同題異話SR -May-
きみに会うための440円
僕の部屋の本棚の一角には、百円ショップで買ったガラスの瓶が置かれていて、その中の半分程まで、百円玉と十円玉で満ちている。もう半分になったのか。そうと言えば、また彼女が、瓶いっぱいまで硬貨を満たしに来るだろう。
僕は瓶から、百円玉を四枚、十円玉を四枚取り出す。百円玉と十円玉は最初から、一対一の割合になっている。使う額がいつも決まっているからだ。
計八枚の硬貨は、ジーンズのポケットに入れた自分の財布ではなく、シャツの胸ポケットに入れた。必ず、財布とは分けて持つ。これは僕のお金ではないから。あえて言えば、
僕らの住む
その作詞家が、
葉由は楽曲に歌詞を与えてやるのが趣味で、楽しくてたまらない。才能に満ちあふれ、努力も怠らず、誠心も忘れない。中学二年の頃、友人のバンドの曲の作詞をしたのを皮切りに、高校二年になった今、売れっ子作家と言ってもさして過言ではない。柚子崎町からも依頼が来る。
葉由は作詞をただの趣味として扱い、仕事にするつもりは全くないらしい――将来の夢は公務員、できれば学校の先生、である。だから作詞を請け負ってもお金を取らない。一日の経費、四四〇円だけを頂戴する。
「いやあ、ゴールデンウィークをずっと作詞して過ごせるなんて望外の
葉由は嬉しげにノートパソコンの画面を見つめる。部屋は小さな電気スタンドの明かりで足下が照らされるだけ。カーテンは閉めてある。パソコンの液晶から向く照明で、葉由の笑顔が薄暗さの中に浮かぶ。心底嬉しがっているとしか見えない。作詞をする時の葉由は着飾ることがなく、今日はハーフパンツとTシャツだった。
さて、これが僕にとって迷惑かというと違う。GWを丸々、かねてより片思いをしている相手、つまりは好きな子と一緒に過ごせるという。まさに望外の幸甚である。気づけば五日目、もう五月となっていた。
僕は保冷バッグを葉由に向けて掲げた。中身はいつもと変わりない。この辺りでは、僕の家から徒歩二十秒、葉由の家から徒歩十分弱のところにある自販機でしか買えない、三本の飲料の組み合わせ。特にエナジードリンクは、その自販機以外では見たことがない銘柄。三本合わせて四四〇円。これが一日分の経費だ。
その三本について、僕から確認することがあった。
「順序は?」
葉由はこちらを見ることはなく、画面に目をやったままで答えた。
「エナジードリンク、天然水、はちみつレモン」
そう言うのを受けて、保冷剤を脇に
なぜ僕がGWをずっと葉由と共に過ごせるかというと、大きなライブイベントが今年から始まり、加えて、僕が葉由の助手のようになっているからだった。
僕は葉由の後ろで丸椅子に座り、タブレットで小説を読んでいた。そのタブレットから音が鳴る。葉由が書きかけの歌詞を、アプリを通して共有した。ならば僕はそれを確認する。小説を閉じて、アプリを開こうとタブレットの画面をタップしたところ、葉由が言った。
「
五月二十六日、鷺丘市のライブハウス『
問題なのは、そのイベントに参加するバンドが四十を超えることと、その中に葉由の顧客が、七もいることである。イベントに新曲を間に合わせたいと彼らが思うことも。
あまり目立ちたいわけではないと、葉由は名義を使い分けている。〈葉由〉、〈ayu-fm〉、〈j-uichi〉などと。僕の名前まで使う始末だ。一般には知られないままの合算・七は、計九曲の歌詞を望んできた。もちろん葉由は喜んで全部を受けた。今は九でも、後日には、葉由のもとに届けられた音源は増えているかもしれない。
タブレットをさらにタップする、アプリ上に最初のサビまでの歌詞が表示された。葉由が何をどういう順番で書いているか、前もって示されず、こうして見るまでわからない。音源は前もってタブレットに入れてあって、仮題を確認し、その曲を別なアプリで再生。区間リピートを設定し、サビの後、すぐ曲の最初に戻るようにしてから、再び操作して、また歌詞を表示させた。
葉由の助手というのは、書きかけの歌詞をチェックする役を僕が負っているから。書き途中の歌詞を読み、言葉の定まらない曲を聞き、感性と理性で判断していく。違和感がいくつかあった。
「Aメロがもったいないというか、ボーカルが声を張れるほうじゃないから、発声しにくそう。Bメロ、単純に誤字がある。これ、
ここでようやく葉由は後ろを向き、僕に苦笑を見せた。
「さっすが。これだけばかな歌詞に、ばかが足りないっていうの、寿一くらいだよ」
「じゃあ聞くけど、『トマトは意外と赤い!』の、どこがばかだって?」
僕の役目は、徹底的に寛容にならないことと、葉由ならば絶対にもっと良くできると信じ抜くことである。葉由は諦めたふうに振り返り、パソコンの画面を見た。
