8:大学二年<19歳> 新しい日常

 ときどき、ふとナナのことを思い出す。ナナは今どこで何をしているのだろう。

 ナナは私との約束を破った。その理由はわからない。

 あのときは私のせいではないと言ってくれたけれど、本当は怒っていたのかもしれない。

 いつもナナに小言を言ってまとわりついていた私のことが迷惑だったのかもしれない。

 だから私は自業自得だと納得した。私がナナのことを好きになって、ナナとの時間を独り占めしようとしなければ、あの退学は避けられたかもしれないのだから。

 あれから私はナナを追い出した学校を軽蔑し、ナナを追い詰めたクラスメートを蔑み、ナナを救えなかった私を呪いながら、表面的には平穏な日々を過ごした。

 クラス委員はあれ以降引き受けず、ただ淡々と勉強だけをして一位を取り続けて卒業した。

 誰にも気づかれなかったとしても、ナナとした勉強会があったことを証明したかったのだ。そんなことには何の意味もないことはわかっていたけれど、ナナと過ごした時間が確かにあったのだと感じたかった。

 ナナが退学をしてからナナのバイト先のファミレスに何度か足を運んだがナナの姿を見ることはなかった。店長やバイト仲間に聞いても行き先を知らないと言われた。

 もちろん『てんま園』で塩原園長も問い詰めた。だが「教えるなと言われててね」と申し訳なさそうに告げられただけだった。

 ナナが約束を守るのはきっとこの塩原園長の教えだろう。だったらいくら聞いても、塩原園長はナナとの約束を守って教えてくれないはずだ。

「すまないね。けれど、あの子にも何か考えがあるんでしょう。きっといつか連絡してくるだろうから、少し待ってあげてくれませんか」

 そう言われてから二年半が経っても、いまだにナナからの連絡はない。

「セイラ」

 名前を呼ばれて私は振り返った。肩にかかるほどの長さの髪をなびかせて駆け寄ってきたのは、如月麻美先輩だった。

 サークルで話すようになり、少し前から付き合うようになった。

 大学に入ってから五人目の恋人であり、三人目の彼女だ。一年と少しで五人というのが多いのか少ないのか分からない。だが付き合って一カ月も経たずに別れた人もいるので、あまり長続きしないタイプではあるのかもしれない。

 長続きしないのはナナが原因だとは思わない。ただ好きだと気付いた瞬間に別れのときを迎えたことへの反省から、好感を持った相手とは付き合ってみようと思っているのは事実だ。

 最初に付き合ったのは大学に入学してすぐに知り合った同級生の女の子だ。猫のようなクリッとした目が印象的で私から声を掛けた。

 しかしたった二週間で別れることになった。私に悪いところがあったのか、それとも相手に原因があったのか、そもそも相性が悪かったのか。短い期間で別れることになった理由はよく分からなかったが、その子と付き合ったことで私は何かが吹っ切れたような気がした。

 私には友だちを作るにも恋人をつくるにも決定的に経験値が少ない。あれこれ思い悩んでもその答えは見つけられないだろうと思った。

 ナナのことを好きになったので私はレズビアンなのかとも思ったが、男性と付き合うことにも抵抗感はなかった。むしろ男性の方が楽だとすら感じる。それは男性の方が好ましいという意味ではなく、相手が求めているものが分かりやすいからだ。それを提供すれば相手にある程度納得してもらいやすいような気がした。

 同性の場合、少し複雑で相手が望むものが分かりづらい。それに恋人でありながら対抗心のようなものを抱かれてしまうこともあった。

 だがこと肉体関係においては女性の方が断然相性がいいと感じてる。そもそも男女問わず相手の体に欲情すること自体があまりないのだが、それでも女性の体の方に魅力を感じることの方が多い。

 そう考えるとレズビアンよりのバイセクシャルというよりは、男性に抵抗感の少ないレズビアンと言った方が近いのかもしれない。

 しかしそんな分類分けに意味なんてない。

「ねえ、セイラ? また難しいこと考えてる?」

 麻美先輩が私の顔を覗き込むようにして言った。

「そんな顔してました?」

「うん。どこか違う世界を漂ってるみたいな顔してた」

 私は首をひねる。こうして考え事に没頭しているときの顔は自分では見たことがない。

 これまでの恋人たちはこんな私に嫌気がさして私の元を去って行ったのだろう。だが変わり者の麻美先輩は、私のそんなところが気に入ったと言ってくれている。

 だからというわけではないが、なんとなく麻美先輩とはこれまでの誰よりも長く付き合えそうな気がしていた。

「今度は何を考えてたの?」

「自分のセクシュアリティーについてです」

「その結論は出た?」

「そんなのは結構どうでもいいことだな、っていう結論が出ました」

 すると麻美先輩は楽しそうな笑い声を上げながら「やっぱりセイラは面白いね」と言った。

 私と麻美先輩は、『SFSサークル』に所属している。日本語に訳すと『少し不思議探求サークル』だ。世の中にある少し不思議だな、と思う事柄を探求していくという、かなりざっくりとした活動をしている。

 どう考えても怪しげなサークルだったのだが、サークル展示の中に『人はなぜ恋をするのか?』というテーマの考察があった。結論には至っていないその考察を読む中で「どの瞬間から恋になるのか?」という一文に興味を持った。

 ナナに恋をしていると気付いたのは別れの日だった。けれど私はきっとその前からずっとナナに恋をしていたはずだ。だが思い返してみても、どの瞬間からナナへの想いが恋になっていたのか分からなかった。

