第36話 紅葉空と……3

「目的を果たそっか」


 その言葉にうなずきで返す。


「ついてきて」 


 そう言って彼女はドアを開けて、外に出ていってしまった。


 僕も慌てて彼女を追いかける。


 ドアを少し開くと、風が流れ込んできて頬をなでていく。その風はなんだかひんやりとしている。


 決意を決めて、ドアを開く。そこには、草原が広がっていた。


 風が凪いで、波打っている。


「どう、綺麗でしょ」


 彼女はなぜか少し自慢げだ。


 確かに綺麗だ。ここにずっと住んでいたいと思わせるほどに、爽やかな風が流れていて、それが海原のように波打つ草原を作り上げている。


「綺麗だな」


 思わずそんな言葉が溢れる。僕は慌てて口を抑えて彼女の方を見た。彼女は草原の方を見つめている。どうやら聞こえていなかったようだ。


 共感していたら、また恥ずかしい思いをしていた。そんな確信がある。


「ここは私が彼女から間借りしている場所だけど、ほとんど私そのものだからね。そんなに見つめられると、恥ずかしいよ」


 良かった。聞こえなくて本当に良かった。彼女にこれ以上からかわれてはたまらない。


 照れたような顔を見せる彼女を見ると、僕もなんだか照れてしまう。


 普通ならこんなことを言われても全然共感できないと思うんだけど、大分彼女にやられてしまっている。


 ただここでなにか言うと、さっきみたいに僕が恥ずかしい思いをする展開になることは学習しているので、何も言うまいと口を引き締めた。


「でもさっきは褒めてくれて、嬉しかったよ」


 ああ、さっきのは聞こえていたんだな。だめだ。もう、だめだ。


 僕は顔を抑えてうずくまる。


「どうしたの。春ちゃん」


 空はそう優しげな声をかけてくる。


 だが、三回目ということもあって多少は耐性がついていたようだ。すぐに起き上がり彼女の方を向いた。


「行こう!」


 そう言って歩き出す。


「そっちじゃないよ、春ちゃん」


 いや、やっぱり全然だめだった。

 



 しばらく彼女の後ろをついていく。


 風景はずっと変わらない。本当にどこまでも草原が続いているように見える。


 ただ、どんなものにも果てはある。


 ついに、それが見え始めた。


 最初は、陽炎でも見えているのかと思っていた。


 だが、段々とはっきりしてくる。


 草原が波打つ爽やかな光景に似つわかしくないモヤっとしたものが端から広がっている。


「あれが私がここに存在しちゃいけない理由」


 彼女はその場所に向かって歩き出した。


 僕も少し遅れてついていく。


 だんだんとその光景が現れてくる。


 なんと表現すればいいんだろう。


 僕のつたない語彙ではとても言い表せない。


 ただその光景はまるで、セーターの毛糸がほどけていくように、複雑な電子機器が分解されていくように、見えた。


 絡まり合うことで意味をなしていたものが、形を失っていく。


 小説が章に、節に、段落に、文節に、単語に、分解されていくように。


 塩基配列に意味があるDNAが元の塩基に分解されていくように。


 端から段々と世界がほどけていく。


 しかもそれがすごい勢いでこちらに迫ってくるのだ。


「ここは、この場所は言わば私そのもの。それが、壊れていってるの」


 そして、彼女は振り向いて、言った。


「これは、彼女の体が私を拒絶してるから起こってる。私が分かるのは、これだけ」


 突然、酷い眠気が襲ってきた。


 必至に目をこする。顔を叩いて眠気を取ろうとする。


 でも、眠気はさらにひどくなっていく。


「私はもうここから出られない。だからあなたが、あなた達が決めて。それならどんな結果になっても構わない」


 もう耐えられない。


「またね」


 最後に聞こえたのはそんな言葉だった。

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