九月 聴こえぬ声

 秋の長雨とはよく言うが、まさか一週間も雨が続くとは。中学生の寺岡はそう考えながら、傘を握りしめてバスを降りた。何時もと同じ帰り道。じめじめとした空気に嫌気を感じ、溜息を付きながら歩いて帰る。

 ふと、友人との会話を思い出した。取るに足らない、日常会話の一つ。それは彼女の帰り道で、幽霊の声が聞こえると言うものだった。

 寺岡は鼻で笑う。幽霊の声なぞ、毎日通学しているが一度も聞いた事が無いと。だが何故か考えてしまう。それを振り払おうと、寺岡は大好きなアイドルの歌を口ずさ―

「―――――?」

 声が出ない。いや、正確に述べるのであれば、出ているが音になって居ないのだ。と、寺岡は気付く。さっきまで嫌になる程聞えていた雨音が、全く無くなっている事に。

 傘から手を出す。当然塗れる。傘の柄には、雨が傘に当たる振動が伝わる。しかし。音だけが聞こえなくなったのだ。

 自分の耳を疑う寺岡。と、何処かから何かが聞こえて来た。全くの無音な世界で聞こえるそれは……

「……けて……す…て……」




 季節は秋……と言いたいが、残暑が厳し過ぎる今日此頃。夏休み明けの教室では、何故か大怪談大会が開かれていた。

「ねーねー、黒島さんって陰陽師なんだよね。って事は悪い妖怪を退治したり、幽霊を祓ったりするの?」

 このクラスの学級委員長である、櫻葉心音がそう聞いて来る。全く、この騒ぎを鎮めるべきはアンタだと言うのに。呆れた話だ。

「ま、それが仕事だから」

 ウチがそう言うと、周りのクラスメイトは色めき立つ。自分で言うのもアレだが、彼女達からすれば陰陽師は珍しいのだろう。洛中は確かに妖怪が多い。しかしその殆どは無害もしくは友好的で、彼女達が陰陽師のお世話になる事はまず無い。

 しかし。確かこの学校にはウチと翼、神楽の三人以外にも陰陽寮関係者居た筈だ。確か剣道部の副主将の和田竜華先輩とか、図書委員長の三沢環先輩がそうだった気がする。まぁウチと違い、あくまで帯刀たちはきと言う陰陽師見習いだと思うが。

 とは言え。帯刀はあくまで見習い。ウチの様に授業を抜けてまでの出動は無い。そう言う意味で言えば、ウチの方が非日常感があるだろう。

 ウチがそう考えていると、一瞬櫻葉の顔に影が走った。なにかを考えた……いや、決意した様だ。またしても厄介事の匂いがする。やれやれ。


 その日の放課後。ウチが帰り支度をしていると、もじもじとした足取りで櫻葉が近付いて来る。矢張りそう言う相談だったか。

「えっと、黒島さん……」

「何」

 面倒だ。しかし、立場上無視する訳にも行かない。陰陽師とはかくも面倒だ。

 そう考え、溜息と共に櫻葉の方を向く……と。その時。

「おっ邪魔しまー……」

「朱雀〜、い……」

 阿呆が二人揃って突入して来た。そしてウチと櫻葉の方を向き、一瞬で押し黙る。暫しの沈黙。そして何かを納得したかの様に頷いて、二人揃ってドアを閉めようとする。

「まぁ、後は若い二人で……」

 巫山戯んな。

「待て弩阿呆共」

「いでっ」

「あたっ」

 ウチが投げた二本のペットボトルが、阿呆二人のデコを正確にヒットする。これだけのコントロール能力がありながら、何故射撃が下手なのか。これが分からない。

 取り敢えず阿呆二人を回収し、櫻葉の話を聞く事にする。どうせウチが調査を始めれば勝手に付いて来るのだ。なら最初から巻き込んでしまえば早い。

 何だか打算的だが、これが慣れだ。慣れたくも無いが。

「で?」

 そう促すと、櫻葉はおずおずと言った感じで話始めた。

「あの……私の知り合いの中学生の娘から聞いたんだけど……」

「え?彼女?」

 話の腰を折る神楽に、一発頭に扇子を入れる。が、櫻葉はなんだかバツが悪そうな表情に。もしや。

「……ビンゴ?」

 翼がそう呟くと、櫻葉は小さく頷いた。少し嬉しそうな神楽にもう一発入れ、続けさせた。

「ま、まぁ兎に角。その娘がね?幽霊の声を聞いたんだって」

 別に珍しくも何とも無い。しかしそれはウチ等の話だ。普通の人間からしたら、十分に恐怖の対象である。

 幽霊。それは大きく分けて二種類ある。一つは、地縛霊と呼ばれる土地やエリア、物等に染み付いた"記憶"だ。もう一つは、浮遊霊。こっちは何だか良く分からないもの達で、様々な要因(例えば妖力値の高い魂や、神や経立ふったちによって一時的に残ったり)で存在している霊魂の総称だ。

 で。何故かは分かっていないのだが、幽霊を見る事の出来る条件として、妖力値の高さが上げられている。妖力値が高ければ高い程鮮明且つ実態を持って幽霊を見る事が出来、逆に低くければ低い程見えないらしい。

