Case1 「ヒトではない」

「人狼」

第1話 2021年春

 生まれる前に、世界全体で大きな異変が起こり、数年にわたって混乱が続いたのだと聞いたことはある。……それは、現代……平成33年を生きる青年にとって遠い出来事のようなものだった。


 幼い頃、彼の母親や近所のおばちゃんはそういった話をネタに昔懐かし井戸端トークを繰り広げていた。

 決定的な異変が起こる前に前触れらしきものがたくさんあったとか、当時のニュースの盛り上がり具合がすごかっただとか、「ゆうじろーはそん時まだ産まれてへんもんなぁ」なんて威張ってきて、挙句の果てには「昔はなぁ、死んだらそのまんま死者になっててん」と聞いてもいないことをつらつらと語り始める。

 最後は自分が、


「なぁオカン、そんな話ええから早よ帰ろぉや」


 と痺れを切らすのが、上田裕次郎うえだゆうじろう少年にとっての日常だった。


 やがて、少年は姓を変え、名を変えて「大神おおかみの眞上蒼牙守まがみそうがのかみ雄次郎孝範ゆうじろうたかのり」として成長した。

 その過程は、常人には到底想像もつかないほどの波乱に満ちているのだが、雄次郎本人に言わせれば「色々あった」のみで済んでしまうものでもあった。


「……なぁ、つなぎ、こっちやと俺らのことヴェアヴォルフって言うらしいわ。ヴェアヴォルフやでヴェアヴォルフ。ごっついかっこええやん。今日から大神オオカミよりヴェアヴォルフて名乗ろかな」


 そんな彼も今年で二十歳を迎え、「旧家の御曹司」としてドイツに留学中。下宿先の学生寮から、親友にほぼ毎晩意気揚々と学生生活について語っている。「ボールペンがクーゲルシュライバーなん強すぎやろ。ドイツめっちゃええで」……と、完全に旅行気分である。


『なんだって!? それはすごいな! おれもヴェアヴォルフって名乗りたい!!』


 ……そして日本で雄次郎の声のみを聞く親友も、ほとんど似たような感性だった。


『……と、おれはそろそろ寝ないとな。こっちだともう朝方だ。姉さんに怒られる』

「せやった、時差7時間あるもんな。ほな、また」

『あっ、LIMEで写真送れよ! ドイツの金髪美女の写真ならなお良い! 美男でもいいけど!』

「お前ほんま節操ないな……。まあええわ。テキトーに撮って送ったる」

『さすが雄次郎。やはり持つべきものは親友だな……』

「へいへい、おやすみー」


 会話を終え、雄次郎も目を閉じる。……明日も講義がある。雄次郎にはついて行くだけでやっとだが、東京に養子に来た頃も似たようなものだった。……むしろ、その時よりも気は楽だ。




 1989年以降、明確な「世界の破綻」により、雄次郎たち「異形」と呼ばれる存在もある程度の地位を得た。……人間の「死」に関する理に大きな変化があった以上、多少の差は大したことではない、と、そう考える者も少なくない。

 もっとも、怪物扱いされないわけでも、完全に市民権を得た訳でもない。……あくまで彼らは「存在を許容された」に過ぎない。


 けれど、雄次郎の実母は、生まれつきヒトでなかった「裕次郎」に深い愛を注ぎ、養子として連れていかれることにも猛反発した。実父も「ワシらから家族を奪うな」と……上田家で唯一「異形」であった「裕次郎」を大切な息子として扱った。


 それがどれほど珍しいことだったか、得難いことだったか嫌になるほど理解したのは、雄次郎が「眞上家」の養子となってからだ。


「例えばその子が人を傷つけたとして、あなた方は責任を負えますか? ……これだけは理解してくださいまし。その幼子は、「人間を喰う」ことで強くなる力を秘めているのです」


 雄次郎は人間ではない。……そのことは覆しようもない事実だ。

 時代が変わろうが、人類の在り方が変わろうが、一般的なホモ・サピエンスにとって、彼は人間を喰らう怪物なのだ。




 ***




 深夜。

 鋭い嗅覚が「美味しそうな匂い」に釣られ覚醒を促した。

 ……血の匂いが誘っている。


 騒ぐ心は本能か、それとも理性か、まだよく分からないままに寝床から起き上がった。……金色に輝き始めた瞳が、夜闇をくまなく探る。


「……外やな」


 窓の外に目をやる。……そして、目が合う。

 雄次郎が窓枠に手をかけたのは、半ば衝動に近かった。

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