9:大学二年<19歳> 好きだった人

 まだ梅雨が開けきらない蒸し暑い午後、私はとある会社を訪れた。

 塩原園長に教えられたナナの職場だ。

 メモ用紙を受け取ったが、訪れる勇気が持てないまま二ヶ月が経っていた。

「鍵を見つけに行くの、着いてきてくれませんか」

 私は麻美先輩にそう言った。これは多分甘えだ。それでも麻美先輩は深く事情も聞かずについてきてくれた。

 そこは大手企業の物流センターだった。ナナは学校を辞めてからここでアルバイトをはじめ、今年の春、契約社員になったと塩原園長から聞いた。

 物流センターは大きな倉庫のような作りで、道路に面した一角はトラックを着けるために開放されている。だから敷地の外からでも少しだけ中を覗くことができた。

 だからといってナナを見つけられるとは限らない。見えるのは広い倉庫のごく一部に過ぎない。

 私は麻美先輩の手を握って倉庫内が見える道路をゆっくりと歩いた。先程まで降っていた雨で道路は濡れていたが舗装したてのような滑らかな路面に水たまりはない。

 麻美先輩は何も言わず私の横を歩いてくれた。

 倉庫に面した道路を端まで歩き、そのままUターンする。トラックの出入りや荷物を運ぶ人たちの姿を眺めながら、私と麻美先輩はゆっくりと歩いた。

 そして三往復目の途中で私は足を止めた。

 一人の女性が倉庫の端に立ち、顔を突き出して天を仰いでいる。天候を確認しているのだろう。さらに手を出して雨粒が落ちていないことを確認していた。

 濃い茶色の髪のショートカットで、デニムにTシャツというラフな服装をしている。Tシャツの袖は左側だけ肩までまくり上げていた。

 髪型も髪の色も変わり、面立ちも幾分か大人びた雰囲気になっていたが、それは間違いなくナナだった。

 私は呼吸が浅くなるのを感じた。反対に心臓は大きく脈を打つ。

「あの人がセイラの鍵?」

 麻美先輩が静かに問う。私はナナから目を離さずに頷いた。

「好きな人?」

 私は首を横に振る。

「好き、だった人、です」

「フラれたの?」

「フラれたのかな? 気付いたときには終わってて、告げることもできませんでした。何より私は彼女にひどいことをしました」

 手が震えて自然と麻美先輩と絡めていた指に力がこもる。

「今でも忘れられない?」

 麻美先輩の言葉に私はどう返事をすればいいのか迷う。

 視線の先でナナが同僚と思われる若い男性と親し気に話をしている。再び空を見上げたり、現場を見渡したりしたあと、倉庫内を指さしながら何かを言っている。何か仕事のことを話しているのだろう。そしてナナは口を開けて笑い、男性の腕をバンバンと叩いた。男性は叩かれた腕をさすって痛そうな顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべてナナに何かを言う。

「忘れたことはないです。でも、ずっと思ってたわけじゃない。ときどき、どうしてるだろうって思い出してました」

「そういう意味じゃないんだけどな」

 私は麻美先輩を見た。

「やっとこっちを見たね」

 そう言うと麻美先輩はニッコリと笑う。

「ちょっと場所を移そうか?」

 麻美先輩はそう言って歩き出した。手を引かれて私も足を進める。

 なぜか足が重くなかなか前に進まない。私は振り返ってもう一度ナナを見た。ナナはあんな笑い方をしていただろうか。楽しそうに笑うナナを見ながら思った。

 麻美先輩に連れて行かれたのは麻美先輩が暮らす部屋だった。駅から少し離れた場所にあるちょっと古いマンションだ。エレベーターのないマンションを五階まで上ると少し息が切れた。

 はじめて入った麻美先輩の部屋の中は、外観程古さを感じさせない明るい清潔な雰囲気だった。

 大学生の一人暮らしの部屋にしては少し広い。ワンルームだが大きめのベッドが置いてあってもまだ充分に余裕があった。

「適当に座って。アイスコーヒーでいい?」

「はい」

 私はラグマットの上に座って麻美先輩を眺める。

 冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して氷を入れたグラスに注ぐ。麻美先輩は両手にグラスを持って私の側まで来ると、ローテーブルの上にグラスを置いた。

 ガムシロップもフレッシュも必要ない。私と麻美先輩はそれを確認しなくてもいいくらいの時間を一緒に過ごしている。

 麻美先輩が私の隣に座る。グラスの中で氷がカランと鳴った。

「部屋、広いですね」

「駅から遠いし古くてエレベーターもないから家賃はそんなに高くないんだよ」

 そしてコーヒーを一口含むと「この部屋が私の鍵」と言った。

 私は麻美先輩の横顔を見る。涼し気でそこからは何の苦悩も垣間見えない。

「セイラが鍵を見せてくれたから、私も、ね。この部屋、前は二人で住んでたの。一緒に住んでたその人のことが好きだった」

「先輩は、その人のことが、忘れられないんですか?」

「そうなのかな? またひょっこり帰ってくるんじゃないかと思って、この部屋から離れられずにいるんだから」

 私はなんと言っていいのかわからない。かつて好きだった人の面影が残る部屋で一人、麻美先輩は何を思っているのだろう。

「いつもあの人のことを思っているわけじゃないよ。でも、ときどきふと思い出す。セイラと一緒」

 麻美先輩は笑っていた。でもその横顔は今にも泣き出しそうに見えた。

「私、麻美先輩のことが好きです。本当に好きです」

「私もセイラのことが好きだよ。だから私たちは惹かれあったのかもしれないね。二人とも心の中に足りないものがあって、それを埋めたいって思ってる」

 麻美先輩が私を見つめる。

 私も麻美先輩を見つめた。

「ごめんね。私はセイラのことを利用してる。セイラも私を利用していいよ。だから、もう少しだけ、一緒にいよう?」

 麻美先輩の手が私の肩に触れ、ゆっくりと顔が近づく。私は目を閉じた。

 唇にあたたかな感触が触れる。私は舌先でそのやわらかさを確かめるように先輩の唇をなぞった。

 抱きしめ合いその温かさを分け合う。体にかかる重みが、確かにそこに先輩がいることを実感させる。

 いつか先輩が私のことだけを好きになってくれればいいのにと思った。

 そして私が、先輩のことだけを好きになれればいいのにと、心から思った。

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