 つまり、幽霊自体は珍しくも何とも無い。姿が見えなくても、声だけが聞こえる事もあるだろう。なのでウチは、適当に札を書いて渡すつもりだった。そこから先を聞くまでは。

「しかもね……?何故か周りの音とか、声とかが出なくなって……怖くなって走って逃げようとしたら、スーツ姿の人達とぶつかりそうになったって」


「神楽、何か噂は掴めた?」

 その日の夕方。現場である相生町を調べながら、ウチは神楽に聞いた。陰陽寮で調べたが何も出ないので、最早噂を頼る他無いのだ。

「一応、それっぽい噂はいくつかあるよ。まぁ、周囲の音が聞こえなくなるってのは……あ、これだこれ」

 神楽はそう言って、スマホを渡して来た。成程。確かにこの辺で「音が突然聞こえなくなった」「何故か少女の声がする」と言う話がちらほら。しかし。ウチが注目しているのはそちらでは無い。

「……残念だけど、スーツ姿の人が集まって居るって噂は無いね」

「でもそれって……」

 能力でレーダーを出し、周囲を調べていた翼が言う。その表情は少し不安気だ。それもそうか。何故なら―

「そう。多分この件、あの写真が関わってる」

 ウチの言葉に、二人は息を呑んだ。




 先月末。ウチ等三人は府警本部の特妖課会議室に呼び出された。そして黒田警部と鮫島警部補は、あの覚事件の被害者が持っていたカメラを見せて来たのだ。

 ほぼ原型を残さない、完全に破壊されたカメラ。それが保存用のビニール袋の中で、と、黒田警部が説明する。

「このカメラを所持していた被害者二名の雑誌会社の調査の際、彼等の直属の上司である編集デスクが不審な言動をしました。詳しくは諸事情でお教え出来ませんが……」

「……このカメラに、証拠がある……と?」

「恐らく。同僚の話では、事件の数日前に記事を揉み消す云々で大騒ぎしたそうです」

 成程、読めて来た。つまりその写真が"何か"を写してしまったから、編集デスクは揉み消さざるを得なくなった訳だ。その結果、躍起になった二人は……と言う事か。

 しかしそれなら、まだ写真が残っているかも知れない。それは本来必要の無い事かも知れない。だがもし、二人の死因が単なる事故では無いとしたら。で、ウチ等は呼ばれた訳だ。

「……神楽」

「あ、うん。ワンモアタイム《もう一度》」

 神楽の能力により、復元されるカメラ。粉砕されたパーツが融合し、拉げたボディが元に戻る。そして……完璧な一眼レフカメラがそこにあった。

「流石ですね……神楽さん」

「えへへ、それ程でも……」

 褒められて満更でも無さそうな神楽。鮫島警部補は直ぐに中のメモリを抜き、ノートパソコンに接続して中身を吸い出した。そして、画像をウチ等に見せてくれる。ウチはまぁ……機械音痴なので、下手に触ると消してしまうかも知れないのでノータッチだ。

「あ、これ覚に襲われる所だ」

「これは……その前に覚を撮影した奴かな」

 翼の操作で、画像が次々と切り替わる。覚の写真や、何処かの井戸の写真。恐らく心霊スポット巡りでも企画したのかもしれない。と、その中に一枚。気になる写真があった。

「翼。一枚戻して」

「あ、うん」

 それは単なる民家の玄関の写真。ドアに貼られた管理会社の名前に見覚えがある所から、洛中の何処かなのは分かる。取り敢えず違和感から調べるか。

「ここ、拡大出来る?」

「えっと……ここ?」

 拡大したのは、家の床下の通気孔部分。そこに、真っ白な何かが写っていた。形からして……人間の頭の様な何か。

「うわ、これ心霊写真じゃん」

 神楽の言葉に、ウチは少し唸る。確かに心霊写真と言えなくもない。が。それ以上に問題なのが……

「翼、今度は左に少しズラして」

 ゆっくりと横移動する画像。そして、玄関と壁の隙間にそれはあった。

「段ボール……?」

 確かに、傍目から見れば単なる白い段ボールだ。だが。そこに書かれていたのは、ウチや特妖なら絶対に間違えないマークだった。

「内務省のマーク……」

 鮫島警部補が小さく呟く。そう。それは内務省でしか使われていないマーク。そんなものが、ただの民家にある訳が無い。そして段ボールの汚れは全く無い。と言う事は。

「……零課だ」

 この心霊写真には、零課が関わっている。そしてそれ故に企画は揉み消された、と言う事だ。


 該当管理会社に画像を持ち込んだ所、帰って来たのは「知らない」の一点張り。洛中狭しとは言え、こんな平凡な民家は腐る程ある。黒島家護衛班で調査をしたが……今の今まで芳しい回答は無い。そう。あんな噂が出て来るまでは。




「……一周しちゃったね」

 結局、探しはしたが何も見付からなかった。心霊写真の家は疎か、その怪奇現象すら無い。一応櫻葉の言う通りのルートで行ったり来たりしたのだが……

「妖力反応も特に無いし……」

「逃げられちゃったんじゃない?」

 神楽はそう言って暇そうに欠伸をした。確かに、写真に撮られたのを危惧して居なくなったかも知れない。だが、それなら帰り道で聞いたと言う声の理由も付かない。噂もこの辺りに集中している。

