10:23歳 麻美先輩

「乾杯!」

 ガヤガヤとうるさい居酒屋の一角で、私と麻美先輩はカチンとジョッキを合わせた。

 私は中ジョッキの三分の一程のビールを一気に流し込んでカラカラに渇いた喉を潤す。

「プハー、おいしい」

 私がビールジョッキをテーブルに置くと、麻美先輩はクスクスと笑った。

「すっかり社会人っぽくなったじゃない」

「そうですか?」

「そのビールの飲みっぷりは、もう立派な社会人だよ」

「そんなところは社会人っぽくなりたくない!」

 麻美先輩と飲むのも久しぶりだった。

 麻美先輩と別れてからすでに一年以上が過ぎている。付き合った期間は二年に少し足りないくらいだった。付き合いはじめたときの予感の通り、麻美先輩とそれまでの誰よりも長く付き合うことができた。それでも、ずっと一緒にいることはできなかった。

 別れの直接的な原因は先輩が卒業を控えて忙しくなったことと、私が就活で忙しくなったことが重なったためだ。だがそれがなくても私たちはいつか別れることになっていただろうと思う。

 私たちはお互いの心の中の欠けたものを埋めるように一緒に過ごした。それはとても楽しく居心地の良い時間だった。それでも、どれだけ時間を積み重ねたとしても欠けたものを埋めることはできないとお互いに悟っていた。

 私は麻美先輩のことを今でも好きだし、麻美先輩も私のことを好きでいてくれると感じる。けれどその想いは恋ではなく親愛であり友情だ。

 麻美先輩はお通しの枝豆を指先でひょいとつまむと取り皿に豆を出した。その作業を何回か繰り返すと箸で一粒ずつつまんで口に入れる。

 これは付き合っていた頃から麻美先輩がしているクセだ。はじめて見たときにはびっくりしてツッコミを入れたものだ。

「だって、サヤの中に豆じゃないものが入ってるかもしれないじゃない」

「豆じゃないものって何なんですか?」

「緑の妖精さん?」

 麻美先輩はそう言ってフニャフニャと笑ってみせた。私はそれを笑いながら否定したけれど、結局私も麻美先輩と同じ食べ方をするようになっていた。就職して最初の飲み会で同期に指摘されて恥ずかしい思いをしたのは最近の話だ。

 今、麻美先輩の皿にも私の皿にも枝豆の豆がコロコロと転がっている。付き合っていた頃の痕跡がこうして残っているのを確認すると、くすぐったいような、うれしいような、悲しいような不思議な気持ちになる。

「ところ先輩、彼女とは最近どうなんです?」

「うまくいってるよ」

「私と飲んでて、彼女に怒られませんか?」

 すると麻美先輩は少し首をひねり、ちょっと怪しげな笑みを浮かべた。

「それは、私ともう一回どうにかなりそう、ってこと?」

「違いますよ。先輩もその気もないのにそういうこと言わないでください」

「えへへ」

 麻美先輩が舌を出して笑う。そして一息ついて話を続けた。

「彼女と一緒に住もうと思ってるんだ」

「あの部屋に、ですか?」

 私が言う「あの部屋」とは、麻美先輩が以前の彼女と同棲していた部屋のことだ。

 麻美先輩は首を横に振る。

「新しい部屋を探してる」

「そうですか、よかったですね」

 私は心からの言葉を贈る。麻美先輩にとってあの部屋を出るのは大きな決断だったと思うから。

 今の彼女が麻美先輩の心の隙間を埋めて、麻美先輩に一歩踏み出す勇気を与えたのだ。それが私でなかったことを少しだけ寂しいと感じるのはただのわがままでしかない。私たちは互いに欠けているものに気づきながら目を背けて傷を舐めあっていたにすぎない。

 麻美先輩の彼女に一度会ったことがある。最初の印象は『意外』だった。麻美先輩のタイプではないように見えたからだ。だが彼女と対面したわずかな時間の中でも、彼女が真剣に麻美先輩と向き合おうとしていることを感じられた。そしてそれは麻美先輩も一緒だった。

 私と麻美先輩に決定的に足りなかったことだ。傷つくことを恐れてそっと気付かないふりをし続ける。それは温かい毛布に包まれているような心地良さだったが、本当に必要だったのはその毛布を引き剥がす勇気だったのかもしれない。