「これだから、寿一にさ、後ろにいてもらいたくなっちゃう」
葉由は、つぶやきのようにして、僕が少なからず嬉しくなることを言うのだった。葉由は真剣に画面を見ながら、
「そうだねえ、『プチトマトは意外と
僕は早くも読書に戻り、葉由の意欲を掻き立てるために、わざと素っ気なく言った。
「そういう方向だろうけど、ぎりぎりOKで、歓迎はしたくない程度」
厳しく言われる程に葉由は燃えると――そして楽しむと、重々承知だから言うことである。おそらく、今、パソコンに向く葉由の顔にあるのは笑みだろう。
いつからこうなったのだったか。最初は本当に口実だったのだ。葉由の好きなエナジードリンクは、僕の家の近くの自販機でしか買えない。だから、葉由の家の方角、主に鷺丘駅に用事がある時には葉由の家を経由して、買って届けてやっていた。その時は三本で一セット、すぐには飲まれずに冷蔵庫に収まる。
葉由に会うための額は、本当は六〇〇円だった。それにしたって、僕の奢りではない。葉由があらかじめ瓶に入れておいた硬貨だ。その時は百円玉しかなかった。
今ではどうか、飲み物より、僕の苦言を期待しているというふうなのだ。葉由に会うための四四〇円と言うと、きっと正確ではなくて、作詞を手伝うついでの四四〇円、そう表したほうがいい気がする。
タブレットから通知音が鳴る。歌詞がまた共有された。珍しく葉由は立ち上がり、部屋の電気をつけたので、ひどく驚かされた。明るいと歌詞に集中できないと、それがいつもの葉由のはずだ。
「こんなこと続けてると、みんな感謝してくれたり、顔が広くなっちゃったりで、頼み込むまでもなく、喜んで受けてくれてね。ありがたいよ」
葉由が何を言おうとしているのか、わからなかった。何か答えがあるのだろうかと、僕はタブレットで歌詞を読む。まずは仮題を見るが、そこで戸惑う。今まで一度も見たことのないタイトルで、ならば無論、音源も受け取っていない。
表示されたタイトル、それは――
――『きみに会うための440円』
「その歌詞だけは、寿一のチェックは要らないよ。それで完成」
歌詞を見る。素朴で、素直で、今までの葉由にこんな作風はなかった。バンドに合わせた歌詞を書く葉由だから、対応するバンドがあるはずなのだ。
「いったいどのバンドが? こんなふうに僕たちのことを?」
そうとしか思えなかった。歌詞として書かれていることは具体的で――のみか、〈ジュイチ〉と〈はゆ〉の名前まで出てくる。歌詞の中でもまた、現実と同様、三本合わせて四四〇円の飲料が届けられている。
「どのバンドでもない、かな。その一曲のためにだけ、特別に組んでくれるって」
席に戻ってから、すぐ後ろを向く姿勢になって、葉由はにこりと笑う。いたずらが成功したみたいな顔をしている。
「それさ、あたしが歌詞を書くために、一曲作ってもらったやつ。バンド名は〈
葉由は大げさに驚く仕草をした。ジュリエットという響きから思い出される、葉由の歌詞で歌ってくれていたバンドはあった。しかし、七人では人数が合わない――五人組で、そのうえ、今は活動休止となっている。他からも加わってくれたということなのか。葉由はその点を言い足した。
「ジュリエットの
どうにも
「バンド名、やっぱり揉めたらしいんだけど、母体のバンド名じゃなくって、ジュイチの名前にちなむってことで、〈
返事のできないまま、僕は歌詞を目で追う。書いてある。正反対のことが書いてある。
――きみはまだ気づいてないね
――きみが会うためのものじゃない
――あたしが会いたいものなんだよ
僕は首を動かす。肩から力を抜き、息を吐く。いつも通りに苦言を言う。
――あたしがきみを好きなんだよ
「それだけお膳立てして、僕にふられたらどうするつもりだったの?」
正反対のことが書いてある。
――あたしが会いたい
「普通に泣く」
と、葉由は真剣な顔で言うので、もうこれ以上は指摘を重ねられなかった。
ひとつのイベントに出るバンドだけで、合算・七なのだ。関係者にはすっかり名の知れた作詞家。常連さんだけでなく、一曲だけ歌詞に参加したバンド、歌詞の手直しだけに関わったバンド、数えていくときりがない。七人組編成のバンドで足りないほどに、葉由の、あるいは僕たちの徳は積もっていたのか。
――きみが来てくれる
葉由はいったんノートパソコンを閉じて、改めて僕に向き直り、照れながら言った。
「その、あたしと一緒に、その曲、聞きに行ってもらえると嬉しいんだけど。ええと、できれば、恋人として」
――あたしが会いたい
――きみに会うための
――440円
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