 と、その時。空からゴロゴロと雷の音がした。雷が苦手な神楽がピクリと反応する。昨日も雨だったが、今日もまた降るのか。

「鞍馬、帰る」

「承知しました」

 雨に打たれながら探す事も無い。面白い様にビクビクする神楽と何てこと無い翼を乗せて、車は我が家に帰った。


 その日の夜。滝の様な雨の音を聞きながら、ウチは写真とにらめっこをしていた。鮫島警部補に貰った、あの玄関の写真だ。日付さえ分かれば糸口が掴めるのだが……残念な事に、我等が技術担当は雷にビビって布団から出て来ない。使えん奴だ。

 済し崩し的に発生した臨時のお泊り会だが、この二人が服に困る事は無い。先月の大量の服が、未だに持ち込まれたままなのだ。ウチの部屋なのに……

「やっぱその写真気になる?」

 翼が髪をドライヤーで乾かしながらそう言って来た。このドライヤーもいつの間にか持ち込まれたものである。よく見たら「翼」と書かれたシールが貼ってあった。と言う事は、神楽用のドライヤーもあるのか。

「でも彼処に無かった。と言う事は違う場所かも知れない」

 洛中は真偽は兎も角、心霊スポットなどジャムにしても有り余る程大量にある。噂に至っては、それこそ山の様に存在するのだ。スーツ姿の人間が大量に居たと言うから、零課が関わっていると思ったのだが……ただの思い過ごしだったか。

 ウチは溜息と共に焙茶を飲む。と、その時。翼が思い出した様に手を叩いた。

「そうだ。思い出した。さっき調べてた時の話なんだけどさ……実は一瞬、ボクの能力のレーダーから朱雀と神楽が消えたんだよね」

「は?」

 それは不思議な話だ。能力は確かに、本人の体力や精神力等に左右される。だが。仮にそうであったとして、神楽は兎も角ウチの妖力を見失うなんてのは有り得ないに等しい。

 更にウチの携帯が鳴る。着信相手は……こんなタイミングだ。一人しか考えられない。

 部屋を出、玄関で開く。相手はやはり先輩だった。

「やっほ〜、朱雀ちゃん。二ヶ月ぶりかな?」

 朗らか過ぎる先輩の声と、不釣り合いな雨の音。外にでも居るのだろうか。

 しかし不味い。なんせ今回の相手は、他でもない先輩のバックである公安零課。釘を挿される程度なら問題無いが……宣戦布告となれば問題だ。流石に国家権力相手に対抗出来る力は黒島家にも無い。

「……何ですか」

「朱雀ちゃんにヒントを教えてあげようと思ってね」

 なんだ、何時ものか。一瞬ホッとする。が。

「私のお友達……って、もういっか。公安零課、追ってるでしょ?」

 やはりバレていた。どうやら誰かが、ウチを常に監視しているらしい。と、先輩は楽しげに笑う。

「大丈夫大丈夫。別に朱雀ちゃんをどうこうするつもりは無いよ」

「……じゃあ、何なんですか」

 ウチが聞くと、少し沈黙が降りる。そして、少し慎重に答えが帰って来た。

「朱雀ちゃんは知らないかも知れないけど、零課は一枚岩じゃない。大きく分けて三つの派閥があるんだ。一つは、内務省公安局現局長の丸善惣吉まるぜんそうきちを首魁とした丸善派。これが零課一番の大所帯でタカ派。次が前局長で現内務大臣の光門善晴みつかどよしはる達光門派。この派も保守派ではあるんだけど、ハト派なの。で、最後が公安局管理官の枝鶴泰山しかくたいざん率いる枝鶴派。若手局員は大体この派閥かな。急進タカ派で……私をしてくれてるのもこの人達」

 保護。保護と言ったのかこの先輩は。一体何故、何から保護されているのか。そう考えていると、先輩は小さく笑う。

「それはヒ・ミ・ツ♪まぁ、朱雀ちゃんならその内分かるよ」

 その内。それは一体何時なのか。と言うかそれより。

「……さっきから大分そちらの事情を話してますが、大丈夫何ですか?」

 突然の零課の内部事情の暴露。信用するかどうかは兎も角、先輩の立場は大丈夫なのだろうか。と、先輩は一瞬沈黙し……大爆笑した。

「あっはっは!朱雀ちゃん、私の心配してくれてるんだ」

 んな訳あるか。

「大丈夫大丈夫!さっき言ったでしょ?零課は一枚岩じゃないの。今一緒に居るのは、丸善派の人達だからね」

 成程。だから悪し様に言っても問題が無い訳だ。

「兎に角だよ朱雀ちゃん。君が今追っている事件は枝鶴派の物だ。だから気を付けた方が良いよ。あの人達、容赦無いからね〜」

 あぁ怖い怖い。先輩はそう言って笑う。しかし、ウチの中ではそんな事はどうでも良い。それよりも……

「先輩」

「何?」

「……何故先輩は、零課に保護されてるんですか」

 一瞬、轟音と共に玄関や窓から光が差す。そして廊下の電気が落ちた。停電か。直ぐに神楽の悲鳴が聞こえて来る。しかし今それに構っている暇は無い。

「……1999年」

「え?」

「1999年。それがヒントだよ、朱雀ちゃん」

 そう言い、先輩は通話を切った。後に残るは、通話終了の電子音と雨の音のみ。

「1999年……一体……」

 ウチはそのヒントを反芻した。一体その年が何だと言うのか。全く分からない。もしかしたら、先輩のヒントで一番謎かもしれない。そう考えつつ、恐らく布団の中で震えているであろう神楽を見に部屋に入った。