 このサークルに入ればその謎が解けるとは思わなかったけれど、そんなことを真面目に考えている人がいるのなら入ってみてもいいと思った。

 付き合いはじめてから麻美先輩があの考察を書いた張本人だと知り、驚いたのと同時に納得してしまった。

 付き合うきっかけは麻美先輩にからの告白だったのだが、その告白の言葉がまさに麻美先輩らしいものだったからだ。

「ずっと観察してたんだけど、セイラって本心では何を考えてる全然わからないよね。そこがとっても不思議。だから、探求させてくれない?」

 私はその言葉が告白だと気付くまでに三日かかった。そして三日後「麻美先輩も相当不思議なので、探求させてもらっていいですか?」と返事をしたのだ。

 私は私自身のことがよくわからない。だから麻美先輩にそれを解き明かしてもらいたいと思っている。

「今度は何を考えてるの?」

「麻美先輩の不思議はまだまだ解明できないな、って考えてました」

「それはこっちの台詞だよー」

 麻美先輩はうれしそうに笑って私の手を握った。

 手を握ると温かい。そんな当たり前のことがちょっとうれしいと感じる。私は多分、かわいくて不思議な麻美先輩のことが好きだ。麻美先輩と話の波長も合う。肌を合わせるのも心地いい。

 けれど何かが足りないような居心地の悪さを少しだけ感じてしまう。きっとそれは麻美先輩のせいではなくて、私の心の中に問題があるんだと思う。その問題は麻美先輩にも私自身にもまだ解き明かすことができない。

「ねえ、今週末空いてる?」

「あ、ごめんなさい。週末はちょっと予定があるんです」

 麻美先輩の誘いを断るのは心苦しい。先約よりも麻美先輩を優先した方がいいんじゃないかとも思う。それでも私はそれを踏み切ることができない。

「あ、ボランティアの日だった?」

「はい」

「そっか。うーん、もしかして、そのボランティアにセイラの不思議を解き明かす鍵があるのかな?」

 麻美先輩はそう言うとじっと私の目を覗き込む。私はなぜかドキッとした。

「それなら……一緒に行きますか?」

 私は麻美先輩に私の心を解き明かしてほしいと思っている。ボランティアが鍵だというのなら、麻美先輩にも一緒に来てもらえばいいだけのことだ。

 だが麻美先輩はとてもやさしく笑って「今回はやめておく」と言った。

 解き明かしてほしいと思っていたはずなのに、麻美先輩が来ないと言ったことにホッとしていた。

そして麻美先輩は「私、まだセイラと一緒にいたいもの」という謎の言葉をつぶやいた。



 週末、私は予定通り一人でボランティアに来た。

 見慣れた児童養護施設『てんま園』の玄関を入ると、塩原園長と子どもたちが出迎えてくれた。

 高校三年の頃から、私は月一回のペースでここにボランティアに来ている。

 最初の頃はナナの行方を知るために通いるつめていた。

 そうしているうちに園の子どもたち顔見知りとなり、頼まれて勉強を教えるようになったのだ。

 塩原園長をどれだけ問い詰めてもナナの所在を教えてもらえないと諦めかけていた頃だった。だから私はボランティアで勉強を教えに来るという口実を作ったのだ。

「ナナにも勉強を教えてたし、教えるのにはちょっと自信があるんです」

 私は大見得を切ったが教えることに自信なんてなかった。ナナは優秀だったから細かく教える必要なんてなかったからだ。

 けれど私の言葉を聞いた塩原園長は笑顔で納得してくれた。

「ナナは、勉強できるのに教えるのが下手でね。でも、あるときから少しずつ教え方が変わってきたんですよ。あなたがナナに教えてるのを真似してたんですね」

 その言葉に泣きそうになった。

 それからナナの所在を知ることを諦めてもボランティアは続けている。

 月に一回しか来られないため、朝から夕方まで園にいて子どもたちがその間、自由に教わりにくるスタイルをとっている。

 たいしたことは教えられない。これがどれだけ園の子どもたちの役に立っているかもわからない。それでも勉強に対する不安を少しでも解消することで子どもたちの力になれるのならば、少しは憧れたナナに近付けるような気がした。

 ボランティアの時間が終わり、帰り支度をして塩原園長に挨拶に行った。

「今日もお疲れ様でした。毎回ありがとうございます」

「いえ、たまにしか来られなくてすみません」

「とんでもない。とてもありがたいです。むしろ森内さんに無理をさせていないか心配です」

「無理なんてしてません。私もここに来るのが楽しみですから」

 そうして帰ろうとしたとき、塩原園長が一枚のメモ用紙を差し出した。そこには大手企業の名前と住所が書かれていた。

「これは?」

「あの子がまだここに住んでいたとき、森内さんのことを話していたことがあるんですよ。いっつもがんばってて、がんばりすぎるから心配だって。学校の友だちの話をしたことなんてなかったのでビックリしましたよ」

「ナナがそんなことを?」

「二年半。本当に森内さんはがんばり屋さんですね。感服しました」

 塩原園長がなぜ突然そんな話をするのかわからず、私は黙って言葉の続きを待った。

「この間、フラッとやって来て契約社員になるから保証人になれって書類を持ってきたんです」

 私はメモ用紙にもう一度視線を落とす。

「ここにナナが?」

「あの子もちゃんとがんばってるみたいですよ」

「あ、あの、でも、約束はいいんですか?」

 塩原園長は私に住所や仕事先を教えないと約束をしたはずだ。ずっと守ってきた約束を突然反故にする理由がわからない。

「ナナとの約束は新しい住居とバイト先を教えないこと、でしたからね。その住所はバイト先ではなくて、ナナが契約社員として勤める職場の住所です」

 塩原園長はやさしく微笑む。私は深々と頭を下げてメモ用紙を握りしめた。

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