第6話 アルターエゴ
フランスのごく一般的な家庭で生まれ育った本名ジャック・オードリー、ペンネームをノエル・フランセルと名乗る彼が、「殺人デザイナー」と呼ばれるようになったのにはそれなりの理由がある。
自らが男性でなく女性であると認識していることは、彼にとってさほど問題ではない。いつからか人間を嫌悪するようになった……その方が、彼、いや、彼女にとってよほど大きな問題だった。不信や憎悪から来るものではなく、もっと生理的な、本能的な忌避感が年齢を経るごとに高まっていき、成人年齢を迎える頃にはあらゆる人間が汚物にしか感じられなくなったのだ。
彼女にとって性愛の対象を向けるもの……正確には「向けることができる」ものは、神聖な事物でなければならなかった。たとえば宗教にまつわるような、聖なる絵画や彫像……それも、凡俗に有り触れたものでは到底満足できない。
所属していた美術大学の展覧会で1枚の絵に出会い、その可能性に心を踊らせたことが奇跡にも感じられたほどだ。
潔癖なだけではない。彼女には生来、他者への良心が著しく欠けていた。どれほど傍にいて吐き気をもよおそうが他人を殺さなかったのも、罪になるから、そして、今の時代は摘発されやすいから……たった、それだけの理由だった。
展覧会を発端として親友となった画家、カミーユ=クリスチャン・バルビエが
唯一無二の親友は蘇生が可能な25パーセントどころか50パーセント以上を切り刻まれて肉片となり、ノエルが目にした時には物言わぬ屍と化していた。
彼が生み出す「
彼女は獄中にて、失われた「
髪を染めた。顔の造りを変えた。瞳の色を変えた。言動を真似した。……あらゆる手段を用いて、彼女は亡き親友を自らの中に蘇らせ、閉ざされた「
ああ、だが、彼女は理解していなかった。
その男の肥大化した自意識は己すらも蝕むほど強烈であり、その男の「
右腕が亡き親友のデッサンを再現し出し、瞬く間にキャンバスを彩るようになった頃には手遅れだった。
死刑囚ジャック・オードリーの自我を呑み込み始めたカミーユ=クリスチャン・バルビエは、類い稀なる才によってこの世への帰還を許された。
……誰一人として、自我を蝕まれる罪人には見向きもしなかった。
唯一無二の親友であった、カミーユ本人を除いて。
***
「……それで、僕はノエルの内側に潜んだ
「すみません、半分くらい何言ってるんかわかりませんでした」
説明の内容があまりに突飛な内容だったのか、またはカミーユ本人の説明があまりにも要領を得なかったのか、あるいはどちらもか……雄次郎の頭は混乱し始めていた。
ただ一つ言えるのは、とんでもない相手に絡まれてしまったこと。……これだけは、確信できる。
「まあ、うん、ノエルも悪い奴じゃないんだけど……ちょっと潔癖すぎるところがあってさ」
いきなり銃を突きつけておいて、「悪い奴じゃない」は、さすがに無理がある。少なくとも雄次郎はそう思った。
「君もなかなかにレアケースだろうし、狙う人は多いんじゃないかなって心配はしてたよ。毛皮とか高く売れそうだし。……身内にいたのはびっくりだけど」
「身内どころか同じ身体やないですか。ちゃんとコントロールしてくださいよ」
「僕に女性の心をコントロールできたら、恋人に惨殺なんてされてないよね」
「ほんまに何したんですか……?」
気まずそうに目を逸らしつつ、カミーユは「それが今でもわからないんだよね……」と、答えた。
言葉にひび割れたようなノイズが走る。……やがてカミーユのセリフは聴衆のざわめきと同じように雄次郎には聞き取れなくなった。
「……ノエル、我慢しなよ。君がそんなに熱くなるなんて珍し……え? 何? 神様? 彼が?」
目の前の相手が怪訝そうに首を捻る。
……無性に腹が減った。充分ヒトの食事を摂ったはずなのに、何かが足りない。
「確かに君は信仰にまつわるものに興奮する変態だけどさ……」
雄次郎には言葉がわからない。……先程まで理解できていたのに、これでは不便極まりない。
「わからない」ことは不愉快だ。恐怖にも繋がるし、孤独にも繋がる。
「わかっていたことがわからない」のは、もっと不愉快だ。理解の記憶が理解を妨げ、なおのこと理解から遠ざかる。
もっと理解したい。もっと力が欲しい。
……それには、足りないものがある。
ちら、と、金の瞳が目の前の男を捉える。……あまり食指は動かない。だが……
供物なら、周りにいくらでもある。
「貴様」
その声は、背後から響いた。
「今のうちに処分されたいか?」
冷徹な声音が、再び本能のスイッチを入れる。……無意識に押さえていた力が、「ヒトの鳴き声」を解析し始める。
振り返れば、赤髪の青年が静かに佇んでいる。
雄次郎の喉が鳴る。
美味そうだ、と、感じた。
「癖の悪い害獣を野放しにできるほど、お人好しにはなれんからな」
ちら、とノエルの方も一瞥しながら、青年は翠の瞳を凍てつかせる。
刹那、銀の光が閃いた。
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