「……任務完了です、伊勢崎さん」

 強い雨が降る中、国枝薫はそう言ってスマホを胸ポケットに仕舞う。その目の前に居たのは……兎に角デカい女だった。

 その身長は190を超えるだろうか。長いシルバーブロンドの髪を下ろし、まだ暑い時期と言うのに黒いロングコートを羽織っている。そしてギリシャ彫刻の様な端正な顔に、妖艶な微笑みを湛えていた。

「良かったんですか?こんなに教えちゃって」

 傘をくるくると回し、楽しげに言う国枝。伊勢崎と呼ばれた女は、そんな国枝を一瞥してサングラスを掛ける。そして煙草を咥え、指先から出した青い炎で火を付けた。

「なんの問題も無いわ。と言うか、遅過ぎるくらいかしら」

「まぁ、朱雀ちゃんなら何の問題も無い気もしますけどねぇ」

 そう話していると、闇を切り裂く様な白い光が二人を照らす。車のヘッドライトだ。一台のゴツい黒塗りの4WDが二人の直ぐ側で止まり、中の黒服を着た男が伊勢崎に合図した。伊勢崎はそれを見、国枝の頭を撫でてから乗り込んだ。

「じゃ。後は頼んだわよ、薫。チャオ♡」

 伊勢崎が乗り込むと、車はそっと走り出す。そのナンバープレートには、「防衛省」と書かれていた。




 次の日。ウチは1999年の新聞を母屋の書庫から引っ張り出し、事細かに調べていた。1999年……今から11年前。ウチは五歳だ。正直全く覚えていない。

「う〜ん……やっぱ、日本で起きた重大事件と言えば……」

「新宿大爆発しか無い、か」

 パソコンとにらめっこをしていた翼の呟きに、ウチは答えた。

 新宿大爆発。1999年7月22日に発生した、日本最大の爆発事故。新宿区新大久保辺りを中心に、半径約一キロ近くが突然爆発したのだ。死者、行方不明者は累計で十万人を超える大災害であり、数日前に発生したロンドン大火災すら超える事件である。

 原因は不明。しかし自衛隊の早期の出動や、生存者の証言に共通する「謎の発光」により、隕石の落下が定説となっている。新宿は現在既に復興を遂げており、慰霊碑と記念公園が残るのみだ。

 で、だ。もし仮にこれが先輩と零課の”理由”なのだとしたら……先輩は大爆発の生存者と言う事なのだろうか。だが、何故生存者を保護する必要があるのか。そしてそもそも、新宿大爆発が先輩の言うヒントなのだろうか。

「でもさ、なんで突然1999年何か調べたの?」

 そんな事を考えて頭を捻っていると、翼が不思議そうな顔でウチを見て来た。ウチは、先輩と零課の事を二人に伏せている。理由は……余計な事に巻き込みたく無いからだ。

 もし、仮に。零課と戦争となった場合、この二人に被害を及ぼさない為にも、”知らなくて良い事"は教える必要は無い。その時は、ウチが一人で立ち向かう。

 今回の件だけでは無い。最近零課の動きは活発だし、ウチの周りに偵察を何人も送り込む程には警戒されていると見て良いだろう。となれば、何が連中の琴線に触れるか分からない。ウチは陰陽寮と家の名で御目溢しされているに過ぎない危険物。排除の理由なんて山程ある。

 一つ。希望があるとすれば、零課が一枚岩では無いと言う先輩の台詞だ。タカ派がそれだけ居れば、内ゲバになる可能性も高い。なら、何かあった時には上手く立ち回り、内戦を起こさせる方法もある。最も、先輩の言葉を信じれば、だが。

 それなら事件から手を引けば良い。それはそうだ。しかしそれは言葉程簡単でも無い。現に翼と神楽は既に"此方側"にかなり足を入れている。今更引き返させる事も出来ないだろう。ならばせめて。