「それで、セイラの方はどうなの?」

 麻美先輩がニヤリと笑いながら言う。

「えー、何にもありませんよー」

 私はあえて軽い口調で言うが、麻美先輩の目は私を見つめたまま動かない。

「そんな目で見られても、本当に何もないんですって」

 麻美先輩が意味深な目で私を見るのには理由がある。私が就職した会社がナナの勤めている会社だと知っているからだ。

 就活中、多くの企業を調べて、いくつものエントリーシートを送った。その中のひとつに今の会社があった。

 就職先の候補として挙げたのは、会社自体に魅力を感じたというのもある。だがやはりナナがいるからという理由が大きかった。

 大きな会社だし、万一就職できたとしてもナナと顔を合わせる機会などないだろうと思っていた。麻美先輩と一緒にナナの姿を見に行ってから一度もそこを訪れてはいない。だからナナが勤め続けている保証もなかった。さらにいえば内定などもらえないだろうとも思っていたのだ。だからこそ応募することができた。

 これで落ちたら本当に縁がなかったのだときっぱりと忘れようと心に決めていたのだ。

 だから内定が出たときには焦って麻美先輩に電話をかけてしまった。

―― それはもう入社するしかないんじゃない?

 電話の向こうで麻美先輩は軽く言った。

「いやいや、でも……、今更どんな顔して会えばいいんですか」

―― まだ勤めているかもわからないんでしょう?

「そうですけど、勤めてるかもしれないし」

―― 大きい会社だし、会うとは限らないんでしょう?

「でも、会わないとは言えないじゃないですか」

 すると麻美先輩はあからさまに大きなため息を付いた。

―― 会えないかもって言いながら、本当は会えることを期待していたからその会社を受けたんでしょう? もういい加減に認めちゃいなさい。

「でも、ナナには迷惑かもしれないし……」

―― 迷惑だと言われてきっぱりフラれるなら、それはそれでセイラにとっていいんじゃない? 思い切ってフラれてきなさい。私がちゃんと慰めてあげるから。

「フラれる前提で話をしないでくださいよ」

 そんなやり取りがあって私は今の会社への就職を決断したのだ。

「本当にまだ何にもないんです。ナナの部署を変わっていなければ物流だろうし、私は本社だし。顔を合わせる機会なんてありません」

 私の言葉に、美先輩はニヤリと笑った。

「まだ、ってことは、これからありそうなのね?」

 大学時代、不思議を探求し続けてきただけあって麻美先輩はときどき鋭い。

「うぅ……。実は、ウチの会社、基礎研修のあと、ジョブローテーションで色んな部署を回るんです。本人の希望と人事の判断でどこに行くかを決められるんですけど……」

「ナナさんのいる物流に行くことになったんだ」

「一応、希望は書きましたけど物流も一つじゃないし、ナナの所に当たるとは限らないし、人事がどう判断するかわからなかったし」

 話しながら私はなぜこんなに言い訳をしているのだろうと思った。

「本当にセイラは考えていることも行動もちぐはぐね。そんなところが面白くて好きよ」

「ありがとうございます……」

 私はがっくりとうなだれた。

「それで、いつから行くの?」

「週明けからです」

「だから、私を呼び出したんだ」

「すみません」

「あのね、セイラ。私たち結構長く付き合ってたよね?」

 麻美先輩は真面目な顔で私を見つめて話す。

「別れちゃったけど、付き合った時間が無駄だったなんて思わないよ。今、彼女と一緒に前に進もうと思えるのは、きっとセイラと過ごした時間があるからだと思う。セイラと出会っていなかったら、今、彼女と一緒にいることはできなかったかもしれない。それくらいに大切な時間だったと思ってる」

「先輩……」

「セイラだってそうでしょう? 高校生の頃のセイラのままじゃない。今だからできることがあるんじゃないの? それにナナさんと会うことだって、決して無駄にはならないと思うよ。どうなるのか私にはわからない。だけどそれは、セイラにとって必要なことなんじゃないのかな?」

 私は麻美先輩に背中を押してもらいたかっただけなのかもしれない。それを分かっていて麻美先輩はちゃんと背中を押してくれる。

 いつまでも麻美先輩に甘えてばかりではいけないと思うのだけれど、もう少しだけ甘えさせてほしい。私にはまだ一人で踏み出す勇気が持てない。

「さっきも言ったでしょう? 傷ついたら、ちゃんと慰めてあげるから安心して」

「そんなこと言って、彼女に怒られませんか?」

「大丈夫よ。私の彼女はそんなに狭量じゃないから」

「そうですか、ごちそうさまです」

 私の言葉に麻美先輩はうれしそうな笑みを浮かべた。

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