるといったものが有名である。つまり本来別々に感じられるはずの聴覚や視覚がある種の“混線”を起こしたような状態だ。なぜそんなことが起こるのか。仮説はいろいろあるが説明はできない。
最初、「芸術家」の共感覚は音の刺激が色を呼び起こすタイプの月並みなものだった。いろんな音楽を聴いて浮かんでくるままに色をどんどん塗りつけていくと曲が終わる頃には一つの絵画作品ができあがるという具合だった。必要な能力は、絵の具を瞬時に混ぜ合わせて脳裏に浮かんだ色をすばやく塗りつけていくというどちらかというと手先の器用さだけあれば十分だった。その曲のタイトルをそのまま作品につければ完成である。ジョン・レノン「ジェラス・ガイ」やビーチボーイズ「ペット・サウンズ」がまず当たり、群馬県民ホールの壁画にシューベルト「ピアノソナタニ長調」を描いたことで評価は高まっ た。
ところが間もなくこの共感覚は失われてしまった。次にやってきたのは少々変わっていて匂いが形を呼び起こすというものだった。「芸術家」は迷った。曲を聴くようなやり方で匂いの刺激を受けるということは考えにくく、また一定の場所にいる限り匂いは変化に乏しい。それに匂いというものはそんなにどんどん変わるものではない。この能力を作品に反映することは至難の業と思われた。しかし「芸術家」はちゃんとブレークスルーを見つけた。世界中の街や名所を訪れて、その場所特有の匂いをフォルムとして描き出したのだ。「ブルックリン」「ソーホー」「モンマルトル」「ケルン大聖堂」「パッポン通り」「ゴビ砂漠」などがその時期の代表作だ。視覚的にはそれらの場所と何らつながりを見出せない立体作品がなぜか説得力を持ってその場所を感じさせる。その独特の作品群は話題を呼びこのままいくとワールドワイドな名声を築くのも時間の問題と思われた。
けれどもこの共感覚も突然終わってしまった。
そして不思議な共感覚がやってきた。目に映るものすべてがハングルの文字に変換されてしまうのだ。もちろん景色は景色として見えているのだが、 同時にその色や形や明るさなど全ての視覚情報がハングルとして襲いかかってくるのだ。「芸術家」はそれまでハングルの規則も構成も知らなかったし、血縁に朝鮮半島の出身者がいるわけでもない。にもかかわらず浮かんでくるハングルはデタラメなものではなく実際に存在するものばかりで、しかも書きつけるとそれが黙示録的な文章になっているとされた。自分では意味も分からずに書き付けたものが文章として意味をなしているらしいとわかってから、「芸術家」はそれをそのまま世に出していいのかどうか悩み、韓国人の友人に自分が描いた作品を翻訳してもらうという作業をしてから作品を発表するという面倒くさい手続きを踏むことにした。
たとえばそれはこんな具合だ。トレドの街の遠景を描いた作品は「大いなる火事 にもかかわらず 広がるギャップ 飛び越えるは アホウドリ」といった詩のようなものになり、六本木ヒルズを描いた作品は「巨大ロケットの屹立するペニスは降り注ぐガラスの破片を蠱惑的に埋葬し船乗りの役に立たぬ灯台守はただ周囲にくまなく眼を配る」というフレーズで始まる長大な呪文となり、「芸術家」の故郷の港を描いた絵は「虫取り網と帽子 友だちと友だちの友だちと友だちの友だちの友だち 裏切りと裏切られ 初恋の動悸 無力感と屈辱 へこんだ弁当箱 通学路の階段」といった具合に記憶の博物館のようなものになった。
翻訳を読み返しながら「芸術家」はそれが個人的に非常に的確な言語化であることに気づく。なぜハングルなんだろう。なぜ最初から母国語にならないのだろう。あるいは自分は知らないだけで実は朝鮮半島の出身なのだろうか。そして本格的にハングルを学ぼうと考え始めたタイミングで、またしても共感覚は失われてしまう。そして今度ばかりは代わりの共感覚は何も生まれてこない。そうなって初めて「芸術家」は自分を見つめ直すことになる。自分は何をもって芸術家だったのか。自分の作品とは何だったのか。そして──当たり前のことだが──見つめ直した自分は共感覚よりも説明不可能なことに気づく。
(「ハングル」ordered by aisha-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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