「ねえ〜、朱雀ぅ〜」

 ウチがそう考えていると、翼は不満そうな表情で机の下のウチの脚を蹴る。そうだ。今は此方が優先だ。

「何でも無い。少し気になっただけだから。それより、昨日言ってた話だけど」

 先に用意していたあの辺りの地図を広げ、翼に見せる。

「どこら辺でウチの妖力値を見失ったか覚えてる?」

「えっと……多分ここ」

 翼はそう言い、大体真ん中位を指差した。場所さえ分かれば……

 そう思った時。ドアを勢い良く開き、慌てた顔の神楽が入って来た。その手にはスマホが握られており、見覚えのある文字が見える。あの心霊現象書き込みサイトだ。

「出た出た出た!」

「何が」

 ウチが聞くと、神楽は画面を……なんかこう指で動かした。スクロールだかセルロースだか言う奴だ。

「昨日、停電があったでしょ?んで、電力会社がそれの復旧で雷の落ちた電柱を探していたらしいんだけど……」

 一番上の書き込み。それの日付は昨日の夜。時間を見る限り、恐らく停電後だ。

 書かれていた内容は、櫻葉の言った内容と大体同じ。辺りが無音になり少女の声がした、と。そしてそれは、電力会社の社員を名乗る書き込みだけでは無く。

「枝に同じ様な書き込みが一杯あるんだよ。で、場所はあの辺り一帯っぽいんだ」

「成程……」

 やはりあの辺りだ。あの辺りに答えがある。ウチは直ぐに鞍馬を呼び、車を出させた。もう一度調査だ。現場百遍とは言わないが、現場に勝る証拠は無い。


「朱雀、ここだ」

 翼はそう言い、一軒の家の前で止まった。写真とは違う様だが……

「取り敢えず入るか」

「……あ、でも一寸待って」

 ウチがチャイムを押す寸前、翼は不思議そうな表情で言った。

「今の朱雀の反応は見えるんだ。でもなんだろ……なんか不自然に途切れてるって言うか……」

「つまり?」

「何て言うか、その……う〜ん」

 翼は頭を抱えてしまった。どう言う事だ。と、神楽が何かに気付いたらしい。

「あのさ、朱雀……」

 そう言って、神楽は地図を広げる。そして一軒一軒を指差し、チェックを始めた。地図上では十二軒ある家。しかし。

「……一軒、足りなくない?」

 実際に数えると、十一軒しか無い。この地図の発行は去年。しかし新築は見当たらない。と言う事は。

「翼、この家のどっち側?」

「えっと……右……かな」

 ウチは翼の言葉を信じ、ペットボトルを開ける。そして作り出した刀で、家と家の間を―斬った。

 一瞬、ヒヤリとした水に入った様な感覚がウチ等を包み込む。そして気付くと、目の前に何処かで見た一軒の家があった。矢張り結界を張っていたのだ。

「うわ……マジか」

「あ、朱雀!反応消えた!」

 翼の反応を見るに、ビンゴと言った所か。写真を出して見比べるまでも無い。ドアを蹴破ると、埃の積もった廊下が見えた。しかし、妙な違和感がある。

 指で埃を掬ってみた。成程、ふはふはし過ぎだ。つまり、わざと偽の埃を撒いて偽装したらしい。玄関には明り取りの窓もある。そこから覗かれた場合を予測していた訳だ。なんて用意周到な奴らだ。

「……翼」

「駄目。全然何にも映らない」

 一応翼に聞いてみたが、ただ首を横に振るだけ。となれば今回はレーダー無しで調べなきゃいけないらしい。しかし凄い話だ。なんせ零課は、妖力反応を無効化させるシステムを作った訳だ。それを使えば、色々な所で……

 待て。そんなシステム、零課だけで作れるのか。と言うより、この結界も妙だ。切り裂いて内部に入ったが、全く妖力を感じない。感覚阻害だけでは無い。そもそもこの結界自体、妖力によって作られていない……つまり、人工的な結界である。

 考えてみれば妙な話だ。零課の詳しい内情までは知らないが、幾ら一枚岩では無いにせよ、最終的に自分達の首を絞める様な行動をするだろうか。

「……もしや、これも含めて誰かが……」

「朱雀……?」

 翼の不思議そうな声がする。全く。またウチは考え過ぎたらしい。無駄な思考は行動を狭めるだけだと言うのに。

 兎に角この家を調べ、幽霊騒動の原因を調べる。写真に写ったのは恐らく地下だ。で、あるならば。ウチは床を蹴り、音を反響させて階段を探す。何回も何回も。二人は直ぐ察してくれたのか、押し黙って付いて来た。

 と。暫くして、一階隅の物置の辺りの反響に違和感があるのが分かった。多分ここが入口である。それを証明する様に、扉のレール上だけ妙に綺麗である。本来使われていないレールは、他の何処より埃が溜まりやすいのに。

 銃を出そうとする神楽を制し、ゆっくりと扉をスライドさせる。矢張り。そこにあったのは、下へと続く階段である。

 ゆっくりと、ゆっくりと。確実に降りて行く。まさか罠何て無いだろうが、それでも慎重に。降りきると、少し長い廊下の先に扉が一つ。それを開けると……そこの鉄格子の先に、少女は居た。

 少女は白かった。髪も肌も真っ白く、瞳が薄く紫を帯びているのが唯一の色だろうか。服は殆ど下着と言って差し支えない、これまた白いシャツと短パンのみ。アルビノでは無いかも知れない。吸血種……と言う訳でも無さそうだ。

