コーヒーと爪と

 ガチャンと耳障りな音が深夜の静かな店内に響いた。

 一瞬顔を歪めた僕は、厨房内の先輩に声をかけると、道具一式を手に音の発生源に向かう。

 ドリンクバーでコーヒーを注いでいたサラリーマンが文句ありげにこちらを視線を送ってきたが、文句を言いたいのは僕の方だった。


「お怪我はありませんか」


 無惨に割れたガラスのコップと、散らばる氷、中身はミルクの入ったコーヒーだろうか。

 白く濁った茶色と床の茶色が混ざり合う。

 床の惨状を横目に、目の前の客にマニュアル通り、まるで心のこもっていない言葉をかけながら客の様子を観察する。

 怪我や服に飲み物がかかったなどは無いようだ。理不尽なクレームをつけられたら堪ったものではない。


 目の前に座っている女の客は、こちらをチラリと見て、「すいません」と僕と同じく全く心のこもっていない声で謝罪を口にした。

 溜息が出かかったのをグッと堪える。

 幸い、こんなガラガラの店内、空席なんていっぱいある。さっさと退いてもらって、さっさと掃除するのがいいだろう。


 鍛えられた愛想笑いを貼り付けて、隣の席に移るように促すと、女は目にかかりそうな黒髪の隙間からこちらを睨め付けるように見て、もう一度「すいません」と小さく零した。


 女が緩慢な動きでふらりと立ち上がる。

 灰色の草臥れたスウェットに、ボサボサの長い髪が垂れる。ささくれ立った細い指先で、ソファに無造作に放られていた財布を手繰り寄せる。


 彼女の心ここに在らずといったようなノロノロとした動きは、反対に僕を苛立たせた。彼女の調子や事情など関係なく、ただ自分の仕事が邪魔されていることに対しての苛立ちだ。それを発散させることもできない為、熱が腑に蓄積されていくようだ。


 冷静さを失いつつある僕は、何の意味もなく彼女の行動を目で追う。

 ようやく廊下に出た彼女の、その足元がふと視界に入ってそのまま視線が固定された。


 灰色のスウェットから出る生白くて細い足首と、数百円程度であろう安っぽい焦茶色のサンダル。

 そしてその先から覗く、真っ赤に塗られた爪が店内の照明の下に晒された。


 床には白く濁ったコーヒーが未だに飛び散ったまま。

 強烈な違和感を発する滑らかで鮮やかな赤色が、僕の目に突き刺さる。


 何が僕を吸い寄せているのか、自分では分からない。先程とは違う理由で冷静さを失って熱に浮かされたような僕の脳は、それでも染み付いた接客マニュアルを思い出したらしい。


「こちらの席にお願いします」


 僕は彼女に負けず劣らずな緩慢な動きで隣の席を指し示す。 彼女はこくりと頷くと、自分の前を通って隣の席に移動しようと歩き出す。

 その時、床に撒き散らされたコーヒーがピチャリと跳ねた。


 あっ、と無意識に口の形が動く。


 跳ねたコーヒーは、ピッとその真っ赤な爪を汚した。


 その瞬間、ぱちんと目の前が弾けた、ような気がした。

 途端に脳内がクリアになるような感覚。

 身体は自由を取り戻し彼女を見やると、既に指示された席に座って再び虚空を見つめながら物思いに耽っている。

 僕など最初から居なかったかのような彼女の振る舞いに、冷めたはずの腑の熱が温度を上げた。 それを無理矢理消すかのように一回大きく首を横に振る。


 徐に床に目をやると、散らばっていた氷が少し溶けて角が丸くなっている。

 溶けてしまわぬうちにさっさと片付けなければ。


 僕はこちらを見ようともしない彼女に「失礼します」と小さく声をかけて背を向けると、掃除道具に手を伸ばした。

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