第3話 傘がない

 なかなか日が暮れない夏の宵。時刻はもう9時近いのにまだ空は明るい。ひなびた田舎駅のホームのベンチには部活帰りの高校生がたむろしている。高校生?  変だ。もうとっくに家に帰っていていいはずの時間だ。あまりに空が明るいのでみな帰りそこねているのだ。いくらなんでも明るすぎる。


「けざわ〜、けざわ〜。降りる方がお済みになりましてからご乗車ください。本日傘の忘れ物が大変多くなっております。落とし物・お忘れ物ございませんよう、ご注意願います。下り電車出発します。次は〜、けざわひがしに停車いたします。ドア閉まりま〜す」


 長々としたアナウンスが流れる。そういえば午前中はしとしとと雨が降ってどんより暗い天気だったのだ。しまった。傘がない。どうしたんだろう。 どこに置き忘れて。確か会社で。待てよ。会社? 会社の帰りにこんな駅を使ったっけ? ここはどこだ? 何でこんな田舎の駅のホームに自分はいるんだ?  けざわってどこだ?


「間もなく上り方面電車が参ります。足元の赤線の内側でお待ちください」

 振り向くと駅名には「毛沢」とある。次の駅は「毛沢西」そして……。

 構内に電車が入ってくる。ドアが開くと肉付きのいい人民服姿の男がたくさん降りてくる。毛沢東だ!


 次の瞬間ぼくはマオカラーの精鋭たちに取り押さえられ、電車の中にひきずりこまれる。「人民裁判だ!人民裁判にかけろ!」怒号が響く。さっきま で詰め襟の制服姿の高校生だったはずの男たちだ。「なんなんだこれは! おれは何もしていない」「傘を持っていないじゃないか」「傘?」「しらばっくれる な!」「傘なら会社に忘れてきた」「会社だと!」「ナンセンス!」「ナンセンス?」「会社!」「え?」「会社人間だ!」「そうだけど」「資本主義の亡者め」「資本主義だって?」「静かにしろ。傘は天下の回りものなのだ」


 その時、たくさんの毛沢東の中のひとりがにっこり微笑んで包み込むような静かな声でぼくに語りかける。「大丈夫。毛沢西には腕のいい職人がい て、あなたのどちらかの腕を使って立派な傘をつくってくれます。右腕か、左腕で。そうすればもう大丈夫。右腕か、左腕か、片腕は残るし、おまけに一級品の 傘も手に入ります。うん。腕が残るから文字通り手に入るってわけですね。あはは」


 笑い事じゃない。まったく笑い事ではない。


(「駅のホーム」ordered by ariestom-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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