 しかし凄い部屋だ。どう見ても彼女を拘束する為だけの部屋である。ウチ等と彼女を隔てる鉄格子は―まぁウチなら抉じ開けられるが―太くしっかりした作り。まるで留置場だ。明かりが入るのは、地下故か天井側の小さな窓だけ。成程、彼処から彼女が見えていたのか。

「―――」

 その少女は、少し怯えた表情で口をパクパクと動かす。もしかして喋れないのだろうか。と、直ぐにウチを……と言うよりウチの背後を指差す。なんだなんだ。何が―

「あ、これかな」

 そう神楽は言って、ウチの背後にあった加湿器の様な機械のスイッチを消した。途端に、翼の顔が驚きに満ちる。

「―――?」

 何があった。ウチは確かに今そう言った。しかし、口からは何も出て来ない。どうやら翼も神楽もそれに気付いたらしく、互いに顔を見合わせた。これが例の心霊現象の正体か。

「えっと……ごめんなさい!」

 突然、鈴の様な軽やかな声が。いや、音が全くしないのに聞こえたと言うのは可笑しな表現だが……確かにのだ。

 見れば、目の前の少女が頭を下げている。と言う事は、彼女の声なのか。そう考えていると、彼女は頭を上げて困った様な顔を見せる。

「あぅ……これはわたしののうりょくです。しゅういのおとをけして、わたしのこえやおとをあいてにちょくせつとどけるのです。でもせいぎょができないので……」

 辿々しい説明だが理解した。成程、この装置は範囲型能力を無効化出来るのだろう。だから翼は妖力反応を探知出来なくなり、スイッチを切った瞬間に大量の妖力反応を見て驚いた訳だ。

「みなさんのこえはわかります」

 突然彼女はそう言った。隣を見れば、翼が納得した顔で頷いている。恐らくウチの耳には聞こえなかったが、彼女には聞こえている訳だ。しかしスイッチを入れる訳には行かない。なんせそうすれば、彼女は再び無言になってしまうからだ。

 取り敢えずハンドサインを二人に見せ、ウチが彼女に質問した。名前があるのか、と。何時までも彼女では読者が混乱しかねない。

「わたしにはなまえがありません。いつもわたしのおせわをしてくれるひとたちは、じっけんたいってよびます」

 実験体。彼女はそう言ったのか。一体何の実験だろうか。色々聞きたい事が増えた。とは言え、ここに長居しては面倒だ。

 仕方無いので、取り敢えず脱出させる。鉄格子を無理矢理引っ張り、彼女が通れるサイズの穴を作った。神楽が蛮族を見る目で見て来たが、今回は止む終えない。

 彼女に手を貸し、穴から出す。そしてあの妖力妨害装置のコンセントを引っこ抜き、それを握ってスイッチを入れる。と、周りの音が復活した。ウチの妖力は火気と水気がメインだが、金気も少し混じっている。これ位の機械なら暫くは動かせる筈だ。

「兎に角脱出しよう。神楽と翼でその子をガード。ウチはこの機械を持ってくから」

「分かった」

「じゃ、一緒に行こうか」

 翼がそう言うと、白い少女は頷いた。随分聞き分けが良い。見ようによっては誘拐されてるわけだから、大人しく付いて来てくれるのは助かる。

 ウチはウチで、一抱えもある機械を抱えながらゆっくりと階段を登る。結構重いが、なんだか抱き心地が良い。そして再び玄関を開けると……

「黒島朱雀さん……ですね?」

 黒いスーツを着た男が一人、手にグロッグを携えて待ち構えていた。少し離れた場所では、鞍馬の頭に銃口を突き付ける別の黒服が。矢張り零課には気取られていたか。

「まずは武器を……ペットボトルを捨てて頂けますか?」

 優しげに言う、黒スーツの男。しかし銃口はウチでは無く、翼か神楽に向いていた。成程、ウチに銃は効果的では無いのは承知と言う訳だ。ちらりと見れば、あの少女は怯えきった表情をしている。

「拒否権は無いんでしょ」

 溜息と共に、ウチは片手を振る。袖口から出るのは二本のペットボトル。機械を持ち替え、もう一度。そして腰のホルスターの二本も地面に落した。計六本。我ながら持ち過ぎである。

 後ろでは、翼と神楽もそれぞれがマガジンを落とし、スライドを下げて薬室の一発も出していた。常にフル装填だったのかこいつ等。危ない危ない。

 黒スーツはそれを確認し、満足気に頷く。そしてグロッグは下げぬまま、今度は機械を見た。

「では次に……そのジャマーと実験体を我々に返して頂きますね。そうすれば今回の件は、無かった事にしておきます」

 笑わせる。そんなつもりは毛頭無いだろうに。ウチは一瞬、翼達を見た。済し崩し的にとは言え、結局巻き込んでしまったのだ。それはウチの過失である。ならば。

 ウチは機械をゆっくり地面に置き……音が消えた瞬間、地面に手を付いて逆立ち気味にグロッグを蹴り上げる。驚く顔の黒スーツ。が、戦闘音は鞍馬を押えている男には届かない。

 地面にグロッグが落ちると同時に、ウチは手首のスナップで起き上がる。殴り掛かって来た黒スーツの手を取り、捻り上げながら押えて蹴る。鈍い感触。恐らくは折れた。

 一瞬痛みに顔を歪めた黒スーツ。が、直ぐにその腕を無理矢理戻して向かって来る。良い闘志だ。もし零課で無ければ、黒島家護衛班に入れたい位だ。

 もう一度、ウチは首筋を狙って回し蹴りを入れる。と、今度はその足首を掴んで来た。ニヤリとする黒スーツだが、ウチの狙いはそれだ。

「―ッ!?」

 その掴まれた足を軸に、ウチは更に回転して蹴りを放つ。当然狙いは頭だ。重めの一撃が入り、地面に倒れる黒スーツ。起き上がろうとした所をもう一撃。無事な左肩の鎖骨を狙って踵を入れ、倒れた瞬間に背中へ掌底。恐らく一瞬で肺の空気が抜けた筈だ。動かなくなった黒スーツから視線を戻すと、翼が白い少女を、神楽が機械を持っている。取り敢えず何とかはなった。

「あぁ、お嬢様。ご無事でしたか」

 神楽がコンセントを握り、妖力の金気で電源を入れると、出し抜けにそんな声がした。見れば、鞍馬が埃を払ってグロッグをバラしている。ではあの黒服は?鞍馬の足元に倒れていた。

「遅い、阿呆。ウチが来るまでに二人位なら片付けられたでしょ」

「いや〜、それが……」

 何とも歯切れの悪い返事だ。だが、ウチは鞍馬あほうが後ろ手に隠した物を見逃さない。

「……アンタ、まさか何時もの雑誌を読んでたから気付かなかったとかじゃあ無いでしょうね……」

「いえいえまさかそんなお嬢様」

 否定しようとして手を振る鞍馬。が、その瞬間えらく見覚えのある雑誌が落ちた。タイトルは「月刊 執事の友」。特集は「ご主人様に差を着けろ!社交界の執事の流儀」……

「この……弩・阿・呆ッ!!」

 恐らく今のウチなら、あの無音空間でも声をぶつけられるだろう。そう思った。




 取り敢えず、あの白い少女はウチで預かる事になった。如何せん零課に追われる身。黒島家以外でどう保護したものか。そして何時までも”少女”ではアレなので、名前を付ける事にした。

 「初音」。それが彼女の名前である。音に関する能力者なのだから、随分ピッタリな名前だろう。初音自身も偉く気に入り、字を教えたら自分の物に書き入れていた。しかし。初音も黒島家に馴れ、日常になり始めたある日……事件は起こった。

 零課の局員が、ウチに来たのだ。


「どうも。内務省公安局の波津正典ばつまさのりと申します」

 髪を撫で付け、物腰の柔らかそうな男……波津はそう言って、名刺を出して来た。ここは母屋の応接室。離れは現在初音を保護中なので、まかり間違っても近付けさせてはいけない。

「……零課が何の用な訳?」

 取り敢えず要件だけ聞く。と、波津はお茶を飲んでから頭を軽く下げて言った。

「この度は、彼女のをして頂き誠に感謝致します。最近我々の名を騙り、無法を働く者達が増えてまいりまして……彼女もまた、そんな被害者の一人なのです」

 成程、読めた。つまり今回の件は自分達零課では無く、別の組織のせいだとした訳だ。流石は零課。揉み消しに躊躇が無い。

 そして先輩の事を信用するならば、三つの派閥がそれぞれ対立していると見て良い。となれば。今頃初音監禁を実行したとされる枝鶴派は、他派閥からの干渉を跳ね除けるのに精一杯だろう。

「で……あの子の身柄を渡せ、と?」

 ウチが聞くと、案の定波津は首を横に振った。

「いえいえ。それには及びません。聞けば、彼女は当家に既に馴染んでいるそうで。それを引き離す様な真似など、我々とて出来ませんよ」

 どうだか。何時奪還に来ないとも限らない。とは言え、今の反応からするに……暫くは安泰と見て間違い無さそうだ。恐らく初音は現在、枝鶴派にとってアキレス腱とも言える状態だろう。となれば、無理矢理持ち帰る方が厄介な事になる。最悪そこを他派閥に押さえられでもしたら、枝鶴派そのものが無くなる訳だし。

 と、波津は笑顔のまま自身の鞄に手を入れた。そして、中細い箱を取り出す。開けると、中には雫型のネックレスが入っていた。

「それは、我々が取り押さえた犯罪組織が所持していたものでして……妖力を抑える働きをするんですよ。彼女……初音さんと名付けられた様ですが、ピッタリではありませんか?」

 一瞬、ピリピリとした空気が流れる。多分こっそり聞いている黒島家護衛班の誰かの殺気だ。

 何故名前を知っているか。それは良い。しかし初音の能力を詳しく知っているとなれば……零課が完全なる”黒”だと言う証明にもなる。

 初音が来た後、彼女の能力は色々と調べた。その結果分かったのは、彼女は自分の妖力範囲の音を吸収し、自身の発する”音”を代わりに直接届ける能力だと言う事だ。そしてあの機械……邪魔とか言うアレは、周囲の妖力を無効化すると言う無茶苦茶な機能が付いていた。まぁつまり、あの機械が動いている限り初音の能力……「ザ・サイレンス・オブ・ザ・シープズ」は発動せず、あの大量の書き込みがあった日は停電があったから機械が動かず……と言う訳だ。

 兎に角。これの機能が本物なら初音に渡すべきだ。何せ今は、何をするにもあの機械を持ち運ぶ必要があり、自由に動けないのが現状。それが楽になるなら、そうするべきだ。

「……分かった。で、見返りは」

「いえいえ。それには及びません」

 波津は大仰にそう言って、そのネックレスをウチに渡す。そして再びにこやかに笑い、立ち上がった。

「では、私はこれで……あ、そうだ」

 そうわざとらしく手を叩き、胸ポケットから一枚の写真を出す。それには何やら怪しげなビルが写っており、隠し撮りでもした様な画質の粗さが目立つ。だが。看板に書かれた名前は、ウチにかなりの衝撃を与えた。

「このビル……と言うか、『 』を目撃した場合は、我々に連絡して下さい。では」

 ウチは波津が居なくなった後も、その写真を見続けていた。零課も追っていたのか。と言うより実在したのか、と。




「失礼しま……!?」

 東京は霞ヶ関の内務省本庁。腕を釣る三角巾や包帯の白さが目立つ男が報告の為に局長室に入ると、中にいた面子を見渡して絶句した。

 彼の上司である枝鶴泰山は勿論、局長の丸善惣吉と内務大臣の光門善晴までが揃っている。そして、彼等と共に居たのは意外な人物だった。

「お前は……海自特務隊の―」

「は〜い、可愛い子犬にお口チャック♡」

 その人物……伊勢崎がそう言った瞬間、男の口が突然開かなくなった。慌てる男を他所に、枝鶴は話を始める。

「伊勢崎閣下。この度は妖力ジャマーと07式簡易結界発生機の借用を認可して頂き、恐悦至極に存じます」

 深々と頭を下げる枝鶴。伊勢崎は気にしない風に手を振り、あのネックレスを三人に見せた。

「これは渡した?」

「は。部下に言い、黒島朱雀へ渡しました」

「御苦労だった、枝鶴君。君も座り給えよ」

「失礼します」

 光門に言われ、枝鶴もソファの端に座る。そして丸善は伊勢崎の方を見、にこやかに問うた。

「所で伊勢崎さん。今回はどんな御用向きで?」

「あ〜、そうそう」

 伊勢崎は紅茶を口に含み、三人(with黒スーツ)を見渡す。そして軽く微笑み……口を開いた。

「貴方達、勝手に喧嘩するのは良いけど……?」

 一瞬で、室内の空気が変わる。恐怖そのものが部屋を満たし、呼吸の度に三人の身体を支配した。枝鶴は平静を保つフリをしていたが、冷汗が頬を伝う。しかし光門と丸善は動揺の一つもせず、伊勢崎に平然と頭を下げた。

「それは申し訳無い事をした。伊勢崎さん。あの少女……黒島朱雀は貴女の管轄だったか。今後は、もし関わる場合は貴女に一報を入れる。宜しいか」

「……文句無いわ。ただし。ちゃんと連絡しないと?」

 光門の言葉を聞き、伊勢崎は納得した様に軽く頷き、立ち上がる。そして、三人を軽く睥睨してから扉に向かった。

「じゃ。私この後、一ノいちのくら総理と食事会だから。連絡は何時も通り、市ヶ谷にして頂戴ね。チャオ!」

 伊勢崎は軽くそう言うと、手を上げて部屋を去る。その瞬間、誰とは無しに溜息が漏れた。部屋の空気が元に戻る。

「……流石、市ヶ谷の古狸は格が違う」

 丸善はそう言って空を仰ぐ。それを聞き、光門は楽しげに笑った。

「ははは、これしきでビビっては政治屋は務まらんよ。枝鶴君」

「は」

 まだ少し足が震える枝鶴は立ち上がり、光門の前に立つ。光門は入口近くで倒れた黒スーツを顎で指し、苦笑いして言う。

「彼を連れて行ってやってくれ。報告は後で聞くと言ってな」

「御意に」

 気絶した黒スーツを担ぎ上げ、枝鶴は二人に一礼してからドアを閉める。そして吐き捨てた。

「クソッ……化け物共め……」




「あらら〜、もう解体か〜」

 国枝はそう言い、初音が居た家を見る。そこは引越し業者に見せかけた零課の局員が、中の家財道具に見える機材を回収して行く。中には「防衛省備品」と書かれたものもある。

「朱雀ちゃんに見付けてもらう為とは言え、短かったねぇ〜」

「国枝さん。見てないで手伝って下さいよ」

 そう言うのは、普段国枝の運転手兼ボディーガードをしている渡良瀬わたらせだ。今日は引越し業者の格好をし、重そうな箪笥を一人で持ち上げている。

「や〜だよ。私、ただのJKだよ?手伝ったらおかしいじゃん。ね、パパ」

パパじゃ無いですって……」

 溜息を付き、渡良瀬は箪笥をトラックに乗せる。その様子を楽しげに見る国枝の首には、雫型のネックレスが輝いていた……

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